Chapter2-1 いわゆるオーヴァー・ドーズ
たぶん、とベンジャミンは手元に引き寄せたタオルで濡れた顔を拭きながら思った。たぶん、自分は職場のデスクで書類を読んでいたのだ。過去の事件報告書に目を通し分類作業をしていたのだ。それで──。
「あの、部長。それわたしの……」
若い女の声に我に返る。ベンジャミンは、部下の婦警シシー=デューモントの手を掴んでいた。
「あっ、ごめん」
慌てて、その手を離す。タオルだと思ったのは彼女のブラウスの袖だったのだ。
どうかしている。頭がぐらぐらする。
何故、こんな感覚が? まるで酒に酔ってるみたいじゃないか。お前は、酒を断って何年になるんだ、ジャム? もう何年も一滴も飲んでないだろ?
「ごめん、シシー」
やっと、ベンジャミンはそれだけ言った。「今日は気分が悪いから早めに帰るよ」
頭を押さえながら、足早にドアへと歩いていく。
廊下に出ようと、UCBのドアを勢い良く開けると、2人の若い女と鉢合わせした。クラブに踊りに行くような派手なルックスの10代後半の娘たちだ。
「あ」
驚いたように目を見開いたのは鼻にピアスをしている方。ベンジャミンの顔を指差し言う。
「お兄さんだ」
「ジェルのお兄さんだよね? ……おかえりなさぁーい」
──バタン!
ベンジャミンは扉を閉じた。
え? 今の何? 俺は、スコットランドヤードの地下にある超常犯罪調査部[UCB]から外に出ようとドアを開けたところだったよな? なあ? なんで俺の家に──
──ドンッ、ドンッ。
──バリバリッ。ダダン!
剣呑な物音に、サッと振り返るベンジャミン。
ドアを突き破った白い手。次の瞬間にはドア自体が破壊され、何者かが部屋に乱入してきた。髪を振り乱したネグリジェ姿の女。まるでホラー映画から飛び出してきたような女は骨ばった手をかざし、顔を上げた。
「あんたのことを愛してたのに、愛してたのに愛してたのにィ……許せないわァッ!!」
叫んだ女の目は狂気一色。──アンタ誰? なんて質問を受け付けてくれる気配は一切、無い。
一歩、踏み出した彼女の身体が奇妙に波打つように躍動した。異臭。盛り上がる背中、手の爪が鉤爪のような凶器に変化していく。
まずい! そう思ったが遅かった。
山猫のように飛びかかってきた女の鉤爪が、ベンジャミンの右肩口に深々と突き刺さった。
「ぐっ」
デスクの上の書類やいろいろな備品を周囲に撒き散らしながらも、ベンジャミンは女の腕を掴んだ。自分の身体から凶器を引き抜こうとしたのだが、その怪力といったら! 女の腕はビクともしない。
女はベンジャミンに苦痛を味わわせようと、鉤爪をメチャクチャに動かした。
「死ね死ね死ねッ」
「おやめなさい!」
誰かの声。助けが来たのか? ベンジャミンは痛みに気が遠くなりそうになりながら、女の向こうに現れた人物を見る。それは、古風な黒いドレスをまとった若い女。
その顔を見た途端、ベンジャミンは頭をガツンと殴られたような衝撃を受け──
──待て! そうじゃない。こんなことは有り得ない。
しっかりしろ、ジャム。どれが現実で、どれが現実じゃないのかを見極めるんだ。
物事を時系列順に並び替えて、分析するんだ。
起きるんだ、ジャム。目を開けろ。
……。
パァッと明るい光が、差し込んだ。
ゆらゆらとゆらめく視界の中で、自分を覗き込むようにしている三つの顔。
あっ、見て。
お兄さん目ェ開けたよ!
ジャム、ねえ、ジャム!? 大丈夫なの? 返事してよ!
ベンジャミンは、跳ねるように飛び起きた。
「ジャム!」
すぐに両腕を掴んできたのは弟のジェレミーだった。大丈夫なの? 平気? そんなことを言いながら、身体を揺すっている。
「ジェル、ああ、だ、だいじょうぶだ」
言いながら、ベンジャミンはまず弟の顔を見た。ジェレミーは心配そうに自分のことを見つめている。その隣には派手な若い女性が二人、やはり心配そうに自分のことを見ている。
そこは自宅の洗面所だった。
白と黒のモノトーンのタイルが張り巡らされたモダンなデザインの洗面所に、彼自身は足を投げ出し座り込んでいる。どうやら今まで、彼はここに大の字に倒れていたらしい。なぜか床は水浸しだ。
ついでに、着ていたギーブス&ホークスも台無しになっていた。
「俺は、ここに倒れてたのか」
ベンジャミンは、ぽつりと言った。そうだよ、とジェレミーが答え、若い女性二人はうんうんとうなづいた。
「アタシたちがねぇ、お留守番してるところにお兄さん帰ってきてェ」
「それでアタシたち、ジェルの部屋でテレビ見てたからァ」
「お兄さん、ここで倒れてるの気付かなくてェ」
「ゴメンネ」
「ジャム、大丈夫?」
見事な連携プレーで、状況説明をしようとしている女性二人を尻目に、ジェレミーは近場に転がっていたトイレットペーパーの紙を手にとると、ベンジャミンの顔を拭き始めた。
「ごめんね。俺がここに錠剤を置いといたのが悪かったんだ。ジャムがうっかり飲んじゃうとは思わなくて……」
「錠剤!? どういう錠剤だ?」
弟の手をやんわり弾いて、ベンジャミンは手を伸ばしタオルを引き寄せ──今後こそは、正真正銘のタオルだ!──それで顔を拭きながら尋ねた。やや詰問口調になりながら。
ジェレミーは一瞬ひるんだような目をしたが、おとなしく答えた。
「違法なクスリじゃないよ。成分は全部、法定水準を守ってるデザイナーズ・ドラッグだよ。少しだけいい気分になるだけなんだけど……」
言われて、ベンジャミンは今の今まで見ていた光景を思い出した。UCBで見た書類。ホラー映画から飛び出してきた女。そして──黒いドレスの女。
無言のまま、ゆっくりと立ち上がり、洗面台の蛇口の横にある薬ビンを確認した。今朝飲んだγ-GDP値を下げる薬の隣にもう一つ、非常によく似た薬ビンが増えている。
「俺が間違えたのか」
そうつぶやきながら、ベンジャミンは薬ビンを取ってジェレミーに差し出した。弟は怒られると思ったのか、上目遣いになって身構えるように、こちらを見ている。
「ちっともイイ気分にならなかったぞ。とんでもないバッド・トリップだ」
しかしベンジャミンは声を荒げなかった。心ここにあらずといった感じで、ふらふらと洗面所を出て行く。
拍子抜けしたのはジェレミーだ。……ジャム、どうしたの? ねえ、とその背中に声をかける。女二人は兄弟の様子を不思議そうに見つめていた。
自分の部屋に戻ったベンジャミンは、まずは着替えようとスーツを脱ごうとした。
しかしその途端、痛ッと声を上げて顔を歪める。右肩に激痛が走ったのだ。
肩? 肩といえばさっきの……。ベンジャミンは爆発的に嫌な予感がするのを押さえ、恐る恐るジャケットとシャツを脱いだ。
右肩には、青い痣が点々と出来ていた。もちろん、まったく身に覚えがない。覚えがあるとすれば、あの薬物で見た幻覚の中で、ホラー映画女に刺されたことぐらいしか──
「有り得ない、有り得ない。有り得ないぞ、ジャム。そんなことは」
口に出してつぶやいたベンジャミン。シャツを手に掴んだまま、ソファにどっかと腰掛ける。
そのまま彼は、思考を開始した。今日一日起こったことを、もう一度時系列順に並べて整理してみるのだ。そうすれば自分がどこで怪我をしたのか思い出すだろう。そしてあの黒いドレスの女と何処で出会ったのかも。
そうだ。自分は職場のデスクで書類を読んでいたのだ。過去の事件報告書に目を通し、分類作業をしていたのだ──。
(続く)