5.聡明な妻
妻が無事に目覚めた日から、フェリクスは一日と空けずに見舞った。医師から聞いた「痺れが残る」という言葉が、いつまでも重く胸に沈んでいた。
さすがに頻度が多すぎたのか、ある時、何か用事があるのかとクリスティーナに尋ねられてしまった。かえって気を遣わせたかもしれない。だが、訪問をやめるという結論には至らなかった。
妻は失脚のショックと毒の後遺症で本調子ではないのだ。仕方ないから元に戻れるようこちらからも最大限に手助けをしなくては、というのがフェリクスの認識であった。
とはいえ、である。
実際のところ、公爵家で侍女を侍らせる身分であるクリスティーナの手助けに、フェリクスの出る幕などさして多くもなかった。少なくともクリスティーナが自室で静養している間は見舞うくらいしかできることはなかった。何とか捻り出そうと考えては見たが、思いつくのも精々が歩くときに手を添えるか、食事の席でいつも以上に目を光らせる、程度である。あまりにすることがなくてつまらなく感じていた。
久々にクリスティーナと夕食を囲めるようになった日、念には念を入れて毒味をした皿を差し出したフェリクスは、妻が困惑した顔で止まっているのに気づいた。フェリクスはすぐに医師の言葉……痺れが残る、という暗い予言めいた診察結果を思い出した。きっと自室での食事では、介助があったのだろう。今は夫婦の食卓だから、遠慮しているのだろう。
フェリクスは、クリスティーナの前のフォークを取ると、魚の柔らかい味を掬い上げた。何をしてるんだろう、という幾らかの迷いはあったが、それ以上に、宙に浮いたままの、手助けをしたい、という気持ちがあった。それから、遠慮は不要だということも伝えたかった。
些かの気恥ずかしさを飲み込んで、フォークを差し出す。妻が、不思議そうな顔をしながら、けれどもその小さな唇をそっと開けて、差し出されたものを口にする。
そのときフェリクスには、充足感と満足感があった。
ふらつきながら階段を降りようとしているのを見たときは、目を剥いた。なんという危険なことを。
勢い余って抱き抱えてしまったが、悪くなかった。いつも物静かで冷静さを失わない妻が、少女のような悲鳴をあげて首に抱きついてきたのだ。あんなふうに驚いた顔のクリスティーナを見るのは、なかなかいい気分だった。ほんの少し目元を染めて、慌てて目を伏せたのも、なんとまぁ可愛らしい仕草をするものだ、と新鮮な気分だった。
これはいい、次からも見つけ次第そうしよう、とフェリクスは思った。
だが、よほど恥じらいがあったのか、クリスティーナはそれ以降階段では侍女を伴うようになってしまった。全くつまらん事である。
そうして看病に明け暮れる中で、フェリクスのクリスティーナに対する認識に変化があった。彼女は冷静沈着で聡明な誇り高き貴族の女、である。今もそうだ、と思っていた。だが、実のところ彼女にはもう一つ、些細なことで恥じらったりはにかむような繊細さを持った、少女のような姿がある事に、フェリクスは気付き始めた。まるで、見知った絵画の下から新たな絵が出てきたかのような発見だ。不思議とフェリクスはワクワクした。
しかしながら、実家の支援もして、世話も焼いて、憂いを絶ったはずなのにクリスティーナの顔は晴れなかった。
「何故だ……」
額を抑え、執務室の椅子の背に深くもたれ、フェリクスは息を吐いた。仕事の書類など一枚も進まない。
見かねた側近が、仕方なさそうに首を振る。それから一転、真面目に思案し始めた。
「奥様は聡明な方ですからね……もしかすると、この状況を最大限利用するつもりでいらっしゃるのかもしれません」
「何……どういう意味だ?」
思わぬ意見に、フェリクスは顔を上げた。
「奥様が醜聞を恥じて毒をあおった、という話はすでに外でも取り沙汰されております。どちらにせよ、しばらくは静養せざるを得ない」
事実を指折り数えるように、側近が推理を披露する。
「奥様の影響力が小さくなっている今だからこそ、要らぬ考えを起こす輩も出てくるというもの。実際、伯父上繋がり以外からも、様子伺いのていで娘御や姪御の話をヤケに饒舌にお話しされる方は増えております」
「全く……こんな事で離縁だなんてするわけがないだろうに。わからん奴らだ」
「それだけ公爵夫人の席は垂涎の的なのですよ」
フン、と鼻を鳴らすフェリクスだったが、側近の言いたい事もわからなくはなかった。事実、クリスティーナを妻にと決める時だって、あれやこれやと色々な横槍があったものだ。
「……つまり、クリスティーナはこれを機に余計なことを考えている輩を炙り出そう、としていると?」
「確証はありませんが、現状がそのようになっていますからね」
側近の言葉に、フェリクスは思案するように腕を組んだ。
「だが有象無象の欲深共に構ってる暇はない。こちらは伯父上の対応にこそ集中したいのだから……はっ、そういうことか……」
突然、得心がいって、フェリクスは顔を輝かせた。
「候補が乱立することで、ひいては伯父上の邪魔になるというわけだな。なるほどクリスティーナ、考えたな……」
「ああ、なるほど。さすがです、奥様」
二人は、ここにはいない人物に賞賛を贈った。
ふと、側近が首を傾げる。
「しかしそうなると、今の傷心は、半ば演技ということになりますね」
「何だ。そうであるなら、そうと知らせてくれれば良いものを」
「ああ、ほら、敵を騙すにはまず味方から、と言いますからね」
「なるほど……」
さ、納得できたら仕事してくださいませ旦那様、と続けられて、フェリクスは先ほどまでとは違う意味でうめいた。




