時間(とき)
電車に乗ってぼんやりと窓から外の景色を見ている一人の青年・・鹿島 透。
透にとって黒羽 律はただの通り過ぎた対戦相手の一人であった。
彼は試合後,いつもあてなく電車に乗って過ごしている。
・・・昨日の試合のことは、ほとんど思い出していなかった。
その代りと言っては何だが、二週間前から気になっている、自分の右の軌道について考えていた。
〝肘の抜き方を変えれば、10センチは短くなるはずだ・・。”
・・・透の練習は身体そのものに向かっていた。
スクワット・スプリント・首・体幹・・。
減量苦でも落とさない筋量の下限を、自分の身体で探っている。
ジャブを一つ分解した・・
足の踏み込み・股関節の回旋・肩の内旋・肘の伸展・拳の到達・・
・・それぞれに固有の遅れがある。
どこを削れば全体が縮むか⁉
一週間・・左足の角度だけを変えて打ち続けた。
次の一週間は体重の乗せ方だけを変えてみた・・。
ミット持ちのトレーナーは,透が何を試しているのか聞いては来なかった。
・・聞いたとしても答えないことを知っていたからである。
透は思い出して、”ニヤリ”と頬の筋肉が緩んだ。
スパーリングの時・・相手が何をして来るのか分からない状況の時だけ、身体は考えるより先に動く。
その瞬間にだけ、頭で組んだ理屈が正しかったかどうかが一度に判明する。
・・透は毎日、自分という装置を分解しては組み直している・・・”止めてください、、、。”
「・・やめる?・・何を⁈」
透は瞑想をやめ現実に戻った。
電車は心地よいリズムを刻んでいる。
透が辺りを見回すと、同じ車両の端っこで酔っぱらいが、女子高生に絡んでいるのが目に入った。
「・・いいじゃねえか,ネエチャン!」
女子高生はうつむいたまま黙っている。
「何とか言えよ!」
酔っぱらいの顔がより一層赤くなった。
他の乗客たちは、見て見ぬふりをして動かない。
「・・もう、やめといた方がいいですよ。」
鹿島 透はゆっくりと立ち上がるのであった。
黒羽 律には、試合に負けた悲壮感はない。
早すぎるストップも、一夜越したら気にならなく成っている。
最も会長達はJBCに提訴すると意気込んではいるが・・・。
試合の三日後、律は自分の部屋でノートを開きながら、試合を振り返っていた。
“ デビュー戦の対戦相手の右は、、特に右フックは、僕の想定値をはるかに超えてた。”
律は前提を更新した。
律にとって鹿島 透はデーターを集めるだけの、ただの通りすがりのボクサーである・・それ以上でもそれ以下でもなかった。
律の練習方法はプロに成っても外側に向かっていた。
まず、ボクシングそのものを学んだ。
プロの採点基準の条文、有効打の定義、ジャッジの視野、ラウンド間の回復生理、体重と打撃出力の関係。
律のノートはボクシングの教本と云うよりは、ボクシングという競技の仕様書に近づいて行くのであった。
人間をも学んでいく・・試合映像を集めて分類をする。
・・この選手は下がるときに左手も下がる・・
・・・この選手は右を打つ前に息を吐く・・・
・・この選手はロープを背にしたときにだけ、判断が0.2秒遅れる・・。
”癖というものは、当人が意識していないから癖なんだ。だから必ずある・・無いように見える選手は、まだまだ見ようが足りないだけだ。”
そして自身の基本は、異様なほど正確だった。
彼は他人の逸脱を突いて勝つ。
” ならば自分に逸脱があってはならない。”
それが高校時代から、プロに成ってからも続く律の考え方である。
律の左ジャブは教本の図をそのまま立体にしたようであった。
「お前の練習方法は、見ていて面白みはないが、狂いもない・・・ただ・・、お前楽しいか⁈」
前に一度だけ、ジムの会長である永野が聞いてきた。
律は少し考えてから答えた。
「その瞬間が・・・分かっていくのが楽しい。」それは嘘ではなかった。
律は”パタン”と、ノートを閉じて立ち上がった。
コンビニのアルバイトに行く時間であった。
「葵早く食べなよ」
ここは都内にあるカフェレストラン【ポラリス】である。
土曜の昼下がり二人の女子高生がテーブルに向かい合って座っている。
午後二時を回っているせいか、客の入りは半分ほどに落ち着いている。
「もう、映画に間に合わなくなるよ⁉」
立壁楓香は、パスタを味わいながら食べている桐島 葵にため息をついた。
「まだ大丈夫だよ。」
パスタを頬張りながら、葵は余裕の顔を見せた。
「もう・・・。」
楓香は苦笑いを浮かべ・・・隣のテーブルの椅子の上に置かれている一冊の週刊誌に目が留まった。
そのテーブルで、10分ほど前に老夫婦が食事をして居たのを楓香は覚えていた。
テーブルの皿などはホールスタッフが片付けていたが、週刊誌は椅子がテーブルの下になっていた為にホールスタッフも気が付かなかったのだろう。
楓香は自分の座っている椅子を少しずらして、週刊誌を手に取り、ホールスタッフの姿を目で探した。
「アッ!・・楓香、ちょっと見せて。」
そう言うと、葵は週刊誌をひったくるようにして楓香から取った。
「・・やっぱりあの電車の人だ。」
葵は週刊誌の表紙をまじまじと見つめている。
【巻頭カラー‼ボクサーの明日】と、題して鹿島 透の顔写真が大きく載っていた。
ペラペラと葵はページをめくり記事を読んで行く。
楓香は、キョトンと狐に包まれた顔をして、そんな葵を眺めている。
「・・ど、どうしたの葵?」
「ボクサーだったんだ⁉」
楓香には答えず、週刊誌を見ながら葵はポツリと呟いた。
「えっ??」と、楓香。
「二ケ月くらい前、私が体調不良で早引きした日・・・。」
葵は遠くを見る目になった。
「電車で酔っぱらいに、絡まれたのを助けてくれた人・・⁉」
そう言うと楓香は、週刊誌を奪い取って表紙の写真を見た。
「二か月も前よ、、間違いじゃあないの⁈」
楓香は表紙の写真と、葵の顔を代わるがわる見比べるのであった。
゛見間違えるわけがない・・あの時、私に絡んでいた酔っぱらいの暴力にも屈せずに、次の駅で酔っぱらいと一緒に降りて行った人だ。”
その週刊誌の特集の最後の行には鹿島 透の次の試合の日程が書かれていた。
日時 ○月✕日15時 第一試合開始
場所 後楽園ホール
第三試合 フェザー級六回戦 鹿島 透 (コメクラ)VS朧 才蔵(伊賀)
HARUKI 一点より




