友情
「勢多屋敷」というバス亭に降りると、さっきまでよりも空気が冷え切っていた。
奥多摩駅前と比べても、気温にしてニ度ぐらいは低く感じる。
さすがに肌寒いので、もう一枚上着を出そうとしたが、目の前の若干舗装された急な山道を見て考えを改める。
ここを登るとなると、おそらくかなりの汗をかくことになるだろう。そうすると、取り出した上着をまた仕舞うことになり二度手間になるおそれがある。
「じゃあ、おれはこっちの家に用があるから、ここでお別れだ。勢多のお孫さんによろしくな、お二人さん」
バスで同乗していた男性は、どうやらバス停の反対側にある数軒の家に用事があるらしく、彼女らとは反対に向かって去っていく。
彼が言うには、沙巳子の家はこのあたりでは有名な地主の名家であるらしく、それはバス亭の名前にもなっていることでも確認できた。
男性はあっけらかんとしていたが、公共の設備ともいえるバス亭に私人の名前が使われることなどそうあるものではない。
親友の家の意外な影響力に唖然とするばかりだった。
男性からは、その他にも彼女らの知らない事情を聞くことができた。
予想していた以上に、彼は沙巳子の家の事情に詳しく、野次馬的で悪いとは思ったが色々と情報収集をさせてもらうと、親友の追い詰められている現状をおぼろげながら把握することもできた。
まだ十代の少女たちには重すぎる内容ではあったが。
「親戚が泊まり込んでいるって、そういうことなのね」
「……まったくいい年した大人が金に群がって、みっともない」
「でも、私たちが行って沙巳子さんの助けになるのかな?」
「行ってみないとわからないけど、とにかく、今のあの子の傍にいてあげることが大切なんじゃないの。結構広いお屋敷の中に、あの子の味方はほとんどいない状態なんて可哀想よ。味方がいないのなら、あたしたちが行くしかない」
「そうかもしれないね。……でないと、あの沙巳子さんが、助けてなんて言うはずがないし」
「だから、行くのよ。泣いて助けてなんて普通じゃないわ」
「うん、そうだね」
まず、二人が聞いたのは、勢多家がこのあたりの地主であり、財産のすべては沙巳子の祖母である勢多里が握っているらしいこと、そして、沙巳子が両親の死後、その財産を唯一代襲相続することが決まっているということだった。
代襲相続とは、相続人となるものが死亡したり、廃除されたりした場合に、その人物の卑属にあたる子が代わって相続をするというものである。
この場合、里の配偶者である祖父がいない以上沙巳子の父が唯一の相続人なのだが、その父が亡くなっていることから沙巳子一人ということになる。
結果として、莫大な財産が沙巳子のものになることから、そのおこぼれに与ろうと血の近い親戚から聞いたこともない縁戚までが、ぞろっと勢多家に押しかけているらしいのだ。
しかも、男性が言うには、ただでさえ金に目がくらんだ欲望丸出しの連中が泊まり込んでいるのに、その中には少しガラの悪い人物も含まれているらしく、たった一人の相続人である沙巳子の心労は相当なものであろう。
里の委任した弁護士も日参して通っているらしいが、屋敷に滞在しているわけではなくきっとあてにはならないだろうとも言われており、通いのお手伝いさんと近所のおばさんだけが頼りという有様なのだそうだ。
それ以外にも、最近、近くの沢で人が事故にあったり、血のあとのようなものが見つかったりして、警察がパトロールを増やしたりして、近所の住人もかなりピリピリしているらしく、勢多家の祖母の死以来、この周辺一帯は妙な雰囲気に包まれているらしい。
男性が見ず知らずの小娘二人に饒舌に語り続けたのは、ある意味で緊張に耐え兼ねたのもあるのだろう。
「……ふざけんなって、話よね」
「まったくだよ」
憤懣やるかたない二人は、子供にたかろうとしている大人気ない連中に対しての敵意を剥き出しにして、急な山道を登った。
10分も歩いただろうか、ようやく門らしきものを潜ると、「私有地により立ち入り禁止」の看板が立てられていた。
入口のところにも似たようなものがあったことを思い出す。
署名入りであり、「勢多」と墨痕鮮やかに筆で書かれていた。
「これ、サミの字だね」
「わかりやすい」
「字だけは男前なんだから」
そして、それから歩いてすぐのところで広い庭に入り、大きめの玄関がついた和風建築が姿を表した。
一目見た感想は、「でかい」というものであった。
大きな木材を大胆に使用した瓦葺の建築物は、まさに旧家という趣きに満ち溢れ、ありがちな暗さもない渋めの色合いをもち、わびさびとは何かを問いかけるような立派そのものの拵えが泰然とそびえ立つ。
屋敷の背後にはコンクリートで堅く補強された切り立った崖があり、ぴったりと家屋の傍まで寄せられているのが目立っていた。
個人の住宅というよりも、博物館の一施設といったイメージを受けるほどだ。
さすがのひかりが目を丸くするほどに豪奢であり、建築にどれだけの金が注ぎ込まれたかも定かではない。
ただ言えるのは、この家に二人暮らしというのはきっと寂しいだろうということだった。
何十人もの人間が暮らすことも容易なほどの大きさなのだから。
つい先日、葬儀を終えたにしてはもの静かな建物の、玄関口にあるインターフォンを押しす。
すぐには返事がなかった。
来訪者に気づいたとしても、すぐにはたどり着けそうもないのはわかったので、大人しく返答を待つ。
すると、インターフォンからではなく、直接扉が開いて、初老の女性が姿を現した。
髪を紫に染めて、変な模様の入った金色のネックレスをつけ、太縁のメガネをした神経質そうな女性だった。
このあたりの住民にしては派手すぎるのと、鼻をつく柑橘系の香水の臭いが不快な相手だった。
おそらくは沙巳子の金目当ての親族だろうと想定できるのは、いかにもという装いによるところが大きい。
場末のバーのママでさえ、いまどきはいないだろう外見に小夏は面食らったが、奥の上り口から居丈高な誰何を受け鼻白む。
「……あんたたち、何?」
屋敷の正当な住人でもないはずなのに、来客に対してどうしてこのような非礼な態度が取れるのか。武道のおかげで礼儀にうるさい小夏はイラっとしたが、目当ての親友に会う前に門前払いされることは避けたいので我慢する。
こういうタイプに対して、何事に対しても勝気なひかりを全面に押し出すとまずいことになるということもある。
ひかりは他者の無礼を簡単に許せるほど器が大きくはないのだ。
「勢多沙巳子さんの友人です。休みの間のプリントを届けに来ました」
一瞬でわかる嘘をつくあたり、小夏も自覚しているよりは機嫌が悪くなっているのだろう。
親友を困らせている汚い大人に下手に出たくもなかった。
そして、やはり相手もそれ相応の横柄な態度で出てきた。
「それだけでこんな田舎に来るはずないじゃない。あんたたち、冷やかしに来たなら帰りな」
「プリントだけでなくて、宿題もありますから、沙巳子さんに直接手渡したいので、ここに呼んでもらえますか?」
「今、立て込んでいるのよ。後にしてちょうだい」
「そうはいきません。私たちも子供の遣いじゃありませんので」
「餓鬼じゃない! さっさと帰れって言ってんのよ!」
「力づくで追い出しますか?」
小夏は丹田に力を込め、こちらを罵倒する女性と対峙する。
伊達や酔狂で五年も弓道をやってはいない。
本気になって姿勢をただし、正中線を揃え、気合で心中を満たせば、小夏の視線は的を射抜く鋭い矢と化す。
全国大会で準優勝ながら「気迫ならば夏木」と全国の高段者の先生からも讃えられた剛弓の猛者なのだ。
ただの中年女性がメンチ切りで立ち向かえるはずもない。
「ひっ」
と、喉から声にならない声を発し、無意識に後ずさると下駄箱に脚をぶつけて三和土の上に尻餅をつく。
すると、こんどは小夏が見下ろす体勢になり、ただでさえ強い眼光が上下の落差を経て
強烈な暴力にまで昇華する。
ガタガタと震えだした女性が目尻に水を溜め始めると、広い玄関の奥から聞きなれた鈴のような声が聞こえた。
「小夏ちゃん!」
少し疲れた様子で、目の下に隈ができた沙巳子が立っていた。
今まで黙っていたひかりは、食事をまともに摂れていないに違いない、と悟った。
服装はいつもの地味な黄土色のサブリナパンツと白いカットソーだったが、全身が痩せて細くなった印象を受ける。
そこで、あえて明るめの声を掛けた。
助けにきたのだと知らせるために。
「元気そうだね、サミ!」
「ひかりちゃんも!」
ひかりも玄関の中に入り込む。
座り込んだ中年女性にさりげなく絶対零度の冷たい一瞥を送りつつも、沙巳子に向けるのは極上の暖かい笑顔だ。
すたすたと近づいてきた沙巳子が二人の手を取る。
三年間でもあまり見たこともない満面の喜びように、来てよかったなと小夏は思った。
それまで本当に心細かったのだろう、何もいわずに二人の手を握り続け、そっと胸元に運ぶと祈るように目を瞑る。
「……ありがとう、二人共。ホントにありがとう」
沙巳子の目尻に浮かんだ涙は、すぐそばで泡を吹かんばかりに驚天している女性のものとは違い、美しい真珠の粒のようにも思えた。
友情の花はどこにでも咲くのだろう。
お互いを思う心があれば。
ただ、忘れてはいけない。
彼女らを襲うはずの妖異の前兆は確実に迫りつつあったということを。




