第二節 家族のふり
純が図書館の前から去ったあと、戒十はしばらくベンチから動けなかった。
昼の光は変わらず明るい。
図書館の自動ドアは開閉を繰り返し、本を抱えた人が出入りする。花壇の前では、幼い子どもが母親の手を引いて何かを指差していた。道路の向こうでは、配送トラックが停まり、作業員が段ボール箱を降ろしている。
普通の昼だった。
その普通さが、さっきまでの会話を嘘みたいに薄めていく。
怪物になる予定。
影の声。
血の匂い。
リサ。
シン。
白昼局。
カオルコ。
クイーン。
それらの言葉が、この図書館前のベンチには似合わなかった。
だが、足元の影はある。
左手の痣も消えていない。
ポケットには影固定剤が入っている。
手首の黒いバンドも、袖の下で冷たく肌に触れている。
普通の景色の中で、自分だけが普通に戻りそこねている。
戒十はスマートフォンを取り出した。
リサへメッセージを送る。
『話は終わりました。戻ります』
数秒で既読がついた。
リサから返事が来る。
『えらい。逃げなかった?』
戒十は少しだけ眉をひそめた。
『逃げてません』
『そっか。じゃあ、迎えは十五分後。図書館裏の通りにいて。人目のある場所ね』
いつもの軽い文面。
だが、その裏に監視と心配が混ざっていることは、もうわかった。
戒十は返信せず、スマートフォンをしまった。
ベンチから立ち上がる。
図書館裏の通りへ向かうには、表通りを少し歩いて、古いファミリーレストランの角を曲がる必要がある。
そこはまだ営業している店だった。
赤と黄色の看板。
昼時を少し過ぎて、店内は混雑の山を越えたころだろう。
窓際の席に人影がちらほら見える。
人目のある場所。
条件としては悪くない。
戒十は歩きながら、手順を確認した。
光源は太陽。
影は一本。
血の匂いはない。
左手は少し熱い。
影声は弱い。
退路は、図書館側、駅前通り、ファミリーレストランの入口。
純と話したあとだからか、影はまだ落ち着いている。
怒りも、嫉妬も、恐怖も消えてはいない。
だが、今は床の上で大きく暴れようとはしていない。
話した。
逃げなかった。
それだけのことが、影にも何かを沈めたのかもしれない。
そう思いかけて、戒十はすぐに打ち消した。
都合よく考えるな。
影は影だ。
いつでも先に動く。
そのことを忘れたら危ない。
ファミリーレストランの前まで来たとき、スマートフォンが震えた。
リサかと思った。
だが、画面に表示された送信者名はなかった。
差出人不明。
本文は短い。
『弟くん、窓際』
戒十の背筋が冷たくなった。
弟くん。
その呼び方をした相手を、彼は一人しか知らない。
いや、正確にはまだ呼ばれていない。
だが、言いそうな相手なら一人しかいない。
戒十は反射的にファミリーレストランの窓を見た。
午後の光を反射するガラス。
その向こう、窓際の席に、白い服の女が座っていた。
カオルコだった。
閉鎖された湾岸モールで見たときと同じ、白いワンピース。
今日は薄紫のカーディガンを羽織っている。
長い黒髪は肩の前へ流され、テーブルの上には、いちごパフェとフライドポテト、それからほとんど手をつけていない紅茶が並んでいた。
彼女は店内の明るい席で、普通の客のように座っていた。
普通ではないのは、その視線だけだ。
ガラス越しに、まっすぐ戒十を見ている。
そして、手を振った。
小さく。
親しい相手へするように。
戒十は立ち止まった。
逃げるべきだ。
すぐにリサへ連絡する。
あるいはシンへ。
そう思い、スマートフォンを操作する。
圏外になっていた。
さっきまで通信できていたのに。
画面の右上に、電波の線が一本もない。
同時に、手首の黒いバンドが小さく震えた。
検知している。
だが、通信が通っていない。
カオルコは窓の向こうで、口の形だけで言った。
「おいで」
行くべきではない。
だが、店内には客がいる。
昼間だ。
窓際だ。
完全な暗闇でも、人目のない路地でもない。
カオルコが何をするつもりでも、ここで派手なことはしないはずだ。
そう考えた瞬間、足元の影が揺れた。
また理由を作ってる。
影の声だった。
戒十は低く言った。
「黙れ」
だが、自分でもわかっていた。
今のは、行く理由を作った。
逃げない理由ではなく、近づく理由。
どちらも同じだ。
戒十は深く息を吸う。
血の匂いはない。
左手は熱い。
影声はある。
内容は、警告。
退路は入口。
光源は太陽、店内照明、窓の反射。
影は中へ入れば増える。
それを理解したうえで、彼は店の自動ドアをくぐった。
◇
店内は、昼の匂いがした。
焼けた肉。
揚げ油。
コーヒー。
甘いソース。
食器用洗剤。
子ども用の紙ナプキン。
人の体温。
血の匂いはない。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
しかし、照明が多い。
天井の丸いライト。
窓から入る太陽光。
テーブルの上に落ちる反射。
レジ横のメニュー看板。
ドリンクバーの青い光。
戒十の影は、足元で三本に分かれた。
店員が「お一人様ですか」と声をかけようとしたが、カオルコが先に手を上げた。
「こちらです。待ち合わせなの」
店員は一瞬だけ戒十を見る。
高校生と、少し年上の女性。
不自然ではある。
だが、完全に不審というほどでもない。
戒十は軽く頭を下げ、カオルコの向かいへ座った。
座った瞬間、彼はすぐに距離を確認する。
テーブル一つ分。
手は届かない。
影は、窓からの光で右後方へ伸びている。
店内照明で左足元へ短い影。
ドリンクバーの反射で、テーブル下に薄い影。
カオルコの影は、ある。
だが薄い。
彼女の身体の輪郭と合っていない。
白いワンピースの裾から落ちるはずの影が、少し遅れて床へ滲んでいる。
「ちゃんと数えてる」
カオルコが嬉しそうに言った。
「えらいわ、猫ちゃん」
「その呼び方、やめてください」
「じゃあ弟くん?」
「もっとやめてください」
「難しい子」
カオルコはパフェのいちごをスプーンでつついた。
食べるのかと思ったが、口へ運ばない。
ただ、赤い果肉がクリームに沈むのを眺めている。
「リサさんたちへ何をした」
戒十は声を低くした。
「通信」
「ちょっと眠ってもらっただけ。数分で戻るわ」
「そういうの、普通に犯罪ですよ」
「普通に考えたら、あなたの存在も犯罪みたいなものよ」
「笑えない」
「笑わなくていいわ。わたくしが笑うから」
カオルコは微笑んだ。
その笑顔は綺麗だった。
綺麗すぎる。
だが、口元だけが少し遅れて動く。
表情の作り方を、どこかで学んだ人形のようだった。
「何の用ですか」
「家族の話をしに来たの」
「帰ります」
戒十は立ち上がろうとした。
その瞬間、テーブル下の薄い影が、足首へ絡みそうになった。
戒十はすぐに止まる。
カオルコは首を傾ける。
「逃げ足は早いのに、心はずっと同じ場所で足踏みしているのね」
「何をした」
「何も。逃げたい気持ちを、ちょっと影に見えるようにしただけ」
「店内ですよ」
「だから、お行儀よくしているでしょう?」
カオルコはパフェのスプーンを置き、両手を膝の上に揃えた。
その仕草が妙に古風で、どこか不気味だった。
「座って。乱暴なことはしないわ。今日はお誘い」
「誘い?」
「家族になりましょう、猫ちゃん」
戒十は座ったまま、彼女を見た。
馬鹿げている。
そう言い捨てたいのに、声が出るまでに少し時間がかかった。
「意味がわからない」
「意味ならあるわ。わたくしは、リサお姉さまの妹として作られたの」
「作られた?」
「そう。似せられた。混ぜられた。整えられた。お姉さまの身体の記録、影の匂い、失くしたものの形。わたくしは、妹」
「リサさんは否定してた」
「否定するわ。お姉さまは怖がりだから」
カオルコは少し悲しそうに笑った。
その悲しみが本物なのか演技なのか、戒十にはわからない。
「自分のなくしたものを見るのは怖いでしょう? 鏡に映らないものが、別の身体で笑っていたら、誰だって怖いわ」
「リサさんの妹として作られたって、誰に」
「父さま」
「夜の王」
「そう呼ぶ人もいるわ」
カオルコの目が少しだけ細くなる。
「父さまは、壊れた家族を戻そうとしているの。ばらばらになったものを、一つへ。肉体と影。姉と妹。母と娘。失われた名前と、まだ名前を持てないもの」
「家族って言えば、何でも綺麗になると思ってます?」
「綺麗じゃなくていいの」
カオルコは紅茶のカップに触れた。
指先が白い陶器の縁をなぞる。
「家族なら、捨てられないでしょう」
その言葉が、妙に重く落ちた。
戒十は表情を変えないようにした。
だが、胸の奥で何かが引っかかる。
カオルコは続ける。
「クイーンは、わたくしたちの母にあたるの」
クイーン。
その名が出た瞬間、左手の痣が冷たく脈打った。
足元の影が、テーブル下でわずかに濃くなる。
カオルコはそれを見て、嬉しそうにした。
「反応した」
「クイーンって何なんですか」
「お母さま」
「そういう役割の話じゃなくて」
「役割は大事よ」
カオルコははっきり言った。
「役割があれば、どこに立てばいいかわかるでしょう? お姉さまはお姉さま。わたくしは妹。クイーンはお母さま。父さまは父さま。そして、猫ちゃんは弟」
「勝手に入れないでください」
「嫌?」
「嫌です」
「どうして」
「家族じゃないから」
「なればいいのに」
「なりません」
「家族が嫌い?」
カオルコの声は柔らかかった。
しかし、その質問は刃のようだった。
戒十は一瞬、自宅の光景を思い出した。
帰りの遅い父。
メモを残す母。
冷蔵庫の夕食。
誰も悪くない家。
誰も悪くないのに、いつも少し冷たい食卓。
家族が嫌いなわけではない。
でも、家族という言葉へ、無条件に温かさを感じられるほど単純ではなかった。
「嫌いじゃない」
戒十は言った。
「でも、家族って呼べば距離がなくなるわけじゃない」
「距離なんて、なくしてしまえばいいのに」
「それが嫌なんです」
カオルコは瞬きをした。
その顔に、本当にわからないという色が浮かぶ。
「どうして?」
「近いことと、縛ることは違うから」
「縛らないと、逃げるでしょう?」
カオルコは当然のように言った。
その一言で、戒十は彼女の言う家族の形を少し理解した。
関係を求めているのではない。
いや、求めてはいる。
だが、彼女にとって関係とは、役割を与えて逃げられなくするものだった。
妹。
姉。
母。
父。
弟。
名前ではなく、役割。
役割を与えれば、相手はそこに立たなければならない。
姉なら妹を見なければならない。
母なら娘を受け入れなければならない。
弟なら、家族の中へ入らなければならない。
カオルコは、家族になりたいのではない。
家族という言葉で、誰かを自分のそばへ縛りたいのだ。
そしておそらく、自分自身もそこに縛りつけたい。
そうしなければ、彼女は自分の輪郭を保てない。
「あなたは、家族が欲しいんじゃない」
戒十は言った。
カオルコの手が止まる。
「役割が欲しいんだ。自分が何なのかわからないから、妹って役を持っている。リサさんにお姉さまって役を押しつける。クイーンを母にして、夜の王を父にして、僕を弟にする」
「押しつけるなんて、人聞きが悪いわ」
「違うんですか」
「家族は、呼び合うものでしょう?」
「呼ばれた側が嫌がっても?」
「最初は嫌がるわ」
カオルコは笑った。
その笑顔は少し硬い。
「でも、何度も呼べば、形になる。名前もそう。カオルコって何度も呼んでもらえたら、わたくしはカオルコになる。お姉さまって呼べば、リサはお姉さまになる。弟くんって呼べば、あなたも弟になる」
「僕はなりません」
「どうして?」
「僕は、僕の名前で呼ばれたい」
口にしたあと、戒十自身が少し驚いた。
自分の名前。
三倉戒十。
白昼局の資料では対象名。
リサの口では戒十くん。
シンには三倉。
純には戒十。
影には、昼の僕。
カオルコには猫ちゃん、弟くん。
名前の呼ばれ方で、自分の位置が変わる。
それを、ようやく自覚し始めていた。
カオルコはじっと戒十を見る。
「純さんには、名前で呼ばれたい?」
戒十の胸が跳ねた。
彼女の口から純の名前が出るだけで、影が反応する。
テーブル下の影が、かすかに純のいる方角を探すように動いた。
「純を、知ってるんですか」
「もちろん。あなたの影が、あんなに呼んでいるんだもの。純。純。純。守りたい。見てほしい。逃げないでほしい。自分だけをわかってほしい」
「黙ってください」
「純さんだけがあなたを理解していると思わないほうがいいわ」
カオルコの声が、少し低くなった。
「彼女は優しい。強い。怒ってくれる。逃げないふりも上手。でも、彼女は昼の人よ」
「純は関係ない」
「関係あるわ。あなたが関係させた」
カオルコはパフェの赤いソースをスプーンですくった。
血のように見えた。
匂いは甘い。
ただのいちごソースだ。
それなのに、戒十の喉が少しだけ反応する。
カオルコはその反応を見て微笑む。
「純さんは、あなたが怪物になっても名前を呼んでくれるかもしれない。でも、あなたの中にいる全部を愛せるわけじゃない。独占欲も、怒りも、身体を取りたいという声も、クイーンの囁きも。全部を彼女一人に渡したら、壊れてしまうわ」
「だから、あなたたちの家族に入れと?」
「そう」
カオルコは嬉しそうに頷いた。
「家族なら、壊れても一緒にいられる。壊れた部分ごと、役割で繋ぎ直せる。あなたが弟なら、わたくしは迎えに行ける。お姉さまも見てくれる。お母さまも、あなたを欲しがっている」
「クイーンが?」
「ええ。あなたの影は、よく響くもの。閉じ込められているのに、誰かを見捨てきれない。怒っているのに、まだ手順を守ろうとする。そういう影は、綺麗」
綺麗。
その言葉が不快だった。
自分の影を、誰かに品定めされている。
同時に、どこかで喜びそうになる部分がある。
特別。
選ばれている。
そう感じたがっている自分が、まだいる。
戒十はその感覚をすぐに申告したくなった。
だが、ここにはシンもリサもいない。
純もいない。
いるのはカオルコだけだ。
だから、言葉を自分の中へ置いた。
左手が熱い。
影声はない。
ただし、選ばれたいという反応あり。
言ってみると、ひどく情けない内容だった。
だが、言葉にしたことで、少しだけ距離ができた。
「僕を褒めても無駄です」
「褒めてないわ。欲しいと言っているの」
「もっと悪い」
「悪いことじゃないわ。欲しいと思われるのは、存在している証拠だもの」
カオルコの声が、そこで少しだけ揺れた。
戒十は彼女を見た。
白い服。
作られたような顔。
綺麗に整えられた言葉。
その奥に、不安定な影がある。
彼女は、欲しいと言われたいのだ。
誰かに。
リサに。
夜の王に。
クイーンに。
家族という役割の中で、必要だと言われたい。
そのために、他人にも役割を与える。
逃がさないために。
自分が逃げなくて済むように。
「カオルコさん」
戒十は初めて、彼女の名前を呼んだ。
カオルコの目が大きく開く。
ほんの一瞬、彼女の顔から作り物めいた笑みが消えた。
名を呼ばれた子どものような顔。
すぐに笑顔へ戻ったが、その一瞬を戒十は見逃さなかった。
「わたくしの名前、呼んでくれるのね」
「呼びます。でも、弟にはなりません」
カオルコの表情が止まる。
「どうして」
「名前を呼ぶことと、役割を受け入れることは違うから」
「難しいことを言うのね」
「シンさんの影響です」
「あの処刑人さん、嫌い」
「僕も好きじゃない」
「あら、仲良くなれそう」
「でも、シンさんは僕に役割を押しつけているわけじゃない」
言ってから、戒十は少し考えた。
いや、押しつけていないわけではない。
危険個体。
訓練対象。
管理対象。
そういう役割は置かれている。
だが、少なくともシンは、役割で逃げられなくしようとしているわけではない。
危険な部分は手順で扱う。
戻ろうとする部分は信用する。
彼はそう言った。
嫌な大人だ。
でも、カオルコの家族ごっことは違う。
「あなたは、僕を弟にしたいんじゃなくて、僕を逃がしたくないんだと思います」
戒十は言った。
カオルコの指が、スプーンを強く握った。
金属が小さく歪む音がした。
「逃げるほうが悪いのよ」
彼女の声が低くなる。
「名前をつけて、見て、呼んで、欲しいって言ったのに、逃げるほうが悪い。お姉さまも逃げる。猫ちゃんも逃げる。みんな、自分が誰かに必要とされるのが怖いの」
「違う」
「違わない」
「必要とされることと、所有されることは違う」
その言葉を言った瞬間、戒十は純の顔を思い出した。
私を物みたいに言わないで。
歩道橋で、純が影の戒十に言った言葉。
あれは、ここにもつながっている。
カオルコの言う家族は、所有に近い。
優しさの形をした鎖だ。
カオルコは小さく笑った。
「純さんの言葉?」
「僕の言葉です」
「本当に?」
「少なくとも、今は」
「影も同じことを思っている?」
戒十は足元を見る。
テーブル下の影は三つに分かれている。
一つはカオルコを警戒している。
一つは、彼女の孤独に反応している。
もう一つは、純の名前へ向いている。
全部が同じ意見ではない。
「違うかもしれない」
戒十は正直に言った。
「でも、違うなら、あとで聞く」
カオルコは目を細めた。
「いい子になったのね」
「たぶん、嫌な大人たちのおかげで」
「嫌な大人は、いつかあなたを斬るわ」
「知ってます」
「怖くないの?」
「怖いです」
「なら、どうして逃げないの」
「逃げても、別の檻に入るだけだから」
カオルコの表情が、また少し揺れた。
その言葉は彼女にも刺さったのかもしれない。
家族という檻。
父さまという檻。
お姉さまという檻。
お母さまという檻。
カオルコという名前ですら、彼女にとっては救いであり、同時に檻なのかもしれない。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
店内の客の声。
皿が置かれる音。
ドリンクバーの氷の音。
昼のファミリーレストランは、あまりにも普通だった。
このテーブルだけが、夜の側へ少し沈んでいる。
カオルコはパフェのスプーンを置いた。
「今日は、このくらいにしてあげる」
「通信を戻してください」
「もう戻るわ」
「リサさんたちに、ここへ来たことは」
「言ってもいいわ。怒られるでしょうけど」
「あなたが?」
「あなたが」
「最悪だ」
「家族には叱られることも必要よ」
「だから家族じゃない」
「まだね」
カオルコは立ち上がった。
その瞬間、彼女の影が一瞬だけ遅れた。
床に落ちた黒い輪郭が、彼女の足元へ追いつくまでに、ほんの半秒。
その半秒の間、カオルコの身体は影を持たない人形のように見えた。
戒十は息を呑む。
カオルコは気づいているのか、気づいていないふりをしているのか、笑顔のまま言った。
「猫ちゃん。純さんだけがあなたを理解していると思わないこと」
「何度も言わなくても、聞いてます」
「違うわ。これは嫉妬じゃなくて、忠告」
彼女はテーブルへ少し身を乗り出す。
距離はまだある。
だが、声だけが近い。
「理解してくれる人を、一人にしてはいけないの。一人にすると、その人があなたの全部を背負うことになる。優しい人ほど、背負ってしまう。あなたはそれを望んでいないふりをして、きっと望むわ」
戒十は反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
カオルコは続ける。
「あなたの影は、純さんを特別にしたがっている。特別にして、唯一にして、逃げられなくしたがっている。それは愛に似ているけれど、家族ごっこと同じ檻になる」
その言葉は、カオルコ自身にも返る言葉だった。
彼女はわかっていて言っているのか。
わかっていないのか。
戒十には判断できなかった。
「わたくしは檻を作る側だから、わかるの」
カオルコは笑った。
今度の笑みは、少し寂しかった。
「だから、純さんを一人にしないであげて。あなたを理解する役を、彼女だけに押しつけないで」
それだけ言うと、カオルコは伝票を持たずに席を離れた。
「お会計は?」
戒十が思わず言うと、カオルコは振り返る。
「払ってあるわ。家族候補へのおもてなし」
「だから、」
「まだ、でしょう?」
彼女は指を唇に当て、いたずらっぽく笑った。
そのまま店の奥へ向かう。
トイレのある通路。
戒十は立ち上がりかけたが、足元の影が揺れたため、すぐに止まった。
追うべきではない。
ここで追えば、また相手の作った流れに入る。
カオルコは通路の角で一度だけこちらを見た。
その目は、さっきまでよりも少し暗かった。
「またね、弟くん」
「違う」
戒十は小さく返した。
「僕は三倉戒十です」
カオルコは一瞬だけ目を細めた。
それから、嬉しそうに笑った。
「そういうところ、お母さまが好きそう」
その言葉を残して、彼女は角の向こうへ消えた。
数秒後、店内の照明がわずかに瞬いた。
スマートフォンの電波が戻る。
同時に、リサから着信が入った。
戒十はすぐに出る。
『戒十くん!? どこ!? 信号が切れてた!』
「ファミレスです」
『ファミレス!? 何で!?』
「カオルコさんに会いました」
電話の向こうで、リサの息が止まった。
すぐにシンの声が遠くで聞こえる。
『場所を送れ。動くな』
「動きません」
『血の匂いは』
「ありません」
『影声は』
戒十は足元を見る。
影は三本。
どれも少しずつ違う方向を向いている。
だが、暴れてはいない。
「弱いです。左手は熱い。でも、退路はあります」
『カオルコは』
「消えました」
リサの声が、少し遅れて聞こえた。
『何を話したの』
戒十は窓の外を見た。
昼の光。
通りを歩く人。
赤と黄色の看板。
ファミリー向けの店内。
家族という言葉。
役割。
檻。
純だけを唯一にするなという忠告。
その全部を、どう言えばいいのかわからなかった。
「家族の話を」
『……そっか』
リサの声が沈んだ。
『すぐ行く。そこにいて』
「はい」
通話が切れる。
戒十は席へ座り直した。
向かいの席には、カオルコが残したパフェがある。
いちごソースは溶けたクリームに混ざり、赤い筋になってグラスの内側へ流れていた。
血ではない。
ただの甘いソース。
それでも、戒十はしばらく目を離せなかった。
足元の影が、小さく揺れる。
純だけが理解していると思うな。
影の戒十が、低く呟く。
彼女の言うこと、少しだけ正しい。
「わかってる」
本当に?
戒十は答えなかった。
図書館前で純に言った条件。
リサたちの管理。
シンの手順。
カオルコの家族ごっこ。
どれも、彼を縛る。
だが、縛るものすべてが同じではない。
逃がさないための鎖。
落ちないための命綱。
見分けなければならない。
そのためには、名前だけで決めてはいけない。
家族。
保護。
管理。
愛。
理解。
どの言葉も、きっと使い方を間違えれば檻になる。
戒十は水の入ったグラスを手に取り、一口飲んだ。
水はぬるかった。
それでも、喉の奥に残った甘い血のような錯覚を、少しだけ薄めてくれた。




