【第1話】入学式、墨の匂い
四月の風は、まだ少し冷たい。
白い制服に袖を通し、天童あすかは校門の前で一度立ち止まった。坂をのぼってきた足を休めるわけでも、初めての高校生活に不安を感じたわけでもない。彼女の鼻が、ある“匂い”をとらえたからだった。
「……なんか、くさっ」
あすかは鼻をひくつかせた。石畳に残る雨の気配。桜の甘い香り。その奥に、どこか懐かしいような、けれど強烈な匂いがある。
墨だ。
書初めで使った小学校の教室、卒業証書の名前を筆で書いた中学の教室、すべてにこの匂いがあった。けれど、この匂いはそのどれよりも濃く、深かった。
「誰だよ、入学式に墨ぶちまけたの……」
ぼやきながらも、あすかはその匂いの正体を確かめたくなっていた。校舎を抜け、渡り廊下を進む。案内図も見ずに、まるで誘われるように。やがて彼女は、一枚の扉の前に立っていた。
そこには、わかりやすく「書道室」と書かれた札が掲げられていた。
——開けてみるか。
その時だった。
「君、書道部に入るの?」
背後から落ち着いた声がかかった。
振り返ると、同じ制服を着た少女がいた。黒髪を一つにまとめ、手にはクリアファイルと筆箱。凛とした雰囲気を纏っている。
あすかは一瞬言葉に詰まり、それから鼻をすんと鳴らした。
「は? いや、ただ匂いが気になって」
「墨の匂い?」
「うん。っていうか、これ、異常じゃない? むせるわ……」
「それは“いい墨”を使ってる証拠。きっと今日も誰かが、朝から磨ったのね」
黒髪の少女はそう言って、ふと目を細めた。
「私、佐々木志津香。書道部に入る予定。あなたは?」
「あすか。天童あすか」
「……その手、すごく大きいのね」
突然、そんなことを言われて、あすかはぎょっとした。
「は? なに急に?」
「筆向きの手。もしかして、書道経験ある?」
「小学校で習字やったぐらい。今は全然」
それでも、と志津香は言った。
「その墨の匂いに導かれて、ここに来た。――十分な理由だと思うけど」
あすかは何かを試されている気がして、少しむっとした。でも同時に、胸の奥がざわついた。
(この子……なんか、妙に印象に残る)
「ふーん。じゃあさ」
あすかは書道室の扉に手をかけた。
「見せてよ、その“いい墨”ってやつ」
そう言って開けた扉の先に、黒い硯と、まだ乾ききらない一枚の書があった。
それは、まるで誰かの心が紙の上に焼き付けられたような文字だった。
新しい季節の匂いと、墨の匂いが混ざり合っていた。