善き隣人
私は恋愛小説家。女性向けの恋愛小説を書いている。この20年、作品を細々と書き続けてはいるがヒット作には恵まれず、あっと言う間に40歳を過ぎてしまった。数年前からは明らかな熱量の低下を感じる。もはや売れない事への達観かも知れない。生活の為に始めた駅前の喫茶店のアルバイトも、今では立派な店長職。だがそう悪い人生ではないとも思う。大学在学中に書いた恋愛小説が評価され、卒業直後の22歳で書籍化もされた。出版社か担当の好意かは分からないが、その後も数年、何冊か本を書く事が出来た。そして長いスランプの時代。ここ10年は本も出せず、当然特に話題となった作品はない。ただ漠然と、漫然と執筆業を続けている。これは書籍化と言う成功体験が忘れられない、過去の栄光と言うには小さな成功に味をしめてしまったせいなのだろう。まるで恋愛小説を考え続ける呪い。今もコーヒーを淹れながら、懲りずに時折何か小説のヒントになる事はないか、日常と空想の間で探し続けている。正直、未練がましいとは思う。
喫茶店の定休日の夕方、住んでいるマンションのエントランスの前。買い物から帰るとオートロックの大きなガラスドアの横で、私の部屋の隣に住む男の子が座り込んでいた。確か彼は中学生、まだ1年生だったかと思う。そうそう、2年前に彼と彼の母親が引っ越して来た日、初めて挨拶された時の事はよく覚えている。礼儀正しい小学生だと感心したものだ。その後も会う度すれ違う度に、律儀に「こんにちは」「こんばんは」「おはようございます」と先に挨拶を仕掛けて来る。私から見ても可愛い子、こう言う子がモテるんだろうなぁ、と漠然と思っていた。だが、その日はエントランス脇の花壇に腰掛けたまま、目が合っても挨拶をして来ない。これは非常に珍しい状況だ。黙って通り過ぎる事が出来ず、つい声を掛けてしまった。
「今日は」
「…こんにちは」
暗い顔で挨拶。何とも調子が狂う。明らかに元気がない。
「…どうしたんです?」
「…」
「何か…お困り事でも?」
「…カードキーを落してしまって」
「お母様は?」
「8時くらいです」
「まだ3時間はありますね…」
時間を口にすると、彼の長いまつ毛がうつむきざまにフワッと揺れた。彼には途方もなく長い時間になるのだろう。ウチに来る?と言いたい所だが、最近は何かと厳しいコンプライアンス。性別問わず未成年には事案発生。かと言って放置も出来ない。カードキーを紛失した絶望感がひしひしと伝わって来る、まだ蒸し暑い夏の夕暮れ。
「コーヒーでも飲みませんか?」
「え…」
「もしくは、冷たい飲み物でも」
「大丈夫です」
「そうですか…ここから歩いて5分の喫茶店なんですが」
とまどい気味に答える彼を、少し強めの言葉で誘う。
「付き合って頂けると嬉しいですね」
どちらにしてもここは暑い。夕方とは言えいまだ外気は30度。母親が帰宅する前に彼は茹で上がるに違いない。だが「嬉しい」の言葉に反応した少年は、少し明るさを取り戻した顔を上げて、ようやく私の誘いに応えてくれた。
「ありがとうございます」
「お母様が帰って来るまで、喫茶店でお待ちしましょう。おごりますよ」
作為的な表情で大人の余裕を見せたつもりが、多分、見てくれてはいない様子。やはり関係性と言うか、数秒に一回も中々私と目を合わせてくれないのが、今はとても残念。
「3時間のデートですね」
「え?」
「冗談です」
「あの!」
突然の呼び掛けには弱い私。ドキッとさせないでほしい。一応これでも根は人見知りなので。
「小説家の方ですよね」
…マジですか、失礼。なぜ彼は知っているのか。この2年間でまともに話すのは今日が初めてのハズ。まさか以前から知られていた?…うっわ恥ずかしい。私の顔から火でも出ていないか?瞬時に変な汗が出ている気がする。それはもうブワッと大量に。
「ノーコメントです」
大人げない私の即答はどうぞご容赦を、これは重大な個人的インシデント。
「…」
「…」
気まずい、とても気まずい沈黙。
「なぜ、ご存じで?」
「お母さんから聞いて」
「マジ?…んんっ、失礼。そうですか、お母様が」
「はい」
「私、お母様とお話した事はほとんどないのですが」
「…」
「そうですね……恋愛小説を書いています」
「…」
ようやく視線が合い始めた。んー、やっぱり会話ってのは目を合わせたい。視線が合わない会話はとても寂しいものだから。
「お母さんが先生の大ファンです!」
君は刺客か?不意打ちは本当に勘弁して欲しい。私はもうこのまま彼の手を取って走り出したいくらい気持ちが高ぶっている。ぐずぐずしないで今すぐ喫茶店に向かって駆け出したい。この平凡な毎日が繰り返される退屈で窮屈な小さな世界の小さな街の片隅で、まさか住んでいるマンションの隣の部屋に私のファンが住んでいたなんて。ありがとう、本当に「存在してくれていて」ありがとう。もし彼が私の顔を見ていなかったら、多分滝のように涙を流していたハズだ。彼の一言に一瞬で私の涙腺は決壊寸前の瀬戸際に追い込まれる。
「すみません、突然」
耳が熱い、顔が火照るのを感じる。何だか今はとても恥ずかしい、大人としてこれは何とか誤魔化さないといけない。
「とりあえずお店に行きましょう」
「はい」
そそくさと促す私。今はこの顔を彼に見られたくない。だが、自分の事を知っていてくれる事はとても、とても嬉しい。ま、まさか私、にやけ…ていないよね?
「あの」
はい
「僕も読んでます」
はい?
「先生のファンです…」
言い終わらない内に、カバンから静かに取り出した一冊の文庫本。
はいぃ?




