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シャドービハインド  作者: 秋月キアラ
第三章 夜の産声
17/31

第三節 引き渡し要求

 白昼局の危険影害対策審査部は、昼でも薄暗かった。


 窓はある。


 ただし、外の光はすべて遮光フィルムで濾過され、室内へ入るころには無機質な白へ変わっている。


 壁も白。


 机も白。


 床も、影が濃く落ちない加工が施されている。


 そこにいる人間たちだけが、白ではない。


 黒いスーツ。


 灰色の制服。


 白昼局の腕章。


 その中で、鷺沼は端末の前に立っていた。


 表示されているのは、VIOLET DRAGON周辺の立体図。


 旧市街の雑居ビル。


 表向きのバー兼ライブハウス。


 裏口。


 搬入口。


 地下へ続く推定通路。


 隔離区画。


 保存血庫。


 居住区。


 その多くは白昼局の公式記録に存在しないはずの情報だった。


 しかし、画面上にはかなり正確な内部構造が浮かんでいる。


 職員の一人が、慎重に言った。


「鷺沼審査官。強制捜査には管理局医療連携室の同意が必要です。辰巳室長はまだ暫定観察を支持しています」


「同意は必要ない」


 鷺沼は画面から目を離さずに答えた。


「緊急影害予防措置として申請する。対象がQ系統疑いであり、かつ未登録組織が検査結果を改竄した可能性がある場合、危険影害対策審査部の単独判断で動ける」


「VIOLET DRAGON側は不明系統と報告しています」


「それが改竄だ」


 鷺沼は淡々と言った。


「リサは知っている。シンも知っている。あの二人が知らないまま、Q系統を不明で提出するはずがない」


 職員は返答に詰まる。


 別の職員が、端末へ新しい映像を出した。


 ファミリーレストランの防犯カメラ映像。


 窓際の席。


 三倉戒十。


 向かい側に座る白い服の女。


 映像は粗い。


 音声はない。


 だが、カオルコが立ち上がる瞬間、彼女の影が半秒遅れて床へ追いつく様子が、わずかに記録されていた。


「対象は本日、未登録人型影身と接触。該当個体は湾岸施設で確認されたカオルコと一致。通信妨害を伴っています」


 鷺沼は映像を見た。


 表情は変わらない。


「三倉戒十をVIOLET DRAGONへ置いた結果が、これだ」


「接触場所は昼間の一般店舗です。VIOLET DRAGON側にも監視不能だった可能性が」


「言い訳にはなる」


 鷺沼は短く言った。


「許容理由にはならない」


 画面が切り替わる。


 今度は、三倉戒十の影紋解析図。


 中央に浮かぶ黒い王冠状のパターン。


 Q系統。


 旧分類名、クイーン。


 鷺沼はその図を見つめ、指で拡大した。


「強制捜査の目的は三つ。第一に、三倉戒十の身柄確保。第二に、VIOLET DRAGONが保有する該当検査データの押収。第三に、カオルコおよび夜の王関連情報の回収」


「抵抗があった場合は」


「通常手順」


「通常手順では、離影者共同体内で混乱が起きます。居住区には未成年者と長期療養者もいます」


「だから夜ではなく、昼に動く」


 鷺沼は振り返った。


 会議室の全員が彼を見る。


「昼は彼らの影が弱い。VIOLET DRAGONは夜に強い共同体だ。昼に押さえる」


「三倉戒十も昼に弱ります」


「弱っているうちに確保する」


「対象が影人格の反発を起こす可能性は」


「照射具を使う。必要なら影核停止処置も視野に入れる」


 その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。


 誰かが小さく息を呑んだ。


 鷺沼は気にしない。


「感情論は不要だ。Q系統を取り逃がせば、都市規模の影害へ発展する。VIOLET DRAGONは自分たちの共同体を守るために嘘をつく。我々は昼の社会を守るために動く。それだけだ」


 彼は端末へ書類を送信した。


 強制捜査準備命令。


 旧市街・VIOLET DRAGON。


 実施予定、未定。


 準備開始。


 白い画面の中で、黒い文字が冷たく並んだ。


     ◇


 戒十がVIOLET DRAGONへ戻ったとき、表の店はまだ開いていなかった。


 昼間のバーは、古い舞台装置のように静かだ。


 しかし、空気がいつもと違った。


 普段なら、地下へ降りる途中で誰かの話し声が聞こえる。


 カウンターの男がグラスを磨く音。


 リサの軽口。


 医師の足音。


 居住区から漏れるテレビや食器の音。


 今日はそれらが低く抑えられていた。


 誰も大きな声で笑わない。


 廊下ですれ違う人々が、戒十を見る。


 すぐに目を逸らす者もいる。


 心配そうに見る者もいる。


 あからさまな警戒を向ける者もいる。


 戒十はその視線を全部、肌で感じた。


 ファミリーレストランから戻る車内で、リサもシンもほとんど話さなかった。


 カオルコが接触した。


 通信を妨害した。


 家族の話をした。


 クイーンを母と呼んだ。


 夜の王を父と呼んだ。


 戒十を弟にしようとした。


 そして、純だけに理解する役を背負わせるなと警告した。


 それらを話したとき、リサは何度か言葉を挟みかけた。


 けれど結局、ほとんど黙っていた。


 シンは一度だけ聞いた。


「カオルコはおまえに触れたか」


「触れてません」


「血の匂いは」


「ありません」


「影声は」


「ありました。でも、弱い」


「クイーンの声は」


 戒十はそこで沈黙した。


 カオルコと話している間、あの女の声は聞こえなかった。


 だが、影の奥がずっと冷たかった。


 何かが聞いている。


 そんな感覚はあった。


「はっきりとは、ありません」


「そうか」


 シンはそれ以上聞かなかった。


 聞かなかったことが、逆に重かった。


 地下へ降りると、診療室ではなく、共同区画へ通された。


 そこは普段、住人たちが食事をしたり、短い打ち合わせをしたりする場所らしい。


 大きなテーブルがいくつか並び、壁には照明調整用のパネルがある。


 天井の光は柔らかい。


 ただ、いつもより少し明るい。


 多くの住人が集まるため、影が濃くなりすぎないようにしているのだろう。


 そこには、すでに何人もいた。


 カウンターでグラスを磨いていた白髪交じりの男。


 深夜のコールセンターで働くスーツ姿の女性。


 ギターを抱えていた若い男。


 以前、食器を片づけていた少女。


 医師。


 リサ。


 シン。


 ほかにも、戒十の知らない住人たちが数人。


 全員の視線が、一瞬だけ戒十へ集まった。


 戒十は立ち止まる。


 足元の影が短く揺れる。


 光源は五つ。


 影は三本。


 血の匂いはない。


 左手は熱い。


 影声はない。


 退路は、背後の廊下。


 シンが低く言った。


「座れ」


「僕も参加するんですか」


「おまえの話だ」


「今まで、僕抜きで進むことが多かったですけど」


 言ってから、少し空気が硬くなった。


 リサが苦笑しようとして、やめる。


「今日は、聞いて」


「発言は?」


「していい。ただし、暴れそうになったら申告」


「わかってます」


 戒十はテーブルの端へ座った。


 隣にはシンが立つ。


 座らない。


 その位置が、戒十を守るためなのか、止めるためなのか、どちらもなのかはもう考えるまでもなかった。


 白髪交じりの男が最初に口を開いた。


「白昼局の処分派が動くってのは、本当か」


 リサが頷く。


「準備に入った。まだ令状も、正式な実施時間も出てない。でも、早ければ今夜から明日の昼」


 共同区画がざわついた。


「昼?」


 スーツ姿の女性が声を上げる。


「昼に来られたら、こっちは動けない人が多い。居住区の子たちも、薬で寝てる時間でしょう」


「だから狙うんだろ」


 ギターの若い男が吐き捨てる。


「あいつら、俺たちを人間として見てない」


「そんなことはないわ」


 医師が静かに言った。


「白昼局にも管理派はいる。辰巳室長は治療管理を主張している」


「でも来るのは処分派なんだろ」


 若い男の声が荒くなる。


「三倉を理由に、ここを潰しに来るんじゃないのか」


 戒十の肩がわずかに動いた。


 三倉を理由に。


 その言葉は、誰かが隠していたものをそのまま出したようだった。


 リサが若い男を見る。


「言い方」


「でも事実だろ」


 若い男は戒十を見た。


 敵意だけではない。


 恐怖もある。


「悪いけどさ、あんたが来てから一気におかしくなってる。黒猫型の落影。白昼局。カオルコ。Q系統だか何だか知らないけど、処分派がここへ踏み込む口実になってる」


「やめなさい」


 スーツ姿の女性が低く言う。


「彼が望んで持ち込んだわけじゃない」


「わかってるよ。でも、望んでないなら何でも置いていいのかよ」


 若い男はテーブルを指で叩いた。


「俺たちはここで生活してる。仕事にも行ってる。家族と離れて、やっとここで落ち着いてるやつもいる。白昼局に踏み込まれたら、全部終わるんだぞ」


 誰もすぐには反論できなかった。


 戒十は口の中が乾くのを感じた。


 血ではない。


 ただ、緊張で喉が張りついている。


 白髪交じりの男が腕を組んだ。


「俺は三倉を追い出せとは言わねえ。ただ、移す手は考えるべきだ。ここに置いたまま全員巻き込むのは違う」


「どこへ移す」


 シンが問う。


「旧港の二号隠れ家とか」


「あそこは影固定設備が弱い。黒猫型に追跡されたらもたない」


「なら山側の廃診療所」


「白昼局の巡回範囲に入っている」


「じゃあどうするんだよ」


 白髪交じりの男が苛立ったように言った。


「ここに置くのか。Q系統疑いを」


 Q系統。


 その言葉で、空気がまた冷える。


 戒十はリサを見た。


 リサは何も言わない。


 否定しない。


 認めもしない。


 その沈黙が、共同体の中でもすでに答えのように扱われている。


 少女が小さく手を上げた。


 以前、食器を片づけていた子だ。


 実年齢はわからない。


 見た目は幼いが、声は落ち着いている。


「Q系統って、本当に危ないの?」


 医師が答える前に、別の住人の中年女性が言った。


「危ないに決まってるでしょう。昔の記録、知らないの?」


「知らない。私、後から来たから」


「じゃあ黙ってなさい」


「黙らないよ。知らないから聞いてる」


 少女の声は静かだったが、退かなかった。


 中年女性は唇を結ぶ。


 リサがようやく口を開いた。


「Q系統については、まだ確定してない」


「リサ」


 白髪交じりの男が低く言った。


「ここでそれは通らねえよ。白昼局相手には不明系統で出すのはわかる。でも、俺たちにまで同じ言い方するのか」


 リサの表情が揺れる。


 戒十はそれを見た。


 彼女は、白昼局に嘘をついた。


 今、共同体にも同じ嘘をつこうとしている。


 いや、完全な嘘ではないのかもしれない。


 確定していない。


 その言葉は、技術的には正しいのかもしれない。


 だが、リサ自身はもっと知っている。


 そのことだけは、もう隠せていない。


 スーツ姿の女性が静かに言った。


「私は、三倉くんを置いていいと思う」


 若い男が振り返る。


「正気かよ」


「正気よ。私も最初はそうやってここへ来た。外に置けない、家にも帰せない、白昼局に渡せない。だから、ここへ置かれた。私を置いてくれた場所が、次の子を置けないと言うのは嫌」


「次の子って危険度じゃないだろ、今回は」


「危険度だけで決めるなら、私たちは全員いつか追い出される」


 その言葉に、何人かが目を伏せた。


 若い男は言い返そうとして、言葉を探し、見つからなかった。


 しかし別の男性が言った。


「綺麗ごとだ。あんたは仕事に行ける。外にまだ居場所があるからそんなことが言える。ここを潰されたら、俺たちの中には行く場所がないやつもいる」


「だから、守るべきだと言ってるの」


「三倉を?」


「ここを。三倉くんを引き渡しても、白昼局がここを放っておく保証はない。むしろ、一度引き渡せば次も要求される」


 リサが小さく頷いた。


「それはある。前例になる」


「前例より今の危険だ」


 若い男は苛立ったまま言う。


「カオルコが接触したんだろ。通信妨害までして。三倉がここにいれば、また来る。白昼局も来る。夜の王とかいうのも絡んでる。だったら、少なくとも外へ移すべきだ」


「俺は移送に反対だ」


 シンが言った。


 全員の視線が彼に向く。


「外へ出せば、白昼局かカオルコに取られる。三倉の影はまだ安定していない。環境を変えすぎれば、暴走の危険も上がる」


「じゃあ、ここで抱えろって?」


「そうだ」


「シンさんが止めるから?」


「必要なら止める」


「長瀬さんみたいに?」


 その言葉が出た瞬間、場が凍った。


 リサが鋭く若い男を見る。


 シンは表情を変えない。


 だが、戒十は胸の奥が冷えるのを感じた。


 長瀬透。


 名前がまた、空気の中に戻ってきた。


 シンの手帳。


 影核を斬った刃。


 若い男は言ったあとで少し後悔したような顔をしたが、引っ込めなかった。


「すみません。でも、みんな思ってることです」


 沈黙。


 その沈黙が、肯定に近かった。


 シンは短く答えた。


「そうだ。必要なら、そうする」


 リサが目を伏せる。


 医師が息を吐く。


 戒十は、自分の左手を見た。


 もし自分が暴走すれば、シンは斬る。


 それはわかっている。


 だが、その約束が共同体の中で安心材料にも恐怖にもなっているのを、今初めて見た。


 シンが止めるから置ける。


 シンが斬るから怖い。


 どちらも同時にある。


「僕が出ていけばいいんじゃないですか」


 気づいたときには、戒十はそう言っていた。


 全員の視線が彼へ向く。


 リサがすぐに口を開く。


「それは駄目」


「でも、僕がいることでここが壊れるなら」


「駄目」


「リサさん」


「駄目」


 三度目の声は、強かった。


 戒十は少しだけ怯んだ。


 リサは椅子から立ち上がる。


「あたしは、ここを守る。戒十くんも守る。その二つを、今は分けない」


「分けなきゃ、どっちも壊れるかもしれない」


「それでも、君一人を外へ放り出す選択はしない」


「外へ放り出すんじゃなくて、僕が出ていくって言ってるんです」


「同じこと」


「違います」


「違わない!」


 リサの声が、共同区画に響いた。


 彼女がここまで強く声を荒げるのを、戒十はあまり聞いたことがなかった。


 リサ自身も、その声に少し驚いたようだった。


 彼女は息を整え、少し声を落とす。


「外に出たら、白昼局が取る。カオルコが取る。クイーンが――」


 そこで止まった。


 戒十は聞き逃さなかった。


 クイーンが。


 何をする。


 奪うのか。


 呼ぶのか。


 身体を取るのか。


 リサは言い直した。


「とにかく、外は危ない」


「今、クイーンって言いましたね」


 戒十の声に、場がさらに静まる。


 リサは答えない。


「やっぱり、知ってるんですね」


「戒十くん」


「僕の影紋が何なのか、知ってる。カオルコさんが何なのかも、クイーンが何なのかも、リサさんは知ってる。でも言わない」


 リサは唇を結んだ。


 シンが低く言う。


「三倉、今は」


「今は言えない、ですか」


 戒十はシンを見ずに言った。


「それ、何回目ですか」


 足元の影が、わずかに濃くなる。


 戒十はすぐに自分で言葉にした。


「影声はありません。血の匂いもありません。左手が熱い。怒ってます。でも、暴れません」


 シンは何も言わなかった。


 リサも何も言わない。


 戒十はリサを見た。


「僕を守ってくれているのはわかってます」


 それは、本当だった。


 白昼局から守った。


 カオルコの接触後も戻してくれた。


 検査結果を偽装して、処分審査へ送られないようにした。


 それらは全部、事実だ。


「でも、守りながら隠してる」


 リサの顔が痛む。


「僕が知ったら壊れると思ってるんですか。それとも、リサさんのほうが壊れるんですか」


 その言葉は、少し残酷だった。


 言ってから、戒十にもわかった。


 しかし、もう止められなかった。


 リサはすぐには答えられなかった。


 その沈黙で、戒十は確信した。


 隠しているのは、自分のためだけではない。


 リサ自身のためでもある。


 彼女は、クイーンという名前に触れられない。


 カオルコの「お姉さま」を否定しながら、それでも完全には切り離せない。


 その過去が、自分の影紋とつながっている。


 戒十はようやく、輪郭だけを掴みかけていた。


「僕が出ていくって言ったのは、ここを守るためだけじゃないです」


 戒十は続けた。


「ここにいると、僕はずっと知らないまま守られる。知らないまま止められる。知らないまま、誰かの過去に巻き込まれる。それが嫌なんです」


「巻き込んだのは、あたしじゃない」


 リサの声は震えていた。


「わかってます」


「でも、あたしは隠してる」


「はい」


「だから怒ってる」


「はい」


「それでも、今はまだ言えない」


 リサは、逃げるようにではなく、苦しむように言った。


「言ったら、君の影が反応する。クイーンがもっと近づく。カオルコも、白昼局も、夜の王も、君を取り合う理由が増える。あたしの怖さだけじゃない。言えない理由は、本当にある」


「それが本当かどうか、僕には判断できません」


「うん」


「だから、信じろって言われても無理です」


「うん」


 リサは頷く。


 否定しない。


 謝らない。


 ただ、受け止めている。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 戒十は聞いた。


 その問いは、リサだけではなく、この場の全員へ向いていた。


 誰もすぐには答えなかった。


 白髪交じりの男が、重い息を吐く。


「俺は、三倉をすぐ引き渡せとは言わねえ」


 若い男が顔を上げる。


「さっきと違うじゃん」


「違わねえよ。ここへ置くのは危ない。だが、白昼局へ渡して安全になるとも思えねえ。だから、条件を決めるべきだ」


「条件?」


「三倉の行動範囲を絞る。外出は同行必須。純って子との接触も、場所と時間を決める。検査結果は、ここの中には開示する。少なくとも、リサ一人で抱えるな」


 リサがわずかに目を伏せる。


 スーツ姿の女性が頷く。


「私も賛成。隠すなら外へは守れない。中にいる人間には、必要な範囲で説明して」


 若い男はまだ納得していない顔だったが、すぐには反論しなかった。


 少女が言った。


「私は、三倉くんが怖いかどうかは、まだわからない」


 戒十は彼女を見る。


 少女はまっすぐ返す。


「でも、知らないまま怖がるのは嫌。だから、知りたい」


 その言い方は、純に少し似ていた。


 戒十は胸の奥が小さく痛む。


 リサはゆっくり息を吸った。


「わかった。内部向けの説明資料を作る。全部は無理。でも、Q系統疑いと、カオルコの接触、白昼局の動き、戒十くんの現在の手順訓練状況は共有する」


「クイーンについては」


 戒十が聞く。


 リサは目を伏せる。


「まだ、言えない」


 やはり。


 その答えで、戒十の中の確信は固まった。


 彼女は、まだ隠す。


 守るために。


 自分のために。


 誰かのために。


 どれが一番なのかはわからない。


 だが、隠すことだけは確かだ。


 シンが言った。


「移送はしない。だが、地下居住区の通常運用は縮小する。白昼局が踏み込む可能性に備え、非戦闘員は二班に分けて退避準備。三倉は隔離区画ではなく、訓練室奥の管理室へ移す」


「隔離じゃないんですか」


 戒十が聞く。


「隔離ではない。逃げ道と拘束手段が両方ある部屋だ」


「それ、言い方を変えた隔離では?」


「半分はそうだ」


「正直ですね」


「嘘よりましだ」


 そのやり取りに、場の空気がほんの少しだけ緩んだ。


 完全ではない。


 共同体の亀裂は残っている。


 若い男はまだ不満そうだ。


 中年女性は戒十を警戒したままだ。


 スーツ姿の女性や少女は守る側に立っているが、それも無条件ではない。


 白昼局は外で準備を進めている。


 カオルコは自由に接触してくる。


 リサはまだ言わない。


 それでも、話し合いは一つの形を得た。


 追い出さない。


 引き渡さない。


 ただし、隠しきらない。


 少なくとも、共同体の中では。


 戒十は椅子の背にもたれた。


 疲れていた。


 話し合いに参加するだけで、これほど疲れるとは思わなかった。


 足元の影が、短く揺れた。


 声はしない。


 だが、何かを考えている気配があった。


 リサがこちらを見る。


「戒十くん」


「はい」


「出ていくのは、駄目」


「……今は、ですよね」


「今は」


「ずっとじゃない」


「ずっと閉じ込めるつもりはない」


「信じろって?」


 リサは少しだけ困ったように笑う。


「信じられないままでも、今はここにいて」


 その言い方は、ずるかった。


 信じて、と言われるよりも断りにくい。


 戒十はため息をついた。


「僕、ここにいるだけで、全員に迷惑かけてますね」


「それを言い出すと、ここにいる全員だいたい誰かに迷惑かけてるよ」


 スーツ姿の女性が静かに言った。


「だから、共同体なんでしょう」


 白髪交じりの男が小さく笑う。


「綺麗にまとめたな」


「たまには」


 若い男は黙っていた。


 だが、さっきより視線の尖り方は少し弱くなっている。


 戒十は頭を下げるべきか迷った。


 謝るべきか。


 礼を言うべきか。


 どちらも違う気がした。


 結局、彼は言った。


「危ないと思ったら、言います。血の匂いも、影声も、左手の熱も。逃げたくなったら、それも」


 シンが頷く。


「それでいい」


「よくはないです」


「それで始めろ」


 戒十は返事をしなかった。


 しかし、否定もしなかった。


     ◇


 話し合いが終わったあと、共同区画の人々は少しずつ散っていった。


 退避準備。


 保存血の移動。


 薬品の整理。


 白昼局の強制捜査に備え、地下の空気はさらに慌ただしくなる。


 戒十は廊下の端で、リサに呼び止められた。


「さっきは、ごめん」


「謝らないでくださいって言った気がします」


「それでも、ごめん」


「許さなくていいってやつですか」


「うん」


「便利ですね」


「便利だね」


 リサは小さく笑った。


 しかし、その目は疲れている。


 戒十は少し迷ってから言った。


「僕、リサさんが守ってくれてることはわかってます」


「うん」


「でも、隠してることもわかってます」


「うん」


「どっちも本当なんですよね」


「たぶんね」


「たぶん?」


「あたしも、自分が何を一番守りたいのか、時々わからなくなる」


 リサは廊下の灯りを見上げた。


 彼女の足元には、やはりほとんど影がない。


 そのことが、今はひどく意味を持って見えた。


「昔、なくしたものを、なくしたままにしておくほうが安全なこともあるの」


「それ、僕の話ですか」


「半分は」


「残り半分は?」


 リサは答えなかった。


 戒十はもう、それで十分だった。


 残り半分は、リサ自身の話だ。


 クイーン。


 カオルコ。


 お姉さま。


 母。


 妹。


 その全部が、彼女のなくしたものへつながっている。


 リサは戒十へ向き直る。


「いつか話す」


「いつかって、逃げるための言葉ですよね」


「そういうときもある」


「今回は?」


 リサはしばらく黙った。


 そして、言った。


「今回は、準備するための言葉にしたい」


 戒十はその答えを信じられなかった。


 でも、完全に切り捨てることもできなかった。


「わかりました」


 そう言うしかなかった。


 リサは少し驚いたように瞬きをする。


「わかってくれるの?」


「理解はしてません。保留です」


「厳しい」


「純の影響です」


「ああ、純ちゃん厳しそうだもんね」


「リサさんより信用できます」


「それは傷つくなあ」


「傷ついてください」


「本当に厳しい」


 リサはようやく、ほんの少しいつもの笑い方をした。


 だが、その笑いは長く続かなかった。


 遠くの廊下で、スタッフが白昼局対策の物資を運んでいる。


 箱の中には、影固定剤、照射防護シート、携帯用遮光布、保存血パック。


 この場所が、避難所であり、病院であり、生活の場であり、戦場になろうとしていることが、戒十にもわかった。


 自分がその中心にいる。


 望んだわけではない。


 だが、いる。


 だから、もう知らないふりはできない。


「リサさん」


「何?」


「クイーンのこと、言えるようになったら、最初に僕へ言ってください」


 リサの表情が固まる。


「共同体への資料より先に。白昼局への報告より先に。僕へ」


「……うん」


「約束です」


「約束」


「破ったら」


「怒っていいよ」


「もう怒ってます」


「じゃあ、もっと怒っていい」


 リサは小さく言った。


 戒十は頷いた。


 その頷きは、信頼ではない。


 契約に近かった。


 信じられないまま、約束だけを置く。


 今はそれが限界だった。


 足元の影が、静かに揺れた。


 声はしない。


 ただ、影もその約束を聞いていた。


 戒十には、そんな気がした。

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