01
「フローディア! 貴様いったい何をした!?」
庭園の静寂を切り裂くように響いた怒号に、口元へと運んでいたカップを止める。
先ほどから遠くで言い争う声が聞こえていたのは知っている。その声がどれも聞き覚えのある声ということも。
肩を怒らせてこちらへ向かってくる青年に動きかけた侍女を軽く手を挙げて制する。
青年の背後からは、必死に止めようとする屋敷の警備兵や侍従が困惑した表情で続いていた。
それもそうだろう。
相手がこの私フローディア・アフェットの婚約者であっても、家格はこちらは伯爵家であちらは侯爵家。いくらアポイントもなく強引に押しかけてきたのだとしても、引き止めれば侯爵家へ無礼を働くことになる。
だが明らかに怒り狂った様子の令息を、屋敷の一人娘に近寄らせることも躊躇われる。
どちらを選んでも罰せられかねない立場であることも理解はできる。
「案内ご苦労様、持ち場に戻っていいわ」
カップをソーサーへ戻して告げると、侍従たちは躊躇いながらも頭を下げて場を離れていく。
庭園に残されたのは私とアルバルト様だけ。
もっとも、植え込みの傍には侍女たちが控えているし、視界に収まる範囲には護衛騎士たちが待機している。
「それで、何のお話でしょう。アルバルト様」
「白々しい! 以前からその取り澄ました態度が気に入らないと思っていたが、まさかその性根から醜く歪みきっていたとはな!」
吐き捨てるように叫ぶ声に思わず眉を顰めてしまう。
貴族たるもの常に己を律し、感情を露わさず、知的な振る舞いを求められるというのに、これでは……。
「聞いているのか、フローディア!」
「そう怒鳴らずとも聞こえております。……それで、何が言いたいのですか」
わざわざ白昼堂々と婚約者の家に乗り込み、罵倒することが目的ということはないだろう。
先ほどよりも距離を詰めた護衛が静かに控えている。
だがすっかり興奮した様子のアルバルト様は気付かない。
「貴様っ。カティアに何をしたっ!?」
──なるほど。彼の用事はそれだったのか。
しかし、困った。
「何をした……と申されましても。そのカティアとはどなたのことでしょうか」
私はアルバルト様から、カティアなる人物を紹介されたことはない。
けれども、アルバルト様が告げるその名前の人物を知らないわけではない。
ルトラン男爵家に引き取られた元平民。
本来であれば社交界に足を踏み入れることすら不可能な身分だったが、ルトラン男爵家当主と母の再婚により、家名と貴族籍を得た少女だ。
男爵が市井で働く平民を見初めたという話は下位貴族を中心に多く話題に上った。
ルトラン男爵家にはすでに後継がいて、少女を養子として引き取ることにも何も問題なかった。
問題なのは、何がきっかけかアルバルト様がカティアの存在を知り、婚約者である私を放って彼女に夢中になっていることだ。
「とぼける気か! 貴様が知らないはずはない! カティアをいったいどこへやったのだ!」
どうやら彼の中では私が黒幕で確定しているらしい。
鼻息荒く詰め寄ってくる姿の醜さに、僅かに視線を逸らす。
だが、直視に耐えかねるゆえの行動に過ぎなかったが、彼にはそう映らなかったらしい。
「目を背けたな、フローディア。疚しいことがあるからだろう!」
「いえ……」
「フッ。貴様にも可愛らしいところがあったのだな。私がカティアに夢中になり、婚約者の座を奪われるかもしれないと焦ったのだろう?」
……何をおっしゃっているのかしら。
「だが貴様はやりすぎた。言え。カティアはどこにいる? まだ無事なのだろう。正直に話し、カティアの無事が確認できれば今回の事には目を瞑ってやる」
腕を組み、こちらを見下ろしながら寛容さを見せるアルバルト様に静かに息を吐き出す。
テーブルの上の紅茶はとうに冷め始めているのだろう。せっかく良い茶葉を用意したというのに、今後飲むときに今日のことを思い出してしまうかもしれない。
「随分一方的ですのね。ですが、私はそのようなことはしておりません」
「この期に及んでまだそのようなことを」
即座に返ってくる否定に、思わずため息が洩れそうになる。
それを飲み込んで、膝の上に置いた手を握りしめる。
「ではお尋ねします」
「……なんだ」
「私が、いつ、どこで、どのような手段を用いてそのカティア様とおっしゃる方を害したのでしょうか」
冷静に反論されるとは思わなかったのか、アルバルト様が言葉を詰まらせる。
予想していた反応のつまらなさに、そっと指先で手の甲を撫でる。
怒りに任せてここへ押しかけてきたのであれば、具体的な根拠など持ち合わせているはずがない。
大方、なかなかカティア嬢に会うことができず、その足で馬車に乗り込んでこちらへ押しかけてきたのだろう。その道中に、先ほど喚き散らした都合のいい動機を考え付いたのだろうか。
「そ、それは」
「証人や証拠はどちらに?」
「っ、そんなものは必要ない!」
拳を握り締めてアルバルト様が叫ぶ。
「お前には動機があるじゃないか!」
「動機?」
「そうだ! 貴様は俺を愛しているだろう! だから俺の傍にいるカティアが目障りだった、そうだろうっ?」
ああ、そういえば。
彼は先ほどもそういったことを叫んでいたような。
何とも短絡的で馬鹿げた理屈ではありませんか。
さて、と私は静かに首を傾ける。
「それはアルバルト様のお考えでしょうか。それとも、どなたかから吹き込まれたお話でしょうか」
「……どういう意味だ」
「ですから、私がその人物を排除する理由がございません。アルバルト様が叫ばれた内容も、事実無根であると」
「嘘だ!」
「何故、私がそのような嘘を吐かねばならないのです?」
そんなに叫び続けて喉は痛まないのだろうか。
どうでもいいことを考えつつ、アルバルト様を眺める。思うように事が運ばないことに対してか、私が冷静に否定し続けるからか、彼は明らかに動揺していた。
「仮にアルバルト様がおっしゃるように私がアルバルト様を慕っており、その方を排除したとして」
仮に、と仮定の話だと前置きしているにもかかわらず、アルバルト様の目がギラッと輝く。
また怒鳴られてはかなわないと、さっさと口にしてしまうことにする。
「アルバルト様のお気持ちは元々私にございませんでしょう? 私のことをその程度も理解できない、愚かな人間だと思われているのですか」
「……っ」
図星だったのか、それとも予想外の言葉だったのか。
アルバルト様は何かを言おうと口を開いて、すぐに閉じてしまう。
「そもそも。私に利益がありません」
「そんなことはない! 貴様は私を愛しているのだろう!」
「いいえ?」
ギリッ、と何かが擦れるような音がアルバルト様から聞こえてきた。
一歩を踏み出したアルバルト様の姿に、護衛たちも音もなく動く。
「……もういい」
低く呟かれた言葉にほっとした気持ちが込み上げてくる。
けれど、安堵するには早かったらしい。
「そこまで言い張るなら俺にも考えがある。貴様のように嫉妬深く、強情な女とはやっていけない」
私を睨み据えてそう言い放つアルバルト様は、勝ち誇った顔を浮かべていた。
……この状況でどうしてそんな顔ができるのか、不思議でたまらない。
「どういう意味でしょう?」
そう訊き返すと、アルバルト様は明らかに私を馬鹿にしたように笑った。控えている侍女や護衛たちの表情が変わったことすら、アルバルト様は気付いておられないのだろう。
「貴様との婚約を考え直す」
一方的な宣告に迷いはない。
私は彼の顔をしばらく見つめ、侍女の一人に目配せをして、それからゆっくりと問いかける。
「それはグレッシブ侯爵家のご意思でしょうか」
「当然だ。父上も兄上たちも、貴様のような女と縁づくことを嫌がっている」
「……そうですか」
この婚約はグレッシブ侯爵家のごり押しで進められたものではなかっただろうか。どうやら私の記憶違いだったらしい。
「アルバルト様。ひとつ確認させてください」
「今さら謝ったところで撤回はないがな。言ってみろ」
「では」
小さく息を吸い、吐き出す。
「この婚約はアフェット伯爵家の一人娘である私が、アルバルト様を婿として迎えるという話でした」
「それがどうした」
まだお気付きにならないとは、この方を婿として迎える未来が消えてよかったのかもしれない。
侯爵家の三男で、次期当主のスペアですらない。
譲り渡せる爵位もない三男を、グレッシブ家は随分と寛容に、気ままに育てたのだろう。だから、こうして思い違いしている。
「つまり、私にはアルバルト様に執着する理由がないということです。伯爵家とはいえ、当主の夫の座は爵位を持たぬ者には魅力的なものですから」
アルバルト様はいずれ自ら功を立てて爵位を得るか、婿入りしなければ平民となってしまう。
もちろんそのまま放逐はされず、領地でひっそりと暮らすことになるだろうが、それでも侯爵家にいた頃のような贅沢な暮らしはできないだろう。
それに侯爵家の三男が爵位も得られず平民になったとなれば、社交界ではいい笑い話となる。無能な息子を出さないためにも、グレッシブ侯爵は適切な婿入り先を探し出し、白羽の矢が立ったのが我がアフェット伯爵家だった。
アフェット伯爵家は古くから続く家系であるし、領地には鉱山がある。年々排出量は落ちているが、それでも品質は悪くない。数代先までは安泰なはずだ。
なにより一人娘で、いずれは婿を迎える必要がある。その婿は当主にはなれないが、口の出しようはある。
侯爵家の三男の婿入り先として不足はなかった。
「それに私たちも当事者ではありますが、婚約は家同士の契約です。最終的な決定権は当主にしかありません」
これだけ言われればさすがに理解できたのか、アルバルト様の顔色が若干悪い。今更ご自分の立場を理解したのだろうか。
「……フンッ。父上に貴様の悪行を伝えれば即座に破棄へと動き、新たに俺にふさわしい婚約者を見つけてくるだろう。何の問題もない」
そうなのだろうか。まあ婚約がなくなれば私にとって無関係となる家のこと。
三人の息子たちの中でも特に三男であるアルバルト様には甘いという侯爵様ならば、そういうこともあるかもしれない。
ふ、と喉の渇きを覚えたが、ここでカップに手を伸ばせばアルバルト様を逆上させるだけだろう。
つくづく最後まで手のかかる婚約者だ。
「ところで思ったのですが、私よりもかの方の存在を煩わしく思っている方がいらっしゃるのではありませんか」
「……何を言い出す」
「いえ。ふと思いましたので。アルバルト様がかの方との関わりをきちんと隠していらっしゃれば、誰も動くことはなかったでしょうが、あまりにも堂々とされていましたので、私たちの婚約を危惧した方が行動に出られてもおかしくはありませんわね」
婚約しているはずの令息に恋人がいるなど、醜聞でしかない。少しでも隠す素振りがあれば婚姻前の火遊びとして大目に見られた部分もあったかもしれないが、アルバルト様は衆目を気にした素振りもなかった。
さすがに社交場に連れ出すことまではしていなかったけれど、どこにでも人の目はある。白昼に堂々と婚約者ではない少女をエスコートしていれば、何事かと噂するだろう。
実際、私もそうした親切な方々から目撃談を聞かされることは度々あった。
それなのにアルバルト様の実家であるグレッシブ侯爵家の耳には入らないということはないはず。
「き、さま……っ。しらを切り続けたと思えば、次は父上たちに擦り付けるつもりか!」
「滅相もございません」
ドンッ、とアルバルト様が力任せにテーブルに拳を叩きつける。茶器が揺れ、侍女たちの間から小さく悲鳴が上がった。
かくいう私も、跳ねてしまった肩は誤魔化せなかった。
駆け寄ってきた護衛たちを目で制し、睨みつけてくるアルバルト様を見返す。
「父上がそのようなことをするはずがない……!」
「……そうですか。ご子息であるアルバルト様がそうおっしゃるのであれば、そうなのでしょう。お詫びいたしますわ。憶測で無実な方を責めるなど失礼でしたわね」
嫌味に気付いたのか、アルバルト様の顔が真っ赤に染まる。
振り上げかけた手は、護衛の姿に気付いて慌てたように下ろされた。
「私自身がアルバルト様に恋慕しているわけでもありませんし、アルバルト様とかのお方がどうなろうと私は一向に構いません。さすがに婿入りに連れてくるとなれば話は別ですが……、当家はすでにアルバルト様の有責で婚約を解消できないか、動いておりました。今更彼女を害する理由がありません」
ここまで言いきればようやくアルバルト様も現実が見えてきたのか、その目は不安定に揺れていた。
「そんな、――貴様は私を愛しているのだろうっ! 俺のエスコートを喜んで受け、いつも贈り物をしていたではないか!」
「婚約者ですもの。将来夫となる方との仲は良いほうがよろしいでしょう。それに義務ですから。ですからアルバルト様も私をエスコートなさったのでしょう?」
「そ、れは」
そもそもアルバルト様は私との婚約が嫌で、彼女を傍に置いたのではないのかしら。
私がアルバルト様を好いているかいないかなど、何の関係もないでしょうに。いったいどうしてそこに拘るのか不思議なものね。
聞いてみたいけれど、聞ける状態じゃないわね……。
頭を抱え始めたアルバルト様の様子に、護衛たちをその場に待機させる。
「ちがう……、フローディアは俺を愛して……、だから、だから俺はカティアを傍に…………」
それからもアルバルト様はぶつぶつと何かを呟いていたが、それを聞き取るつもりはなかった。どうせ聞いても理解できないか、ろくでもないものであることは分かりきっている。
「っ、そうだ、考え直すというのは撤回する! フローディア。どうやら俺はまんまとあの女の策略にはまってしまったようだ」
「まぁ……」
「どうやら俺は冷静さを欠いていたようだ」
いきなり顔を上げて何を言い出すかと思えば、そういうことにすればすべてがなかったことになると思ったのだろうか。
そもそも自分は操られやすい人間ですと告白しているようなものであるのに。
私の呟きを驚嘆ではなく感嘆から漏れたものだと思ったアルバルト様の目が輝く。
ずい、と身を寄せられそうになり、椅子の上で体を引く。
「無理ですわ。グレッシブ侯爵令息様」
「……なに?」
あえて他人行儀に呼びかければ、見事に動きが止まった。
信じがたいものを眺める顔を前に、控えめに微笑みかける。
「貴方様が婚約を考え直すとおっしゃられたときに、侍女の一人がお父様にそのご意向をお伝えするために向かいましたの。今頃はお父様の耳にも入っておりますわ」
「なっ! きっ、君がそれは誤解だと、侍女が先走ったのだと告げれば──」
「そのつもりは毛頭ございません。それに言いましたでしょう? 当家は元より貴方様との婚約の解消を望んでおりました。良い機会を授けてくださったことだけは感謝いたします」
座ったまま浅く頭を下げる。
「グレッシブ侯爵令息様のお帰りよ」
控えている者たちの中に声をかけると、数人の護衛と侍従たちが進み出てくる。促す手を彼は忌々しく睨みつけて、煩わしく払い落とすと一人で歩き出してしまう。
「破棄できると思うなよっ!」
現れる時も去る時も礼儀の欠けた態度は、ある意味では一貫しているのだろう。
それよりも婚約を破棄したいのかしたくないのか、いったいどちらなのか。彼の考えがさっぱりわからない。あちらこちらと自分の意志を変える点も、やはり彼は婿として不足している。
きっと彼は侯爵様に泣きつくのだろう。このことを知った侯爵様は彼をどうするだろうか。
すでに動いてしまっている両家の共同事業については気掛かりだけれど、それを考えるのはお父様の役目で、残念ながら私が口出しできることではない。
茂みに消えていく姿を見送っていれば、手元のカップが下げられ、新しく淹れ直された紅茶のカップが置かれる。
そっとソーサーに手を伸ばし、カップを持ち上げる。
「あら、いい香りね」
思わずこぼした呟きに侍女が静かに頭を下げる。
先ほどとは別の茶葉の香りをゆっくりと堪能して、クッキーに手を伸ばす。口に入れると簡単に崩れていくそれは、とても素朴な味をしている。
「彼もこの味に惹かれたのかしら」
軽く手を振れば、すぐにそのクッキーが盛られた皿だけが下げられる。
素朴な味は確かに珍しくはあっても、それだけで終わる。もう一枚と手を伸ばすほどの魅力はない。
「彼女たちの様子はどう?」
「母親の方は体を動かしても問題ない程度に回復しました。娘の方も使用人に混ざり、仕事をこなし始めています。周囲も彼女たちに同情し、比較的好意的に接しています」
「そう……。引き取ってしまった手前、それなりに仕えるように仕込んだ方がいいのかしら? 一応お父様と相談して、あとは彼女たち次第ね」
頭を下げる侍女を下げ、カップを口に運ぶ。
上質な茶葉の豊かな香りと深い味わいが先ほどまでの素朴な甘味を包み込み、溶けて消えていった。




