02
「父上はどこにいる!?」
「だ、旦那様でしたら執務室に……」
最後まで耳を傾けることもなく、廊下を突き進む。
頭の中で何度もフローディアの言葉が蘇る。
確かに俺とフローディアの婚約は政略だった。だがそんなことは関係なく、彼女は俺を愛しているのではなかったか。
手を差し出せば控えめに笑みを浮かべ、季節ごとに花を贈れば即座に喜びの手紙が返された。贈り物だって一度も拒まれたことはない。
彼女だって俺への贈り物を欠かさず、夜会へ出る時は俺が贈ったアクセサリーを身につけていたくせに……!
「それが義務、だと……?」
ふざけるな。どうせ強がっているだけだ。
俺を惑わせるために吐いた嘘に決まっている。いきなり責められ、婚約破棄を突きつけられ、とっさにでまかせを口にしたのだろう。
可愛いところもあるではないか。
「父上!」
本来ならノックをし、返事を待ち、許可を得てから入室すべき扉を勢いのまま開け放つ。
重厚な執務机の向こうで書類へ目を通していた父──バルサザール・グレッシブの鋭い眼光にたじろぐが、すぐに気を取り直す。
父も部屋に入ってきたのが俺だとわかると、すぐに相好を崩した。
「アルバルトか。どうした?」
「あ……」
訊ねられて、何を言うべきかを迷ってしまう。
父のもとへはフローディアとの婚約を解消も破棄もしないよう、告げるつもりだった。だが、父の顔を見た瞬間にフローディアの言葉をまた思い出してしまった。
あれは父を愚弄するものだった。
──そうだ。すべてを話し、フローディアの罪深さを父にも知ってもらうべきじゃないか?
それでもし父が婚約の継続について匂わせれば、俺が考え直すよう説得すればいい。フローディアはああいっていたが、俺以上の男がいると思っているのか。
年の近い者たちはすでに婚約を結んでいるだろうし、いないとなればそれはそれだけの魅力がない……無能ということだ。
そんな男はフローディアの夫にふさわしくない。俺が父を説得し、婚約は継続されると知ればフローディアは俺に感謝し、泣いて喜ぶだろう。俺はそれにただ優しく抱き締めてやればいい。
「アルバルト?」
「はい、父上。……実は、父上に伝えなければならないことが」
俺がそう話し始めようとすると、急に外が騒がしくなった。
なんだ、と思っている間に扉が慌ただしく叩かれ、眉を顰める。こんな不躾な人間が侯爵家にいたとは。
後で父に進言してクビにしなければな。
俺がそんなことを考えている間に父に視線を向けられた家令が来訪者を確かめ、焦ったように口を開く。
「旦那様。アフェット伯爵家から使者が参られました」
「使者が? いったい何の用件だ」
訝しむ父に家令が受け取った手紙を差し出す。
俺が先に父に用事があったというのに、どいつもこいつも使えないヤツらばかりだ。
それよりもアフェット家から使者がきたとは都合がいい。俺には婚約の破棄の意思がないことを改めて伝える機会ではないか。
もしやそのためにフローディアは使者を寄越したのか。やはり彼女はあの時冷静ではなかったのだ。俺が帰った後で恐ろしさに気付き、縋るために使者を向かわせたのだろう。
ならばあの手紙は俺への非礼を詫び、どうか婚約を継続して欲しいと──
ドンッと何かを殴りつける音にびくっと肩が跳ねていた。
慌てて取り繕い、父に目を向ける。
「これはどういうことだ、アルバルト」
「ひっ」
今までに聞いたことのない低い声に、勝手に体が震え出す。
「な、なんのことですか、父上」
なぜ父上は怒っている?
フローディアめ! 手紙にいったい何を書きやがった!!
「お……、私は何も知りません! どうせフローディアのやつが事実を捻じ曲げ、自分に都合のいいように書いたのでしょうっ! まったく卑怯な女だ、私の婚約者とは思えないほど使えない」
「お前は何を言っている?」
「……は」
なんで、父上は俺を睨む?
なんで、父上は俺をゴミのように見ているんだ。
なんで!
「これは伯爵令嬢からではない。アフェット伯爵からだ」
「親に泣きつくとは卑怯な、っ!?」
先ほどよりも強く拳を机に叩きつけて父が立ち上がり、俺に近付いてくる。
そこに普段の笑みはなく、親しみも感じられない。
どうにか父に落ち着いてもらおうと焦って口を開くより先に、父が俺のもとに辿り着いていた。そして。
「この役立たずが!」
ガッ、と体が何かの衝撃を受けたと思った瞬間には、また次の衝撃が襲ってくる。
二度、三度、と蹴りつけられ、そのたびに体中に走る衝撃と痛みに、ああ、俺は父に殴られ、蹴られたのだと自覚する。
「ひっ、ち、ぅえ……、やめ、やめてくださ、っぅぐ、っ!」
「旦那様!」
「何事ですか!?」
慌ただしく集まってくる足音と、父に事情を伺う声が遠くに聞こえる。
だがその中に、俺を心配する声はひとつもない。
どうして……こんなことに……。
俺は何を間違えてしまったんだ……。
「コレを部屋に閉じ込めておけ。怪我の手当ては必要ない」
「旦那様……、いったいなにが」
「どうやらコレを甘やかしすぎたようだ。多少の火遊びなら目を瞑ってやれたものの、愚か者に育ててしまったらしい。まさか何も理解していなかったとは」
「使者殿は応接間に待たせていますが」
「……会うしかあるまい。まったく、育て方を間違えたな」
「ち、ちぅえ……」
痛みを耐えて父に手を伸ばそうすると、冷たく見下ろされる。慌てて腕を引けば、面倒だと言いたげな溜息を吐き出される。
俺は父に切り捨てられたのだといやでも自覚させられる。だけど俺は何も悪いことをしていないのに、どうして。
左右を侍従に挟まれ、引きずるように部屋に戻される。
その間、何か言いたげな視線が鬱陶しくてたまらなかった。でも全身が痛くて痛くて仕方なくて、こいつらを振り払うこともできない。
父はああ言ったが、本当は手当てしてくれるのではないかと期待しても、そのまま俺は放置された。
明かりも灯されていない部屋で、ベルを鳴らしても叫んでも誰もやって来ない。
その静けさが妙に恐ろしく、苛立たせて、手当たり次第にものに当たる。
「違う……、俺は間違ってない……全部、全部罠だったんだ……」
そうでなければ俺がこんな目に遭うはずがない。
誰かが俺を罠に嵌めようと仕組んだのだ。
「なんだ、今更気付いたのかよ」
突然聞こえた自分以外の声に、慌てて顔を上げる。
部屋の扉はいつの間にか開けられていて、そこには二番目の兄──レグナス兄上が立っていた。
レグナス兄上はじっと観察するように俺を眺めて、それから痛ましそうに顔を歪めた。
「ははっ。あれだけお前を溺愛してたってのに父上も容赦ないよなぁ。痛かっただろう? 怖かっただろう、アルバルト」
「あに、うえ……」
俺とレグナス兄上の仲はあまりいいとは言えなかった。互いに無視するほど嫌っているわけではないし、言葉も交わすが、俺はレグナス兄上がどこか苦手だった。
それでもレグナス兄上はよく俺の相談に乗ってくれたし、今もこうして俺を心配して様子を見に来てくれる。……苦手に感じていたことが申し訳ない。
「聞いてください、兄上! 俺、俺は悪くないんです!」
「あー、わかってるわかってる。話はその辺の捕まえて聞いたし、父上もかなり不機嫌だったしな」
「……父上はどうしてしまったのでしょうか」
あれだけ俺のことを大切にしてくれていたのに、急に態度を変えるなんておかしい。
あの手紙がきっかけなんだ。そこに何が書かれていたのかがわかれば、父の機嫌を直すことも……。
「はっ。本当にお前は愚かだな。アルバルト」
「な……っ! 何を言い出すんです、レグナス兄上!」
「全部ぜーんぶ、お前のせいなんだよ」
呆然とすることしかできない俺を馬鹿にしたように笑って、レグナス兄上は対面のソファに座る。
距離を取るように動いてしまった俺に、レグナス兄上はまた笑った。見下すように。
「当たり前だろ? せっかく父上がお前のために整えた婚約だったのに、お前自ら水を差したんだ。お前は父上の顔に泥を塗ったんだよ」
「そんなっ。……俺はそんなつもりなんて」
「だったらなぜフローディア嬢という婚約者がいながら、平民なんてものを傍に置いたんだ?」
「カティアは平民ではありません! そもそも兄上が言ったんじゃないですか! だから俺は──!」
反射的に言い返して、レグナス兄上が浮かべた表情にハッとする。
兄上は笑っていた。愉しくて仕方がないというように。
「俺はお前がアフェット伯爵令嬢を繋ぎ止めたいといったから、アドバイスしてやっただけだ。それにちゃんと言っただろう? 伯爵令嬢がお前を好いていることが前提で、やりすぎれば痛い目に遭うのはお前だってな」
「しらない……、そんなの聞いてない!」
「お前が聞いていなかっただけじゃないか?」
どうでもいいように言い捨てる兄の姿に愕然とする。
「……だったらなんで、どうして止めてくれなかったんですか!」
「なんでだ?」
「え」
不思議そうに聞き返されて、戸惑う。
兄上が俺に変なことを吹き込んだからなのに、どうして兄上は関係ないみたいな顔をしているんだ。
兄は仕方がなさそうに溜息を吐き出すと、ソファから立ち上がりゆっくりと近付いてくる。
わかって──謝ってくれるのかと思ったが、兄の浮かべる表情に喉がひくつく。
距離を取ろうと体を動かしかけて、全身の痛みを思い出す。
痛みに俺が呻きを漏らしても、兄の表情は変わらない。
そして間近で俺を見下ろす目は、どこまでも冷たかった。それは父が俺に向けた目とそっくりで、また暴力を振るわれるんじゃないかと、とっさに頭を庇っていた。
そこに「ハッ」と、吐き捨てるように声が響いた。
「俺はお前が嫌いなんだよ、アルバルト」
「…………ぇ」
「俺も最初はお前が嫌いじゃなかったよ。お前が生まれると知り、俺なりに可愛がろうと思っていた」
その言葉に、ふと思い出す。
俺がまた物心ついて間もないような頃。
兄たちの後追いをする俺を、レグナス兄上は仕方なさそうに見守ってくれていた。
兄たちの真似をして剣を振る俺の指導をしてくれ、俺が上手にできなくても「よくやっている」と、「次は頑張れ」と励ましてくれた。
だけどいつからだっただろう。
レグナス兄上は俺が呼びかけても無視するようになり、距離を感じるようになっていった。
それはただ単に、レグナス兄上はレオティード兄上の補佐のための勉強が忙しくなったからだと、そう思っていた。
「わかるか? どれだけ家庭教師に褒められようと、父上はそれが当然だと一度も俺を褒めてはくれなかった。家の騎士を剣で打ち負かせるようになっても、父上は何も言わなかった」
「……」
「なのに父上はお前の礼儀作法が多少よくなったというだけで褒め、少しの時間剣の練習をすれば労わり、お前を甘やかした。──俺は一度も褒められたこともないのに!」
「っ」
突然の大声にビクッと体を震わせてしまう。そんな俺に兄上はますます冷めきった目をする。
「俺は生まれた時からレオティード兄上のスペアで、替わりだった。常に兄上と比べられ、兄上に劣らないよう励まなければならなかった。苦痛といえば苦痛だったが、それが俺に与えられた役割だったし、納得もしていた。……お前が生まれてくるまではな」
レグナス兄上は生まれてくる三男に同情した。すでに侯爵家には後継とそのスペアがいる。三男に居場所はない。きっと肩身の狭い思いをするだろうと、レグナス兄上はそう哀れんだ。
けれど、兄上の予想を裏切って三男は父上に愛された。たとえそれがいずれ侯爵家を出て行く者への憐れみでも、居場所のない者への同情でも、そこには兄上が与えられないものを与えられる弟の姿があった。
だからその三男が──俺の存在がイラついた、らしい。
そんなの……、そんなの、俺に言われてもどうしようもないじゃないか。
父上がレグナス兄上をどう扱っていようと、扱いに差があろうと、そんなものは俺には関係ない。父上に直接言えばいいだけじゃないか。
俺にどうしろというんだ。
「だからまぁ、ちょっとしたいたずらだったんだよ、いたずら」
兄上はそう軽く言って手を振るが、まったく意味が分からない。
兄上がまるで知らない人間になってしまったみたいな気分だ。
気持ち悪い。
「普通、まともな教育を受けていれば真に受けるなんて思わないだろ。わざと浮気して婚約者の気持ちを確かめるだなんて馬鹿げた方法。政略の意味がわかるか? 政治だ。駆け引きなんだ。愛なんてあるはずない。あるのは互いの家の打算だけだ」
「……そんなの、教師たちは教えてくれなかった!」
あいつら、俺に適当なことを吹き込んだのか! 侯爵家の息子だぞ!?
「お前が勉強が嫌で抜け出すから、匙投げられたんだろ。お前のことは適当に褒めていれば父上も機嫌良かったしな」
「な……、俺は優秀で!」
「その優秀な弟がなんで父上に殴られるようなことになっているんだ?」
「それはフローディアに騙され」
「お前を騙して何の得があったんだ? ……ああ。お前みたいな無能な人間を夫にせずに済んだな。女だてら強かだったな」
おかしそうに笑う兄上を前に、もう何も言うことができなかった。
一つを言えば十倍にも百倍にもなって返ってくる。兄上は俺を傷付けることしか言わない。
睨みつけても、兄上から向けられる視線の方がずっと冷たい。
「お陰で両家の間で進んでいた事業も伯爵家の有利に動く。理解したか? お前は父上の事業に水を差したばかりか、我が家に不利益をもたらしたんだ。他でもないお前のせいでな」
……ああ、だから。
だから父上はあそこまで怒ったんだ……。
俺が、父上の仕事の邪魔をしてしまったから。
急速に現実感は薄れていくのに、自分がしてしまったことだけが重く押し寄せてくる。
俺は何をしてしまったのか。
自分がしたくないものから逃げ出して、兄上の言葉を疑いもせず信じ込んで、婚約者に愛されていると一方的に思い込んで……。
ただフローディアのすべてをものにするために、都合よく使い捨てられる少女を利用した。
平民から貴族になった少女。
貴族らしい作法も身についていない、常に何かに怯えていたような少女。けれど俺が傍にいる時だけは笑みを見せ、頼られると嬉しくてますますのめりこんでしまった。
彼女のことなど少しも好いてはいなかったのに。
……カティア。
「──っ! そうだ、カティア! まさかカティアのことも兄上が……!」
「何を言っているんだ」
心底わからないといった兄上の言葉に密かに安堵する。
やはり父上も兄上もカティアには関わっていない。……じゃあ、なぜカティアは消えた?
だけど、兄上の言葉はそれで終わりじゃなかった。
「お前が言ったんじゃないか。『そんな都合よく利用できる相手など見つからない』と。だから俺が下位貴族の中に、養子となって貴族籍を得た平民がいるという話をしてやったろう」
忘れたのか、と首を傾げた兄の姿に、そういえばそんな話をしたかもしれないと思い出して、血の気が引いていく。
「じゃあ、兄上がカティアを」
「くだらないな。どうして俺が平民一人を消すのにわざわざ動かなければならないんだ。必要なら周りの手を使えば済むだろう」
一瞬でも兄上の無実を信じた俺が愚かだったんだろう。
少しも悪びれた様子のない兄上の姿にゾッとする。だけどこれが俺の周囲にある当たり前だった。だが俺は父上に甘やかされ、母上に愛され、美しい婚約者と愛玩相手の少女を手に入れたつもりになって……、都合のいいものしか見てなかった。
レグナス兄上が俺を見る目は、こんなにも冷え切っているのに。
兄上からも愛されていると、疑うこともしなかった。
「……カティアはどうしたのですか」
「さてな。今頃は土の中か川底にでも沈んでいるか……。どっちに賭ける?」
笑いながら平然とそんなことが言えるレグナス兄上が気持ち悪くて、怖くて、恐ろしくてたまらない。
だけどレグナス兄上は紛れもなく俺の兄で、そんな兄に唆されて俺がしたことは──。
「ぅぐっ」
胃の奥からせり上がってきたものを堪えきれず、吐き出す。
慌てた様子で俺から離れるレグナス兄上のことも忘れてひたすらに嘔吐し、周囲に不快な臭いが充満していく。
「は、はは……っ。あははははは……!」
少しもおかしなことはないのに、笑いが止まらない。
兄上は俺を憎んでいた。
父上にとっての俺は愛しはしても簡単に捨てられるものだった。
フローディアは、俺とのことなどただの義務だった。
「これじゃあ俺はただの道化じゃないか……!」
力任せにテーブルを叩きつけ、薙ぎ払う。大きな音がしたはずなのに、誰も駆けつけてこない。
これが、俺の現実だ。
いつの間にか兄が部屋を出たことにも気付かないまま、俺は歪んだ薄暗い部屋の中にうずくまり、笑い続けることしかできなかった。




