ガレージ
翌日。
「おつかれーっす!」
「あー!瀬名くん、お疲れ様!!京一が待ってるよ!」
「すいませんね。ちょっと授業長引いちゃって」
ガレージの奥へいそいそと向かう瀬名を、亜紀は少し寂しそうな目で見送った。
「すいません、お待たせしました!」
「もー、瀬名が僕の走りを見たいって言うから予定空けておいたのに…」
「マジ申し訳ないです」
「帰るのが遅くなって駅前のクレープ売り切れたらどうすんのさ」
「ガチですいま…ホントにスイーツ好きですね」
瀬名は平謝りだが、京一は本気で怒っているわけではない。
怒り慣れていないのがよくわかるくらい、途中で若干笑みが見える。
本当は自分のことを慕ってくれる後輩の存在が嬉しいのだ。
「じゃ、走るよ。」
瀬名は昨日の帰り道、京一にゲームでの走りを見せてほしい旨を伝えた。
タイムランキング2位、PAD勢としては1位の走りから学べることがあるのではないかと思ったのだ。
「まず1コーナーね。150メートルの看板でブレーキして、しっかりアウト・イン・アウトで。」
アウト・イン・アウトとは、モータースポーツ用語のひとつであり、コーナーにおける理想のラインどりのことである。
コーナーの入口ではマシンを外に置き、徐々に内側へ寄っていく。
そしてコーナー出口ではまた外側へ向かっていく。
こうすることによって疑似的にカーブの角度を緩くすることができるので、あまり速度を落とさずにコーナーを曲がることができるのだ。
ちなみにアウト・イン・アウトの『イン』の部分、これを『クリッピングポイント』または『エイペックス』と呼ぶ。
好きな方で呼んでもらって構わない。
京一先生の授業は続く。
一方そのころ、ガレージでは。
「あーあ。なんか人がいないとつまんないなー。」
今日の作業は1人だとできない作業が多いので、瀬名と同じく授業を沢山取っている琢磨を待っているのだ。
可偉斗は今日、休みである。
本格的に一人ぼっちになってしまった亜紀は、ソファに力なく横たわり、目を閉じた。
しばらくすると、彼女の意識は遠のいていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
5分くらいという感じもするし、3時間寝ていた気もする。
目を開く前に彼女は、なにやら横に誰かが座っていることに気づく。
「おはようございます。もう夕方ですよ」
「あ…たくまくん、わたしどれくらいねてた…?」
ふにゃふにゃした声で言う亜紀。
「1時間前に僕が来た時にはもう寝てましたね。」
「あちゃー。やっちゃったね。」
亜紀は頭を掻きながら体を起こすと、毛布代わりに上着がかけられていることに気づいた。
「あれ?これって…」
「あ、オレのっす。あんまへそ出して寝るの良くないっすよ」
「えー?私のお腹見たのー?琢磨くんのえっちー」
「どついたりましょか?」
お互い冗談を言いながら笑い合う。
「ごめんね。上着ありがと。」
そう言って亜紀に微笑みかけられた琢磨の心の奥底に、なにやら不思議な感情が芽生える。
しかし琢磨本人はまだそのことを自覚してはいなかった。
「瀬名くん達は?」
亜紀は上着を琢磨に返して訊く。
「まだ奥の部屋でひたすら画面とにらめっこしてますよ。ホントに走るの好きなんだと思います」
それを聞いた亜紀は、立ち上がって伸びをしながら。
「そっか。二人は頑張ってるみたいだし、私たちもそろそろクルマ弄ろうか。」
「やりましょう!」
「要するにここのコーナーは…」
「ふむふむ」
瀬名は、持参したペンとノートを手に京一の話を聞く。
恐らく大学の講義を聞くときの数億倍は真面目に聞いている。
「今日教えたことは全部、現実の世界にも当てはまることだよ。だけど一番大切なのは…」
「一番大切なのは…?」
瀬名はその大事なことを書き記そうと、ノートのページをめくる。
京一が最後に伝えたこと、それは…。
「クルマに愛情を持って接すること。どんなに辛い局面でも、雑な運転は禁物だよ。」
京一らしい教えだった。
「ただいま。親父、S耐のレースには部活のみんなで出ることになったよ。条件付きだけどな。」
部活を休んで帰宅した可偉斗が言う。
「おかえり。条件ってのはなんなんだ?」
「瀬名が2月の新人戦で京一に勝つことだ。結構厳しいとは思うんだが…」
「そうか?オレはそうは思わんけど。」
あっけらかんとした態度の崇斗。
「大体、『瀬名は光岡のエースになる』って言ったのはお前だろうに…。ほら。荷物まとめろ。行くぞ。」
玄関にいた可偉斗は靴を脱がずにそのままUターンし、家の駐車場に停まっているクルマに乗り込む。
「瀬名くんがプロになるうえで必ずお世話にならなければならない人にご挨拶だ。」
「『最高の指導者』、伏見稔さん…か。」
可偉斗は緊張した様子でハンドルを握り、稔と会う予定になっている喫茶店へと向かった。
「お、やっと出てきた。」
ガチャリというドアの開く音を聞き、瀬名たちの練習が終わったのだと理解した琢磨。
「二人ともお疲れ様!」
なぜか二人のもとに駆け寄ろうか悩み、結局駆け寄っていった亜紀。
それを見た琢磨はやれやれと肩をすくめ、自分の作業に戻る。
どこかもやっとした気持ちを抱えながら。
「あ、そうだった。」
何かを思い出したように、琢磨は三人に向かって聞こえるように大きな声で。
「さっき可偉斗さんから夏休みに泊まりでモビリティリゾートもてぎ行かないかっていう連絡来たんだけど」