【第148話】未来へ渡る筆
三月の終わり。
街には春の匂いが戻ってきていた。
天童あすかは、卒業式の翌日、自分の部屋で久しぶりに硯を出した。
教師として初任校が決まり、来月からは教壇に立つ。
でも今日はただ、「書きたい」という気持ちに従って、筆を握っていた。
半紙の真ん中に、ゆっくりと書く。
「育」
子どもたちを育て、自分も育つ。
あの書道部で、たくさんの想いに育ててもらったことを思いながら。
その筆跡は、昔のように豪快でいて、どこかやさしかった。
そのころ、東京では佐々木志津香が個展の準備に追われていた。
卒業制作で「筆の余白」というテーマに挑み、注目を集めた彼女は、春に小さな展示会を開くことになっていた。
志津香は、個展の最後に飾る一枚をまだ書いていなかった。
静かなアトリエで、一枚の紙に向き合う。
書いたのは――
「灯」
誰かの心に、小さくても火をともすような作品を。
志津香はそう思って筆を走らせた。
「かつてのあの子たちみたいに、誰かがこの字を“見てくれる”なら」
彼女の書は、静かに光を放っていた。
一方、地元では山下真理子が書道教室の新年度案内を作っていた。
手伝いから正式な助手となり、週に二度、子どもたちに筆を教えている。
その教室の壁に、自分の新しい作品を飾ることになった。
真理子は、静かに墨をすりながら、自分自身に問いかける。
「私は――なんのために書いてるんやろ」
ふと浮かんだ一文字が、なぜか涙を誘った。
筆先が震える。
でも、最後まで書いた。
「歩」
それは、たとえゆっくりでも、止まらずに進むという意味。
真理子の字は、まっすぐだった。
――三人の筆が、それぞれの時間に、未来へ向かって走っていた。
春は、すぐそこにある。
そして、約束の日も。
書いたその先に、“再会”が待っている。
そして、再会のその先に、“次の誰か”がいる。
未来は、まだ白紙のままだ。
でもその紙の端には、もう“筆の軌跡”が刻まれ始めている。




