1.毒杯
政治的な思惑により、クリスティーナは公爵家の妻になった。
良い相手に嫁げて幸運だ、とクリスティーナは考えていた。政略結婚で、碌でもない輩の妻にならなければいけない悲劇など見飽きるほどに見てきている。その不幸な顛末も。その点、冷静沈着な夫フェリクスとは距離こそあれども、礼節を守った対応は不愉快ではない。
胸躍るような恋の炎はなくとも、一人の貴族として尊重された態度を崩さない夫に、クリスティーナは満足していた。公爵家の妻として、貴族として、勤めを果たす日々に疑問はなかった。
夫婦と呼ぶには些かよそよそしいところもあったが、それでもよかった。……否、それがよかった、というのが正しいかもしれない。
しかし、クリスティーナの実家が失脚したことにより、状況は一変した。
会う人からは軒並み労りの言葉をかけられ、夫側の親戚からは顔を合わせる度に嫌味を言われる。その上に一部の使用人たちからは遠巻きにされるようになった。
これが、単なる政治的な敗北であれば、まだクリスティーナは毅然としていられたかもしれない。だが現実は、兄弟の不名誉な失態、それに連なった不祥事と失脚である。家名は泥を塗られたも同然だ。流石のクリスティーナもこれには参ってしまった。もはや、自分に価値などないに等しい。――真っ先に頭に浮かんだのは、「離縁」の文字だった。
この家に嫁いだのは両家の勢力図と政治的な判断によるものである。それが失われた今、クリスティーナがここにいる理由はほとんど無い。そうするのが当然、と言わんばかりの親族たちの口ぶりに、気落ちこそすれども反対する気にはならなかった。一つ問題があるとすれば、正式な離縁というのは表向き認められてないことだろう。やり方はあるとはいえ、手続きは煩雑この上ない。その上、仮に離縁がかなったとしても、両家に不名誉な傷が残るのだ。
だとしても、その選択肢を排除する考えはありえない――人々の目はいつもそう彼女に囁きかけるかのようだった。
いよいよ離縁が現実か、と思っていたある日のことだった。
いつも通りの食卓、いつもと代わりない風景の中だった。食前酒として供されたそれに、不自然な不純物が混じっている。気づいたクリスティーナは、何度か瞬きした。
「……」
何かが入れられている。それが意味するところは、つまり。
クリスティーナは小さく息を呑んだ。
何故、何のために、一体誰が。
一瞬で頭の中を推察が走り抜ける。不名誉な汚名に沈んだ家名、囁くように交わされる失望の言葉、人々にそれとなく聞かれる進退……ただ純粋にこちらの身を案じたものでは無いとわからぬクリスティーナではない。
動揺したまま、クリスティーナは震える手で杯を手に取った。華奢な杯は、金で縁取られた豪華で繊細なものだ。
「これは、毒ですか」
目の前の夫に向かって、尋ねる。
夫、フェリクスは、ほんの少し嫌そうに顔を歪めた。次いで、凍りつきそうなほど冷たい視線を寄越した。
「そのようだ」
あまりに静かな声で返すので、クリスティーナは打たれたように感じた。
――きっと、これを命じたのは彼だ。
手の震えが大きくなる。小さな杯の中に細波がたった。
離縁でなく、死をもって私を処理するつもりなのだ。クリスティーナはそう結論付けた。
不名誉で煩雑な離縁より、不幸な事故として消えた方が話は早い。あるいは、泥に塗れた家名を恥じて自ら毒をあおった、という筋書きかもしれない……そちらの方が自然だわ、とクリスティーナは自嘲した。
そうするべきなのだ、誇りある伯爵家の娘ならば。わざわざその機会を与えてもらわずとも。
ヒソヒソと、離縁の噂を囁く使用人たちの声が蘇る。社交の場で、笑顔の裏に憐れみと嘲笑を滲ませる貴人たちの顔が。早く身の振り方を考えるのがいいわ、何か起きる前に、といかにも親切そうに警告してくる親族たちが。――何より、知らぬわけでもないだろうに、この件について何も言わない夫の、いつもと変わらぬ涼しい顔が。それらが全て、体の芯を凍りつかせ、心を重くする。
クリスティーナは静かに目を伏せた。
――何も気づかず飲み干すべきだった、それが私の仕事だったのに。
覚悟を決め、杯を口元に触れさせる。
「……!」
せめて苦しまない毒にしてくれないだろうか、という願い虚しく、舌に残る苦味と痺れに戦慄する。
死ねと言われるならば死んでもいいと、そう思っていた。だから潔く飲み干せると思っていた。そのつもりだったのに、ほんの少し舐めただけでクリスティーナは手を止めてしまった。湧き上がる恐怖の前に、自らの意思の弱さをまざまざと実感した。
理想的な公爵夫人でありたかった。けれども実際には、こんなこともできない小娘でしかないなんて。打ちのめされたような気分だ。これ以上、底があるなんて、今気づきたくなかった。
ここで取り乱したくない。せめて見苦しくない散り様を見せてやりたい……最後に記憶に残る姿は、美しくありたい。ただそれだけが、クリスティーナの折れかけた心を支えていた。
震える手を止めてしまう前に、一息にあおろうと決める。そうしてその瞬間、夫の方を見てしまった。
どんな顔をしているのだろう。知りたいような、知りたくないような……でもせめて、こちらを見て欲しいと思った。
夫は……フェリクスは、驚愕に染まった顔をしていた。ガタンと激しく椅子が倒れる音が聞こえた。
なんだろう、と思う暇もなく杯を弾き飛ばされてしまう。カシャン、と鈴のような音が鳴る。繊細な杯が割れる音だ。ずいぶんと遠く聞こえた。
結局、中身はごく少量しか口にできなかった。これで効くといい、半端に苦しみたくはない。震え続ける手は、強く弾かれた衝撃のせいか、あるいは毒のせいなのか。
「なにをしている?!」
初めて聞くような大声だ、とクリスティーナは思った。
「なぜ飲んだ!」
激しく詰問されクリスティーナは戸惑った。なぜ、とはこちらの台詞だ。あなたの望むようにしたのに、なぜ?
なぜ、止めたのだろう。なぜ、そんな顔をしているのだろう、なぜ、抱きしめられているのだろう……
痛いほどの力で肩を掴まれている。自分の体がもはや自力で起き上がれないのだと、クリスティーナはそこでようやく気づいた。己の頽れた体を支えているのが、他ならぬフェリクスである事にも。
どうして、と聞こうにも、唇がうまく動かない。掠れたような呼吸が喉をようやく通っていく。
すぐに、意識が遠くなっていった。
そうして、クリスティーナは眠りに落ち――幸か不幸か目が覚めた。再び彼女が起き上がった時には、夫の態度は一変していた。思わぬ方に。




