3.ほのかな想い
不思議な食事の後、フェリクスはわざわざ手をとって部屋まで送ってくれた。そしてそれ以来、歩く時は必ず手を取られるようになった。夜会でもないのに。
些かの歩きにくさは確かにあるが、家の中でそれほど困ることはない。だというのに、フェリクスはわずかな段差ですら油断ならないとばかりに手を差し出すのだ。
それだけではない。
昨日は、階段を降りようとしたのを見咎められ、抱き上げられて運ばれた。これには流石のクリスティーナも小さく悲鳴をあげてしまった。
「結構ですわ、こんな事…!」
「こんな事? 自分の体の状態も把握できていないようだな、貴女は」
「歩くのに問題ありません」
「問題ないとは思えない」
取り付く暇もなく言い返され、クリスティーナは閉口した。
仕方なくフェリクスの首に両手を回してはみたものの、気恥ずかしさのあまり顔が火照るのを止められなかった。気にしないように、と思えば思うほど、背中や膝裏に当たる手を意識してしまう。階下に降りるまでのほんの数秒間、だというのに、クリスティーナにはずっと長く感じられた。
着くと同時にトン、と降ろされた時、クリスティーナの口から思わずため息が溢れてしまった。ひとまずは礼を言うべきか、と顔をあげたクリスティーナだったが、フェリクスは側にぴたりとたったまま、離れる様子はない。
「あの」
「夕食の時間だから降りてきたんだろう」
「そう、ですが……」
当然のように手を差し出され、クリスティーナは困惑のまま見上げる。フェリクスは焦れたように片眉をあげた。
「私としては、抱えたまま向かってもいいんだが」
「困ります」
諦めの吐息をふう、と吐いて、クリスティーナは差し出された手のひらの上に、自らの手を重ねた。
食事は相変わらず同じ皿だ。飲む水ですら、一口フェリクスが飲んだグラスで渡される。毒見役のような真似を、主人であるフェリクスがするなんて。給仕たちも同じ気持ちなのだろう、皆ハラハラとした顔をしていた。
それほどまでにする必要が、どこにあるのか。クリスティーナの困惑は深まるばかりだった。
「一体何をお考えなのかしら」
公爵家から、クリスティーナの実家である伯爵家に対して支援の申し入れがあったと聞き、いよいよクリスティーナはフェリクスの考えがわからなくなった。
クリスティーナが礼を言うと、フェリクスはそっけなく「大したことではない」としか言わなかったし、早々に部屋で休むようにと帰されてしまった。
自室でぼんやりと髪を漉いてもらいながら、クリスティーナは鏡台に写る自分を見る。少しやつれて青白い、いかにも病み上がりな姿があった。
「私が死に損ねたことで表沙汰になってしまったから、潔白証明のために……?」
それらしい理由を考えては見るものの、どうにもしっくりこない。今、醜聞に沈んだ伯爵家に恩を売ったところで、公爵たるフェリクスに何の利点もない……いや、妻の実家を見捨てないという気概は、社交界では評価されるかもしれないが。けれども、失脚した伯爵家との繋がりが続いていると世間に思われた方が不利にも思える。
いくら考えても答えに辿り着きそうにもない。クリスティーナは何度目かのため息をこぼした。
毒杯の件、そもそも離縁を促す作戦なだけで、本当に死なせるつもりなかったのかもしれない。クリスティーナはいよいよそう考えるようになった。毒杯であると認めたフェリクスが、杯をあおろうとした途端あれほどまでに狼狽していたのだ。
「……脅しだけのはずだった、というところかしら」
ところが思わぬ大事になったので、罪悪感から過剰に世話を焼いている……筋は通る、と思いはしたが、クリスティーナはまだ得心がいかなかった。
若くして公爵家の当代になった夫は、忙しい。……忙しい、はずだ。それなのに、フェリクスは朝晩クリスティーナの自室までわざわざ顔を見に来る。本当に、何をするでもないのだ。顔を見に来たとしか言いようがない。また、フェリクスが出かけていない限り、クリスティーナが廊下を出歩くやいなや飛んできては手を差し出すのだ。なぜわかるのだろう、とクリスティーナは不思議に思った。第一、そんな暇があるはずもないのに。
階段を降りる時、クリスティーナは必ず侍女の手を借りるようにした。それに気づいたフェリクスは、ふん、と鼻を鳴らして、どことなく不機嫌そうな顔で階下で待ち構えているようになった。手を煩わせないように、と思ったのに、結局待たれては意味がない……だが、また抱き上げられてはかなわない。あんな風に人前で夫に抱きつくなんて、考えただけでクリスティーナは頬が熱くなってしまうのだ。
そうして過ごすうちに、クリスティーナは一つの結論に辿り着いた。
つまり、フェリクスは、優しい人なのだ。もっと言えば、貴族として立つには些か情に厚過ぎる。この何日かだけでなく、これまでのフェリクスも含めての結論だった。
クリスティーナが見たフェリクスは、いつでも冷静かつ非情な態度に努めている。けれども、時折甘さが捨てきれないところがある、とは以前から感じていた。だがそれは、悪いことではないとも。少なくとも、立場の弱いものに横暴な態度をとったことはない。
フェリクスは些か神経質なきらいがあるのか、時折り使用人をごっそり入れ替えるような真似をする事がある。けれど、解雇する相手に対し、それとなく執事に紹介状を持たせるように促していたのを、クリスティーナは知っている。
クリスティーナに対しても、礼節以上に気を配ってくれていた。嫁入りに際して、連れてくる侍女の数や食事の好み、部屋の内装でさえ、素っ気なさを装いながらも、面倒がらずにいつでもクリスティーナの意向を聞いてくれた。全てが叶うわけではないが、できる限り手を尽くしてくれていることはすぐに分かった。そのわかりにくい心遣いは、豪華な装飾品を贈られるよりもずっと嬉しく感じたのだ。
とはいえ、フェリクスはただ甘いだけの人間ではない事もクリスティーナは知っていた。家名に仇をなすものは、親族ですら……ごく近い身内でさえも……容赦なく切り捨てるのを、間近で何度か目撃した。だからこそ、家に不要な妻を、必要なら切り捨てられる人だ、とクリスティーナは思っていたのだ。
だが、実際は現状の通りだ。そこがわからないのだ。妻だけ例外にする理由は一体何なのか。
「本当は、始末しなければいけないのに、情が湧いて殺しにくくなってしまわれたのかしら」
ふふ、とクリスティーナは笑った。我ながら、何とも緩い結論だ。優しいフェリクスは、さすがに妻を死なせるのは良くないと思い、脅しだけで済ませようとしたのだ……多分。
そんなバカな、と思わなくもない。だが、そうであって欲しい気もした。
――この優しい人と芯から夫婦になれたら、どんなに幸せだろう。
不意にクリスティーナは思ってしまった。だがすぐに打ち消した。自分はこの家には必要のない駒、むしろ今は足枷だ。身の丈に合わない望みを持つべきではない。
「……」
クリスティーナは唇を噛んだ。
実家の愚かな失態による失脚で迷惑をかけたことを、クリスティーナは心底恥じていた。あれがなければ、今も自分は胸を張って隣に立てただろうに……。
そう考えるだけで、クリスティーナは胸を掻きむしりたいような歯痒さに襲われるのだった。




