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第一章 1話 見知らぬ迷子

11月10日 


人生が変わる瞬間には、もう少しそれらしい前触れがあるものだと思っていた。進学や就職、結婚や引っ越し。世間で人生の節目と呼ばれる出来事には、悩む時間なり、覚悟を決める時間なりが、少しくらい用意されているものだろう。

少なくとも、夕食の途中で翌日の予定として告げられるものではない。


「明日、引っ越すから」


僕の人生に訪れた転機は、そんな一言で始まった。

もちろん、その前後には理由らしき言葉も並べられていた。仕事の都合、家庭の事情、などなど。だが、こちらを納得させるための言葉ではなく、すでに決まった話に説明書を添えているだけだった。僕の意見を聞く段階なんて、初めから用意されていなかったのだろう。

嫌だと言っても朝は来るし、行きたくないと言っても容赦なく荷物は運ばれる。結局、僕に残されていたのは、決められた予定に従うか、無駄だと分かっていて騒ぐかの二択だけだった。

諦めたと言えば聞こえが悪いが、物分かりがいいと言えば多少は格好がつくだろうか。

まぁ実際には、何を言っても変わらないことに口を使うのが面倒だっただけなのだ。


そして現在、昨日まで僕の部屋にあったものは、いくつもの段ボール箱に押し込められ、新しい自室の床に積まれている。箱の側面には黒い油性ペンで、「本」「衣類」「学校用品」と書かれ、その横に僕の名前であるーー霧島 京介が付け加えられていた。


引っ越し先は、完成して間もない新築の一戸建てだ。白い壁紙にも明るい色のフローリングにも傷ひとつなく、窓枠や扉からは新しい木材の匂いがする。自分の部屋として用意されたはずなのに、まるで他人の家へ段ボールだけを持ち込んだようで落ち着かない。

窓の外には、見慣れない住宅街が広がっている。新築らしい四角い家の隣には、黒ずんだ瓦屋根の木造住宅があり、その奥には背の高いマンションが空を切り取っている。古いものと新しいものが、どちらかへ統一されることもなく、ただ雑然と隣り合っている。調和しているというより、互いに相手を気にしないまま、同じ場所を使っているだけに見えた。


僕は「本」と書かれた段ボール箱へ腰を下ろす。

箱は少し沈んだものの、硬い中身に支えられて形を保った。下の階から家具を動かす音が聞こえ、それに混じって置き場所を相談する声がする。途中で何度か僕の名前も呼ばれたが、聞こえないふりをした。どうせ、ちゃんと荷解きをやっているのか?とかいう話だろう。自分の荷物くらい自分で片づけろと言われれば、正論すぎて反論の余地もない。だが、今日中にそれをやる義理は僕にはない。段ボール箱は逃げないが、僕の精神的余裕はとっくの昔に音を立てて逃亡していた。

おもむろに僕はスマートフォンを取り出した。時刻は午後2時47分。画面の上部には見慣れない地域名と、曇りを示す灰色の雲のマークが表示されている。降水確率は高くないが、空を覆う雲は妙に重たく見えた。メッセージアプリを開くと、以前の学校の友人たちとのグループに数件の新着があった。


『もう着いた?』

『新しい家の写真送れよ』

『明日から転校生デビューじゃん』


どれも悪意のない言葉だ。だからこそ返事に困る。『着いた』と入力してみたが、その後に続くべき言葉がどうしても見つからず、送信ボタンを押す前にすべて消去した。

到着した。それで何だというのだろう。まだこの町について何も知らないし、知りたいと思う理由もない。明日から通う高校の名前は覚えている。最寄り駅の名前も、家から学校までの道順も一応は聞かされた。けれど、どれもこれも僕の人生に勝手に貼り付けられた安っぽいラベルのようで、現実感というものが欠落していた。代わりに用意されたこの新しい舞台で、僕が一体どんな顔をして、何を感じれば正解なのか。そんなこと、誰も教えてはくれない。

友人を作りなさい。前向きに頑張りなさい。住めば都。そんな言葉は、言われる前から聞き飽きていた。環境が変わった程度で人間が別人になれるなら、誰も苦労しないだろう。


ふぅと息を吐き出すと、スマートフォンをポケットへ押し戻し、段ボール箱から立ち上がった。

荷解きをする気は、やはり微塵も起きない。それなら、この息の詰まる空間にじっとしている意味すらなかった。

上着を羽織り、僕は自分の部屋を出た。階段を下り、玄関近くまで積まれた段ボール箱の隙間を縫って進む。


「どこか行くの?」


二階からの物音が絶えた合間に、階下から母の声がした。


「その辺」


「暗くなる前には帰ってきなさいよ?」


「分かった」


玄関を開けると、室内より冷たい空気が頬へ触れた。冬と呼ぶにはまだ早いが、秋と言い切るには冷えすぎている。どちらにもなりきれない季節の空気だった。

※※※※※※

新居の前は、車が1台通るには十分だが、すれ違うにはいささか心許ない細い道路だった。左右を見ても、目印になりそうな建物はない。似たような家と塀と電柱が並んでいる。それでも1軒ずつ見れば、庭に柿の木がある家、玄関先に子供用の自転車が並んだ家、窓辺に猫が座っている家と、それぞれに違いがあった。

僕は目的地も決めず、適当に歩き出した。道を覚えるためではない。ただ、家から離れたかった。

しばらく歩くと、真新しい住宅が並ぶ区画へ出た。外壁は白や薄い灰色で統一され、駐車場にはよく似た形の車が停まっている。小さな公園には赤と青の遊具が設置されていたが、子供の姿はなかった。そこを抜けると今度は打って変わって古い家が増え、背の低い石垣や剪定された生け垣、母屋と離れをつなぐ渡り廊下が見え始めた。物干し竿に吊るされた洗濯物が、冷たい風のたびに小さく揺れている。自分がこの町のどちら側に立てばいいのかは、やはり見当もつかなかった。


道の向こうから歩いてきた人とすれ違う。軽く頭を下げられ、僕も反射的に会釈を返した。相手はそのまま歩き去ったが、数歩離れたところで一度だけ振り返ったような気配がした。別の通りでは、自転車に乗った学生が近所の人へ声をかけられ、慣れた様子で立ち止まっていた。少し離れた家の庭先では、買い物袋を持った人同士が足を止め、世間話を続けている。

誰も僕を拒絶しているわけではない。それだけは分かる。ただ、この町では誰がどこに住み、どこの家の子供で、どの学校へ通っているのか、皆が互いに薄く知っている。その中を、何にも結ばれていない僕だけが歩いている。明日教室でも、きっと似たようなことが起きるのだろう。名前と顔を覚えられ、数日だけ珍しがられて、それで終わる。向こうから来れば応じる。それ以上は望まない。

——そうやって最初から期待値を低く設定しておく方が、この世界ではいくらか楽に生きられる気がした。

※※※※※※

気づけば、見覚えのある景色はなくなっていた。帰り道の見当がつかないという意味では、完全に道を見失っている。僕は観念したようにスマートフォンを取り出し、地図を開いた。現在地を示す青い点を確認すると、思っていたより新居から離れていることが分かる。液晶画面を指先でスクロールしていると、ふと、少し先に描かれた小さな鳥居のマークが視界に引っかかった。

特段、神社に興味があるわけではないが、今すぐ家へ戻って荷解きを始めるよりはましだと思えたのだ。僕は地図の道順に沿って、見知らぬ町の路地へと足を踏み出した。


しばらく住宅の間を抜けていくと、やがて道の先に低い丘が見えてくる。

「あれか……」

斜面には木々が並び、その上から神社の屋根がわずかに覗いていた。入口は大通りに面しておらず、住宅と雑木林の間に細い参道が延びている。何も知らずに歩いていれば、そのまま通り過ぎてしまいそうな場所だ。参道の入口には苔に覆われた石鳥居。柱には『大賀神社』と深く刻まれていた。この辺の氏神か何かが祀られているのだろうか。奥には緩やかな坂が続き、途中に短い石段がいくつか設けられている。丘の上にあるといっても、身構えるほどの高さではなさそうだった。

参道へ入ると、住宅は木々に遮られ、人の声も少し遠くなる。風が枝を揺らし、足元に積もった枯れ葉が乾いた心地よい音を立てた。道の端には落ち葉を集めた跡があり、古びてはいるものの、放置されているわけではないらしい。近所の誰かが定期的に手入れをしているのだろう。


最後の短い石段を登りきると、こぢんまりとした木造の社殿と、決して広くはない境内が視界に飛び込んできた。

中央にはぽつんと賽銭箱が置かれ、その前まで古い石畳がまっすぐ続いている。社殿の脇には社務所らしき小さな建物もあったが、窓は固く閉ざされ、人の気配はどこにもなかった。観光客が物見遊山で訪れるような場所ではなく、近所の人が祭りや初詣の時に集まるような、地域のための神社なのだろう。


賽銭箱の前で足を止めたが、願い事らしい願い事は浮かばなかった。せいぜい、家に戻るまでに段ボールが勝手に片づいていれば助かる、と思うくらいだ。そんな都合のいい奇跡を起こしてくれる神様が、こんな寂れた神社にいるとも思えなかったが。

社殿の横を抜けると、境内の端に展望スポットがあった。丘自体がそこまで高くないため、町全体を一望できるわけではないが、それでも、ひしめく屋根の向こうには駅前のビル群が見え、その先まで生活の営みが続いている景色があった。


「別に、悪い町ではないんだろうけど」


思ったことが、そのまま口から漏れた。この町に罪はない。僕が来る前から存在し、僕の事情など知る由もなく、ただ当たり前の日常を刻んでいるだけだ。スマートフォンを取り出し、町へ向けてカメラを構える。以前の学校の友人たちへ写真を送れば、少なくとも返事の代わりにはなるだろう。


——カサリ


突如、社殿の裏手から、乾いた枯れ葉を踏みしめる音が響いた。


境内に来てから、人の姿は見ていない。参拝客なら僕が登ってきた正面の参道を使うはずだ。けれど音は、社殿の奥から近づいてくる。視線を向けると、社殿の脇に影になった細い裏道が見えた。背中に少しだけ冷たいものが走る。


僕は昔から、正体の分からない不気味なものから目を逸らすのがひどく苦手だった。

肝が据わっているわけでも、好奇心が旺盛なわけでもない。ただ、見えない恐怖をいつまでも頭の中で勝手に膨らませ続けるくらいなら、さっさと現実をこの目で直視して片をつけてしまった方が、精神的に何倍もましだと知っているからだ。

何もなければただの風か野良猫だと笑い飛ばせばいいし、もし何かいるなら、正体が分かった時点で次の対策が打てる。


——カサリ


木々の濃い影から、すっと竹箒の先が覗く。

続いて、紺色の落ち着いたセーラー服の裾と、冷たい風にさらされて優雅になびく長い黒髪。

そこに立っていたのは、紛れもなく僕と同じくらいの年齢に見える、一人の少女だった。

彼女の左手には使い込まれた年季の入った竹箒が握られており、その制服の裾には、まだ本人が気づいていないらしい枯れ葉が一枚、ひっそりと張りついていた。


少女は境内に立つ僕を見つけると、一瞬だけ目を丸くした。こんな場所に知らない人間がいるとは思っていなかったのだろう。

けれど戸惑いはほんの一瞬で、すぐに何かに納得したような顔になると、箒を抱えたまま、迷いなくこちらへ歩いてきた。


「ねえ、君」


少女は僕の前で足を止め、興味深そうに少しだけ首を傾げた。


「もしかして、迷子?」


勝手に用意された、そのなけなしの平穏が、再び静かに砕け散った瞬間だった。

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