Chapter5-2 ノー・スペル,ノー・ガン
「ようやく俺のことを思い出したか」
ふかふかのソファに身を沈め、マフィアのボスは言った。部屋に通されたベンジャミンは無言で自分もソファに腰掛ける。
趣味の悪い部屋だった。黒で統一された壁にミラーの柱が立ち並ぶそこは、まるで安っぽいナイトクラブのようだ。一通り見回しても何に使われている部屋だかさっぱり分からない。猥雑に並んだ家具や観葉植物に、染み付いた煙草の匂いが鼻をつく。
深赤色のスーツを着た男と幾何学模様の派手なシャツを着た若い男が、ボスのソファの横に陣取り、さもそこが自分の定位置だと言わんばかりに両脇に立った。
ベンジャミンは、仏頂面だった。
こんなところには何があっても、自分から来たくは無かったからだった。警官である彼が、なぜ、マフィアのボス、スキニー・テッドを訪ねなければならなかったのか──。
「あんたの部下のことは、残念だったな」
まるで社交辞令のようにスキニー・テッドが言った。満足そうな笑みを浮かべ、昼間だというのに目の前のロックグラス2つにバランタインをドボドボと注いだ。片方を手に持ち、もう片方をベンジャミンの方へ押しやる。
「あんたに聞きたいことが、いくつかある」
ようやくベンジャミンは口を開いた。バランタインには一瞥をくれただけで手をつけようとはしない。
「ニック=ウォルターズのことだ」
「そうくると思ったよ」
スキニー・テッドは、ごつごつした大きな手を揉みながらにんまりと微笑んだ。
スコットランドヤード超常犯罪調査部[UCB]の一員エイドリアン=オースティン警部補が何者かに殺されてから2日経っていた。しかしすでにベンジャミンはその犯人が誰であるか分かっていた。
いや、彼は知っていたのだ。
睨んだだけで、対象の心臓を一瞬のうちに弾けさせる──そんな芸当をやってのけられる男のことを。
その男が、今。この2006年の世界でニック=ウォルターズと名乗っていることを。
「奴が、ビック・モスとつるんでることは知ってるな?」
スキニー・テッドは、自分のライバルである大物マフィアの名前を挙げると、さっさと先を続けた。
「ニック・ファッキン・ウォルターズは、てめえのくだらねえコントを見せるための小劇場をおっ建ててやがる。今じゃロンドンに5つもあるってんだから驚きだぜ。ゴミ溜めが5箇所も出来ちまったってことだ」
と、身を乗り出し「そこで妙な噂があんのさ。コントの後に客の女が数人毎回姿を消すらしいんだ。女は数時間後には戻ってくるらしいが、その時のことをよく覚えてねえって話だ」
「なるほど」
ベンジャミンは話に割入った。
「だから、ドラッグだと?」
「そうだよ」
スキニー・テッドは気を良くしたようにうなづいた。
「ビック・モスの野郎は、あのクソコメディアンとつるんで新型のドラッグをバラ巻いてやがるのさ」
しかしベンジャミンは黙りこくって返事をしなかった。彼はその小劇場で起こっていることに何となく察しがついたからだ。
女が消えているのは、ドラッグを与えられているからではない。
女は──血を吸われているのだ。
ニック=ウォルターズこと、デニス=カールトンに。
エイドリアンは何らかのきっかけでデニスが吸血行為を行っていることを掴んだのかもしれない。そのためにデニスに殺された。
現時点で、最も説得力のある説だった。
だが──。ベンジャミンは思考を重ねる。それはまだ仮説にすぎない。証拠を集め、相手の殺人を立証しなければならない。
「その新型ドラッグとやらは、見つかったのか?」
「いや、それがさっぱりだ」
尋ねると、スキニー・テッドは悪びれず、大きく肩をすくめてみせた。
「巧妙に隠してやがるのさ。少ない人数の女にしか与えねえようにしてな。でも女たちの間じゃ噂でもちきりだぜ。ブッ飛ぶような効果があるってな」
「分かった」
ベンジャミンは心を決めていた。
「一度消えたことがある女に会いたい。できるか?」
「もちろんさ」
「仕込みは無しだ、分かるな?」
相手のニヤニヤ笑いに差し込むようにベンジャミン。スキニー・テッドは笑いを納めぬまま、もちろんともう一度繰り返す。さっそくとばかりに携帯電話を取り出し、どこかに電話をし始めた。
このマフィアのボスは商売敵を警察に売るためには何でもするだろう。しかし今回のケースは特別だ。ベンジャミンは何も言わず唇を噛み締める。
エイドリアンが死んだのは自分のせいなのだ。
彼は自分の心がキリキリと痛むのを意識しながら思いを馳せる。1888年の世界で狼女ナンシーを具現化させてしまい、あの世界で人殺しをさせてしまった。それと同じなのだ。知っていたのに、自分は同じことを繰り返してしまった。
これ以上、この世界に出来た傷口を広げてはならない。断じて。
「──マジック・パイっていうソーホーのカフェに14時でどうだ?」
オーケー。ベンジャミンは答えながら立ち上がる。一刻もここに居たくないとばかりに、彼はそのまま礼も言わず、この安っぽいナイトクラブのような部屋を後にした。
***
モニターを通さないと、人は過激になるものだ。
ベンジャミンは目をしばしばやった後、やおら席を立った。とにかく外に出ようと化粧室の矢印を目当てに暗いホールを抜け出す。
女性7割、男性3割、といったところか。小劇場「ミーニング・オブ・ライフ」に集まった観客たちはステージで繰り広げられる彼のスタンダップ・コメディーに爆笑している。
「こないだブレア首相の靴と話す機会があったんだよ。その靴がさ、オレにこう言うんだよな。わたしの主人に言ってやってくれませんか、蹴るなら若い女じゃなくて奥さんにしたら? って」
ニック=ウォルターズは、今やテレビや映画にまで出演しているほどのコメディアンだが、小劇場でのスタンダップ・コメディーに出るとその過激さを増すようだった。
もっとも、そこが人気の秘訣のようだが。
ベンジャミンが立ったのは、ある刑事が燃え上がる車からの脱出に失敗して爆死するコントのところだった。死亡理由はダイエットに失敗したこと。ため息を一つついて彼は分厚い扉の外に出た。
ぶらぶらと廊下を歩きながら、窓から差し込む極彩色のネオン光に目を細める。時刻はもう20時を回っていた。
──ほんとうはね、なにもおぼえてないの。
彼は夕刻に会った若い女性の言葉を思い出した。
彼女は諦めたように最後にそう言った。
その傷は何かな、と尋ねるベンジャミン。彼の目は若い女の首筋に有る二つの穴の傷に注がれている。
え、何? と彼女は自分の首筋を撫で、ようやくその傷に思い至ったのだった。
証拠である。
その後のベンジャミンの行動は早かった。夜のニック=ウォルターズのライブの予定を掴み、今、彼はここにいる。
トイレの小汚いドアを開け、青色の蛍光灯に照らされた陰鬱な空間に彼は足を踏み入れる。さてどのようにニック=デニスを攻めるか。用を足しながら思考をめぐらせる。
その時だった。
新たな男がベンジャミンの隣りに立った。足早に入ってくると鼻歌を歌いながら、ズボンのチャックに手をかけ、気の抜けた声を出している。
思考を邪魔されたベンジャミンは横目を送り、ぎょっとした。
まさにその男がニック=ウォルターズだったからだ。
本来ならば視線をすぐにそらすべきだった。しかしベンジャミンはまじまじとその横顔を見てしまった。
彼にとってはついこの間に会ったばかりの人物であるというのに、その顔にくっきりと過ごした時間の長さの片鱗が刻まれていたからだった。
彼はヴァンパイアだ。あの1888年のロンドンから不死のまま現代に生き続けた。それでも人は生き続けることによって変わるものなのだろう。そのわずかな人相の違いがベンジャミンの注意を引きつけた。
「? ァア?」
当然ながらニックがこちらを見る。が、彼はおどけたように眉を上げてみせただけだった。ふとベンジャミンは思い至る。彼は今“有名人”なのだ。おそらくこうして不審にジロジロ見られることに慣れているのだろう。
この機を逃すな! ベンジャミンの心の声が叫んだ。
「デニス=カールトンさん、ですよね」
その言葉の後に、当人は目の色を変えた。それは劇的な変化でもあった。休憩時間を終えて早くステージに戻ろうとでも考えていたのだろう。しかしベンジャミンの言葉は、そこを足早に立ち去ろうとしていたニックの足を止めた。
──この男、今、なんと言った?
彼は振り返った。眉間にしっかりと縦皺が二本浮き出ていた。
「誰、だ?」
間があった。なぜなら、ベンジャミンはズボンのチャックを引き上げるという仕事が残っていたからだ。
「私は、ロンドン首都警察のベンジャミン=シェリンガム警視です。あなたにお聞きしたいことがありまして参りました。お時間をいただけませんか」
「……」
ニックは沈黙した。彼の口端がわずかに揺れている。
「ま、いいさ。分かったよ。楽屋で話そうや」
***
「あなたは一週間前の1月28日の夜、ソーホーの小劇場で今夜のような催しを開かれましたね」
「催しって何だよ、ライブだろ」
「時間は19時から2時間。本日と同じですね」
ベンジャミンは相手の突っ込みを無視して続けた。楽屋にはニックと彼しか居ない。結局、ニックはライブを適当に切り上げてしまったのだった。
しかしそうした彼の気まぐれは珍しいことではないらしく。マネージャーも取り巻きも皆帰ってしまった。ニックはタオルを首にひっかけ、ラフなTシャツ姿のまま。前屈みになって椅子に浅く腰掛け、ベンジャミンの方も見もしない。
「その後22時頃、あなたはライム街にある“トリプルスパイラル”というクラブで友人に会いましたね」
「あんま覚えてねーよ」
「クラブの門番があなたを見ています。おそらく間違いないでしょう」
淡々と問いながら、ベンジャミンは彼の首をじっと見つめていた。
デニスがそもそも吸血鬼になったのは、生前その首を斧で切り落とされたからだった。生き返ったのちも彼の首の傷は治らなかった。そのはずが……今は傷が跡形も無い。現代の美容外科の技術で傷跡を全く消してしまったのか。
「つまりクラブに行くまでに1時間ほど間がありますが、そこ間あなたはどこにいましたか」
「道を歩いてたんじゃねーか?」
「一人で? 歩いて行くには少々遠いですね。車をお使いになりましたか? どんなルートを?」
「あー! めんどくせえ!」
突然、両手を挙げて身体を起こし、彼は話を遮った。
「先にオレに話をさせろ」
「構いませんよ」
肩をすくめ、ベンジャミン。ニックは非常に不機嫌そうに見えた。当然だろうな、とベンジャミンは心の中で呟いた。本来であれば、彼は今ごろグルーピーの一人でも引っかけて、どこかの路地裏でよろしくやっている時間のはずだったのだから。
「お前……さっき、オレのことをカールトンって呼んだな? デニス=カールトン。ニック=ウォルターズの本名はそれじゃねえことになってる」
ニックはベンジャミンの鼻先に人差し指を立てながら言う。
「こりゃどういうワケだ? お前、オレの何を知ってる?」
恐ろしく単刀直入にきたものだ。つまり彼は自分の本名はデニス=カールトンだと認めたわけである。
ベンジャミンは質問を受け流すように爽やかな笑みを浮かべてみせた。
「あなたが、120年前に何をしたか、ですよ」
と、相手が表情を変えると同時に「──おっと、私も単刀直入にお聞きしますよ」
大げさな仕草で、懐から何かを引っ張りだしてみせるベンジャミン。それは彼の──亡くした部下の写真だった。
「あなたは、この男を殺しましたか?」
数秒の間があった。
「かもな」
ふん、とニックは鼻を鳴らした。
「見覚えはある」
「分かりました。あなたをエイドリアン=オースティン殺害の容疑者として逮捕します」
くくっと笑い声が漏れた。それは目の前にいるニックがたまらず漏らしたものだった。
「逮捕状は取ったのかよ?」
「取りました」
「──嘘だね」
「ええ、まあ」
ニヤッと笑うベンジャミン。
「代わりに、私の部下がこの小劇場を包囲しています、と言ったら?」
それも嘘だねッ! 言うなり、ニックが動いた。ベンジャミンは身体を伏せるように脇へ逃れる。
彼の背後にあった大きな鏡がピシッと割れて崩壊した。誰も手を触れていないのに、だ。
ベンジャミンはそのまま低い体制で、ニックの腹めがけてタックルを繰り出した。ドガガッ、と椅子をはね飛ばしてニックはぶら下がった衣装の下へと突っ込んだ。
深追いせず、ベンジャミンは銃を抜く代わりに右手を自らの胸に置いた。彼の言霊術の力源となる刺墨の上にである。
風を操る言霊を囁いて、ニックの動きを止めれば──。ベンジャミンは口をすぼめる。ヒュウヒュウと彼の口から人には預かり知らぬはずの言葉が流れでる。
だが、何も、起こらなかった。
「……何だァ?」
倒れたニックが身体を起こす。
ベンジャミンはハッと我に返る。ここは1888年ではない。2006年の現代なのだ。言霊術が効を成すはずがない。
ビキッ!
彼が身を翻した瞬間、先ほどまで座っていたパイプ椅子の背が弾け跳んだ。
相手は能力を使えるのに──! 不公平だがそれが現実だった。
ベンジャミンは楽屋から外へ逃れようと走り出した。戦略的撤退である。廊下へ飛び出し、脇にあったダンボールの箱を蹴って崩す。間一髪。ニックが扉を開こうとして開けず、ガタガタと扉を揺らした。
しかし彼は自らの能力を使って、それらの散乱したダンボール箱を手も触れずに蹴散らした。ほとんど時間も稼げておらず、開いたドアから滑り出たニックはベンジャミンの姿をしっかり捉えた。
「死ね!」
ぞわ、という悪寒を感じて、本能的に身を伏せるベンジャミン。転がるようにして角を曲がると、寒気は消えた。彼は後ほど、この時に心臓を破裂させられる寸前だったことを知ることになる。ニックがずっと保持してきた悪魔的な超能力である。
と、曲がった瞬間、どすんと誰かにぶつかった。本能的にベンジャミンはその人物の手を掴んだ。
「ここは危険だ。早く逃げ──」
言いかけて彼は相手が誰だか気付いて、息を飲んだ。ベンジャミンが名を呼ぼうとした瞬間、闖入者は足元にあったものを蹴った。
「グゲッ」
それが、角を曲がってきたニックの顔にヒットする。見事なコントロールでぶつかったのはサッカーボールだった。バウンドして戻ってきたそれを足で止めたのは、すらりとした金髪の青年だ。間髪入れず、また蹴った。
顔にヒット! 今度はニックの歯が飛んだ。
「ジェル!」
遅れてもう一度呼べば、相手はちらりとベンジャミンに目をやった。それは彼の弟、まだ過去の世界に留まっていたはずのジェレミーだった。
「やあ、ジャム。こういうことなら任せてよ」
同じだった。奇妙な既視感に襲われ、ベンジャミンは頭をぶるっと振る。初めてヴィクトリア時代にトリップした時も。ベンジャミンが独りで狼女ナンシーに襲われていた時、あの時も弟はこうして助けてくれた。
危険だ、逃げろと言おうとしてベンジャミンは口をつぐんだ。ジェレミーなら出来るんじゃないか。彼の手を借りてもいいんじゃないか。
そう思った時、起き上がったニックが、わなわなと震えてジェレミーを指差した。
「お、お前は……!?」
「やっほ。久しぶり? に、なっちゃうのかな?」
「あの時の──う、うう嘘だろ?」
ニックはうろたえ、目をまん丸くして後ずさった。それは彼にしては非常に珍しいことだった。
そうか、ベンジャミンは気付いた。
弟の方が、ニックと接している時間が長かったのだ。かの吸血鬼は、ベンジャミンのことを忘れていても、弟のことは忘れていなかったようだ。
「なんでここにいるんだ、なんで」
彼の頭の中では自分が体験した100年以上も前の出来事──まだデニス=カールトンであったころに、クラブ「ノースウィンド」で開かれた夜会での騒動が再生されているのだろう。あの時、彼と妹の殺し合いに割って入った見知らぬ青年が、どういうわけか、この現代の世界で自分の前に立っているのである。あんぐりと口を空けているニック。
ススーッとジェレミーは動いた。
よせ、と叫ぶベンジャミン。自分が言霊術を使えないように、ジェレミーは虚空からリボルバーを取り出したり出来ないのだ。相手は吸血鬼でしかも手を触れずに心臓を破壊できるような輩だ。現代人の自分たちが太刀打ちできるような相手では──。
しかし兄の制止を無視して、ジェレミーは素早く間合いを詰め、フットボールのスライディングの要領で相手に足払いを放った。
咄嗟のことに体勢を崩したニックの顔をサイドから、殴る、殴る、殴る。混乱していたニックは全く反応出来ていない。ふらついたところをジェレミーはさらにタックルで突き飛ばすようにして床に引き倒した。相手の腹の上に馬乗りになってマウントポジションをとると、また顔を殴って、殴って、殴った。
「……ええと、それで、何? ジャム?」
「い、いや。何でもない」
弟のあまりの喧嘩慣れた様子に言葉を失うベンジャミン。
──パシン!
「っとぉ!」
天井の蛍光灯が割れ、ジェレミーは素早い身のこなしでその場を飛び退いた。身体を起こすニック。彼が超能力で照明を割ったのだ。しかし降り注ぐガラス片は彼を避けるように床に落ちる。
てめえら、と、ニックは搾り出すような声で言う。
「ジャム、上へ!」
跳ねるように走ってきた弟と共に、ベンジャミンは身体を翻した。相手の殺意は明らかだったからだ。
楽屋から廊下に飛び出て階段を駆け上がり、飲食店か何かの店の中に裏口から転がり込む。キッチンからフロアへ抜け出すと、店は閉店中なのか暗くて誰もおらず、ドアには鍵もかかっていなかった。
***
店内はシンと静まり返っている。
ベンジャミンはソファの影に、ジェレミーはカーテンの影に身を潜めた。自分たちを追ってくるとすれば、道は一つしか無かった。ニックは必ずこのフロアに姿を現すはずだった。
さてどうやって、相手を無力化するか──?
「とりあえず、二人でボコボコにしたらノビるでしょ。それでいいじゃん?」
「ああ。それでいい」
ベンジャミンはカウンターにあったビール瓶を手にうなづいた。中身もたっぷり入っていて、打撃力も充分だ。
簡単な会話を交わした後すぐ、キィと裏口の扉が開いた。
兄弟はそれぞれ息を殺していると、一人の人物がゆっくりとフロアに足を踏み入れてくる。
「お前らのことを、ようやく思い出したぞ」
ニック=ウォルターズ、そして過去には“ネックレス(首なし)”デニス=カールトンだった男は、ハンカチで鼻血を乱暴に拭きながら、暗闇の二人に静かに告げる。
「あの夜、オレが妹に殺されそうになった時だ。なんだか分かんねェが、お前らはアイツの攻撃を防いでくれたんだよな。お前らはオレを助けてくれた。つまり命の恩人ッてわけだ」
カツン、靴音が音を立てる。
「礼を言いたいからよォ。なあ、出て来いよ」
そう言いながら、ニックはダンスを踊るかのように右手をついと上げた。んー、と言いながらピタリとカーテンを指差す。
「そこか?」
ふわっとカーテンが独りでに舞い上がり、ジェレミーの姿を顕にした。死ねや、と叫ぶニックに彼はひるまなかった。身体を低くしてタックルを食らわせようとするが、ニックは隠し持っていたものを振りかざしジェレミーに向ける。
それは大型のナイフだった。
「おわっと」
避けようとしたが遅かった。ジェレミーの上腕を切り裂き血を飛ばすナイフ。それがもう一度ジェレミーを切ろうとして、ガシャン! 大きな音を立ててビール瓶が砕け散り、中身とガラス片が辺りに散乱する。
ベンジャミンがニックを背後から殴ったのだ。
しかしニックは奇妙な仕草で両腕を開いてみせた。途端にベンジャミンは不可思議な力が自分の身体にかかったことに気付いた。殴られてもいないのに、彼は一瞬にして壁に叩きつけられ、ジェレミーは大きな窓ガラスに叩きつけられた。大きな音と共にガラスにヒビが入る。
「そのまま、そうしてろ」
念動力か何かであろう。ニックが両手を挙げたままにしているとベンジャミンとジェレミーはどちらも動くことが出来なかった。
「厄介な方から片付けてやる」
ニックは兄弟をかわるがわる見やった。まずい。ベンジャミンは身体を強張らせた。自分からやられてしまっては救援が呼べない──。
「よしお前からだ」
と、ニックが見たのはジェレミーだった。マジで!? と兄弟が上げた声がハモる。
そんな二人を後目に、ニックはジェレミーに指を二本向けた。力を集中しているのか。ジェレミーはギョッとして目を見開く。
髪の毛が逆立つような感覚だった。あの技だ。吸血鬼はジェレミーの心臓を破裂させようと力を集めているのだ。
よせ、やめろ!
叫ぶベンジャミン。
その時だった。眩いばかりの強烈な光が彼らを照らしたのだった。それはまるで数十台のカメラのフラッシュを焚かれたような明るさで、ベンジャミンは思わず目をパチパチとやった。
そこで、おぞましい悲鳴が上がった。
ニックだった。
両眼を手で押さえ、悲鳴を上げ続ける。ジェレミーは自分が動けるようになったことに気付き、吸血鬼を見た。強烈な光に目をやられてよろめく様子は、ラピュタの王になろうとしたあのオジサンにそっくりだった。
彼も、そしてベンジャミンも、何が起こったのが眩しすぎて今だに分からない。
「誰がバルスって言ったの?」
「俺だ」
ジェレミーの問いに答えるように、光源の脇から背の高い人物が進み出た。顔は影になってよく見えない。
「吸血鬼は太陽の光に弱いって、昔から決まってんだぜ?」
彼は、つかつかとニックに歩み寄ると、いきなりその腹に膝蹴りを食らわせた。そして横っ面を殴り、殴り、そして殴る。
たまらず失神するニック。その人物は勝利宣言をするように、倒れたニックの腹をブーツでダンッと踏みつけた。
「公務執行妨害で現行犯逮捕だ」
「レスター!」
ニヤッと笑うそのゴツい笑顔を見て、ベンジャミン。レスター=ゴールドスミス。彼の部下だった。
「ありがとう、助かったよ」
「早いとこ突入指示出しゃァ良かったんだ」
「弟が乱入してきたんで、動揺しちまってな。すまん」
短い会話を交わす二人。見れば店の外には、超常犯罪調査部(UCB)の者たちが揃ってそこを包囲していた。つまり、ベンジャミンがニックに言ったことは嘘では無かったのだ。
「あっそうか、なるほどね……」
ジェレミーはレスターが現れた辺りに近寄り、強い光を発している物体の正体をようやく知った。
それは大きな蓋付きのベッド──まるで宇宙船の一人用カプセルのようなものだった。開いた蓋の内側が眩しい青い光を放っている
カプセル型の日焼けマシーンだった。
そう、ここはバーではなく日焼けサロンだったのだ。レスターは最大光量にセットしたマシンの蓋を一気に開いたというわけだ。
太陽光に近い光を浴びて、ニックは灰にはならずとも相当な心的ダメージを受けたのである。レスターの言うとおり、現代の吸血鬼でも光には弱かったというわけだ。
「危ねぇトコだったな、ククク」
小さく笑いながら、クライヴも近寄ってきた。彼は太った身体を揺らし、こちらに近付いてくる。
ジェレミーの肩に手を置こうとした時、その顔が急に強張った。
「──誰だ!?」
振り向きざまに突然、クライヴが袖口から何かを放った。
それが壁に突き刺さり、揺れる。小さなダーツの矢だった。ゆらと矢をかわすように動いたのは、スーツを着た男だった。
UCBの者たちがいない店の奥の空間。いつの間にか、そこにぽつりと一人。男が立っていたのだ。
彼はゆったりした動作で、床に落としたものを拾った。赤いガラスのようなものをハンカチで拭き、自分の左目に装着する。
あっ! とベンジャミンとジェレミーが声を上げる。
赤い片眼鏡。チャコールグレイのツイードのスーツ。この場にそぐわない上品な雰囲気をまとっている。あの、黒ノ女王の夢の中に出てきた謎の男ではないか!
「因果律にバグが入ったな。それとも世界が我々に仇するか」
彼は丁寧にハンカチをたたんでしまうと、ため息のようなものを吐いた。
「禍根を断つ、か。どぅれ、タンスの中の少年二人も忘れずに始末するようにするか」
そう言うと、彼は消えた。
忽然と、消え失せたのだった。
「何だと!?」
驚いて駆け寄ったのはレスターだった。UCBの刑事たち何人もが、男が消え去るのを目にしていた。それは今まで見たことのあるどんな手品とも違っていた。どこにも隠れる場所がない廊下で、人間が一人、完全に居なくなったのだ。
「部長!」
鋭く声を上げたのはクライヴだ。
「まずいことになったんじゃねえのか」
「ああ。そうかもしれん」
ベンジャミンは混乱した頭の中で、必死に考えていた。彼がここに現れた意味、そして、彼が言ったことは一体何を示していたのか──?
「奴の通称は調べがついた。“虹炎”イグニスだ」
クライヴは普段とは全く違った滑らかな口調で説明する。「太古の昔から存在すると言われる結社【第四の刻印】の幹部というのが通説だ。奴はどんな時代にも同じ姿で現れ、神秘魔術を駆使して、その時代の世界を裏から操ってるらしい」
「イグニス、か」
「そして思い出してくれ、部長。あいつは黒ノ女王を惑し、その魂を食い荒らそうとしてたんだぜ? 俺の推理だがな、あいつは彼女の魂を取れなかったから、代わりに兄貴のコイツに付きまとってたんじゃねえか?」
と、足元に転がるニック=デニスを足で蹴るクライヴ。
「つまりあんたは、二度も奴を邪魔したわけだ」
「奴の目的は?」
「分かってねえ。それよりタンスの中の少年二人って何だ? 心当たりはねえのか?」
何かのアナロジーか暗号なのか。ベンジャミンは少し考え、はたと気が付いた。かのイグニスはベンジャミンを真っ直ぐに見据えて言ったのだ。
タンスの中の少年二人とは──
「俺たちのことだ!」
思わず口にするベンジャミン。クライヴは驚いたように言葉を失う。
「ジェル!」
「ん?」
弟を呼べば、彼は女性刑事に簡単な手当てをしてもらっていたところだった。大丈夫だ。まだ無事だ。
「クライヴ、あいつは過去の俺たちを──」
「分かってる。どうすりゃいいのか、今必死に考えてんだよ!」
クライヴは太った指を額に当てた。脂汗のようなものがこめかみを流れ落ちている。イグニスが神秘魔術の大家であろうが、彼もスコットランドヤード屈指の神秘魔術家なのだった。
そのことを知っているのはご当人とベンジャミンだけなのだが。
「ドラッグだ」
数秒の思考後、彼はぽつりと言った。
「たぶんこれでうまくいく」
クライヴはベンジャミンとジェレミーに、早口で自分の考えた策を話した。うなづいたジェレミーはポケットからビニール袋に入ったドラッグを引っ張り出した。その脇でベンジャミンもスーツの内ポケットからピルケースを取り出した。γ-GDP値を下げる薬である。
三人は確認するように頷き合い、そしてベンジャミンは簡単な指示を残してジェレミーと共に走り去っていった。
ぽかーんと間抜けに口を半開きにして、レスターは走り去る上司の背中を見送った。
彼は完全に話についていけず、目を白黒させていた。なんだか知らないがラスボスっぽいのが現れて部長と弟が追いかけていった。それにクライヴが関わっていたらしい。クライヴはものすごくいろいろなことを知っていて、部長に何かアドバイスのようなことをしていたようだった。
部長は、あのイグニスとかいう本物の化け物をやっつけに行く、ようだ。
「野郎を潰せば、ケースBの発生率が少し下がるかもしれねえぜ」
隣りでクライヴがぽつりと言う。その言葉の意味も全く分からなかったが、レスターは太った同僚をまじまじと見つめた。
何か言いたくて見ていると、相手は眼鏡をきちんと直して、何事も無かったかのように見返してきた。
「何だよ?」
「お前、その……結構、素早かったんだな」
結局、レスターの口から出てきた言葉はそれだけで。話しかけられたクライヴも、クククと笑いを返すだけだった。
(続く)




