プロローグ 壊れた太陽
十一月十七日。
世界が煤けた灰色に染まっていく中で、その赤だけが、グロテスクなほど鮮烈に網膜へ焼き付いていた。
視界のすべてを支配していたのは、網膜に焼き付いて離れない、あまりにも凄惨で、あまりにも見慣れてしまった、最悪の、確定された光景。
強烈なゴムの焦げる臭気と、制御を失った数トンの質量がアスファルトを乱暴に削り取った、暴力的な音。引き裂かれたような金属の悲鳴が、まだ鼓膜の奥で反響している。
激突の瞬間、彼の身体が重力から解き放たれたように宙を舞った光景が、スローモーションの残像となって視界から離れない。
鈍い衝撃音が、肉と骨が硬質な鉄塊に圧し潰された事実を冷酷に告げていた。
「――いやあぁ……」
乾いた唇から漏れ出たのは、もはや誰の耳にも届かない、ただの空気の震えだった。 目の前には、彼が倒れている。霧島くんが、血まみれのまま、冷たい地面に横たわっていた。
つい数時間前まで、どこか皮肉屋で、けれど根はどこまでも真っ直ぐで優しかった彼の面影は、急速に失われつつある。その顔面は生気を剥ぎ取られたように蒼白で、唇は凍傷を負ったかのように紫色に変色していた。胸の上下運動は、一回、また一回と、目に見えてその間隔を広げていく。浅く、弱々しく、まるですり減った歯車が最期の回転を惜しむかのような、絶望的な呼吸。
彼の身体の下から這い出すようにして広がっていく赤い液体は、石床の細かな凹凸を埋め尽くし、やがて巨大な血の海を形成していく。晩秋の澄んだ空気を文字通りに汚染する、鉄錆と内臓の混ざり合った生々しい臭気。それが容赦なく私の鼻腔を刺し、肺を侵し、これが現実であることを否応なしに突きつけてくる。
無駄だった。
今回も、すべてが無駄だった。
彼をこの結末から遠ざけるために、私はどれだけの言葉を尽くしただろう。どれだけの選択を変え、どれだけのルートを模索しただろう。そのすべての試行、すべての血の滲むような努力は、何一つとして実を結ぶことなく、私の浅知恵など嘲笑うかのように、この最悪の特異点へと収束してしまった。
冷たい風が、衣服の隙間から滑り込んで肌を激しく刺す。
溢れ出る涙が視界を歪め、彼の輪郭をドロドロとした光の塊へと変えていく。過呼吸気味に酸素を求めようとする気管は、まるで見えない手で締め付けられているかのように狭まり、息をすることさえもが、私に対する拷問のようだった。
「お願い!戻ってきて!」
彼の名前を呼ぶ。何度も、何度も、擦り切れるほどに叫ぶ。
けれど、その声は虚しくも夜の闇に吸い込まれるだけで、冷たくなっていく彼へと届くことはない。叶うはずのない願いを絞り出した私の声は、ただのノイズとして、この世界の冷酷な静寂にかき消されていく。どれほど喉を血に染めて叫ぼうとも、その願いが届くことはない。因果の檻は頑強で、一介の少女の涙など、最初から計算式に含まれてすらいないのだ。
頬を伝う涙は、彼の血溜まりへと落ちて、彼の血と混ざり合うだけだった。
恐る恐る触れた彼の指先は、すでに死後硬直の兆候を孕んで、冷たく、そして信じられないほど硬くなっていた。生きている人間が持つべき微かな脈動すら、もうどこにも存在しない。
ーーーしかし、世界は動き出す。
彼の命の灯火が、完全に、ぷつりと途絶えたその瞬間――視界の端から、急速に「夜」が濃度を増していく。暗闇がすべてを塗りつぶしていく。街灯の光が引き延ばされ、夜の闇が泥のように溶け出し、世界そのものが反転していくような、あの忌々しい感覚。空間がグニャリと反転するように歪み、時間の連続性がパズルのように粉砕され、私の五感のすべてが、強烈な吐き気と共にねじ切られていく。
「いやだ、もういやだ! 」
鼓膜を破らんばかりの私の叫び声が、神社の境内を、そしてこの歪んだ街の夜空を狂おしく響き渡る。
◆
そして、気づけば、また戻っていた。
◆
天を仰げば、そこには遮るもののない、どこまでも白々とした十一月十一日の朝の光が広がっていた。小高い丘の上の神社。乾いた風が、境内の木々を揺らし、カサカサと枯れ葉の音を立てている。つい先ほどまで両手に残っていた、あの生々しい血の温もりも、鼻を突いた鉄錆の匂いも、彼の身体の冷たさも、何一つとして存在しない。
―――なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
声にならない思考が、脳裏をどろどろとした鉛のように支配し、脳内でおぞましい数の疑問符が、それ自体が質量を持った悪意のように増殖していく。
彼を救うためなら、どんなに苦しくても、どれだけ心を削られても、何度だって立ち上がって、笑顔の仮面を貼り直さなければならない。そうやって、何度も、何度も、自分に言い聞かせて、ボロボロになった心を騙し騙し奮い立たせてきた。
けれど。どれだけ強がってみせても、どれだけ自分を偽っても、心の中に澱のように溜まった絶望は消えてはくれない。それはゆっくりと、確実に私の内側を侵食し、思考のすべてを鈍く、黒く、おどろおどろしい色で滲ませていく。自分自身という器がパキパキと音を立てて壊れていくのが分かった。
―――どこでまちがえた? なにをまちがえた? なにヲ? なにガ? いツカら? イツマデ? ドコマデ?
頭の中に響く声は、次第に私自身のものなのか、それとも世界を呪う誰かのものなのか判別がつかなくなり、言語としての形すら失って、ただのバグのような文字列となって思考を埋め尽くしていく。
数えきれないほどの失敗。数えきれないほどの、彼の死体のバリエーション。その度に、私の背中には「絶望」という名の、目に見えない砂袋が積み上げられていく。それはもう、私の細い背骨を容易に噛み砕くだけの重さを持っていた。希望なんていう上等な灯火は、とっくの昔にその重圧で圧し潰され、消え失せている。
それなのに、世界は何事もなかったかのように、ただ冷淡に十一月の乾いた風を吹き抜けるだけだ。
ふと、視線を上げる。
私の眼前には、見慣れた、けれど酷くひび割れて見えるこの地方都市の景色が広がっていた。あの凄惨な血の海も、冷たくなった彼の体も、すべては最初から存在しなかったかのように綺麗に拭い去られている。
「……あは」
―――もう……ムリ。
頭の中で、最後の糸が千切れた。
「あはははははははははははははははははははははははははははは!」
喉が破れて血の味が混ざるのも構わず、私は誰もいない街角で、狂ったように笑い続けた。かつて、みんなから「太陽のよう」と評された星野栞の笑顔は、今や完全に崩壊し、醜く歪んだ狂気の仮面へと成り下がっていた。
十一月十一日。
ーーー星野栞は、自らその命を落とした。




