奥多摩到着
10月にもなると、朝の奥多摩は上着が必要になるくらいに寒くなり始める。
午前9時に降り立ったJR奥多摩駅は、もう秋を通り越して冬の気配が漂い始めていたが、まだ紅葉の時期にまではなっていないようで、山肌は緑の葉で埋め尽くされていた。
その奥多摩駅に夏木小夏と尾野屋ひかりは降り立った。
小夏とひかりは一度、改札を抜けて、目の前にあるバス乗り場に向かい、時刻表を見た。
勢多家の最寄りのバス亭に向かう車が出発するには、あと30分は余裕でかかる。
二人は時計を見て嘆息した。
勢いで家を飛び出してみた面もあるから、事前に色々と調べてこなかったのだ。
30分も見知らぬ場所で時間を潰すのは、若い彼女たちにはちょっとした苦行であった。
ざっと周囲を見渡しても、女子高生が気軽に時間を潰せそうな店とかは見当たらない。
仕方ないから、改札を出て左手にあった奥多摩観光案内所に入り、チラシとかを見て時間を潰した。
受付のおばさんから、10キロほど離れた場所にある日原鍾乳洞についての話を聴いたりしていたら、入場料金100円引きの割引券をもらったりもした。
それでも時間は容易には過ぎず、改札脇の狭い待機所で落ち着くことにした。
ちょうど、その上には飲み物の飲める喫茶スペースがあるらしいのだが、今日は時間がまだなのかただの休業日なのか空いていなかった。
彼女たち以外にも連休中であるからか何人か観光客らしい人々がおり、中には釣具と思しき装備に身を固めた男性グループもいた。
奥の方に行くとヤマメが釣れる場所があるらしいということは案内所のおばさんに聞いていた。
もっとも彼女たちのような若い女の子はあまり釣りに興味を持たないので、もっぱら小夏が訊いたのは調理の仕方ばかりではあったが。
川魚の調理は意外に難しいのでその点では楽しかったのではあるのだが。
「うーん、初めて来たけど何もないところだね」
「左の方にちょっと行けば、コンビニくらいはあると思うけど……、勝手に動き回ってバスを乗り過ごすのもなんだし。大人しく待とうか」
「ひかりにしては落ち着いているね」
「あたしはいつも冷静じゃない」
「そうだっけ?」
「とにかく、まずはサミの家に行くことを優先しないと。遊びに行くわけじゃないんだし」
「そうだね。ひかりの言うとおりだ」
二人は、昨日の晩、沙巳子から受けた電話を受けて、この奥多摩まで来たのだ。
助けを求める親友の声を見捨てることなんてできない。
内容は要領を得ないとりとめのないものだったが、親友が何かの苦境に立たされていることはわかった。
そうであるならば、何をさておいても駆けつけなければならない。
それが二人の共通認識であった。
「で、ひかりは家に何を取りに帰ったの?」
「お泊まりの準備はしてあったけど、奥多摩でこの時期は寒いに決まっているから、冬の上着を準備しにね。あと、もしかしたら必要になるかもしれないもの」
「上着はともかく、必要なものって」
「内緒よ。使わずにすめばこしたことのないもの。あんたにも言うことはできないレベル」
「へえ。なんだろう」
大きめのバッグをばんばんと叩くひかり。
同じぐらいの荷物は小夏も用意していた。
場合によっては連休中だけでなく、学校をサボっても沙巳子の傍にいてやるだけの準備をしてきたのだから当然だ。
ひかりにとってもそうであるように、小夏にとっても沙巳子は大切な存在なのだから。
それに、彼女には珍しいことに妙な胸騒ぎがしていたことも理由の一つだ。
どうにも収まらない不思議な焦燥感。
何かが起きようとしているかのような感触は、彼女にとって産まれて初めてのものであった。
後にこれは一流に足をつっこみかけていた武術家としての勘であったことに気づかされるのだが、今の小夏にとってはただ気分が悪くなる程度の認識でしかなかった。
何かあってもすぐに動けるように、ジーンズよりは余裕のあるパンツと浅葱色のトレーナー、軽めのブルゾンを着てきたのもその勘働きのせいである。
フェニミンさは欠片もないと常に周囲に言われていることを気にしてはいたが、今回だけはあえて無視した。
一方のひかりもいつものデニムのショートパンツとトップスにワンピースを着て、レースのベストを重ね、伸びた足を強調するための丈を意識したガーリーなファッションではなく、小夏同様の動きやすさ重視の格好をしていた。
ただのジーンズとモノトーンの襟なしブラウス、そしてキャップのボーイッシュすぎるものだった。
むしろ、小夏よりも少年めいた姿といえた。
普段の彼女はブレスレットやアンクルでワンポイントをつけるのが常だったが、今日は自分を着飾ることもしていない。
彼女の場合は勘というよりも、沙巳子の電話にあった物騒な雰囲気を感じてのものだったのだが。
そのため、小夏の家から直接駅に向かわず、一旦、隣の町のひかりの家に寄って、必要なものをとってきたのだった。
この判断は、それからすぐに正しかったことが証明される。
ある意味では、ひかりも小夏に勝るとも劣らない鋭い勘の持ち主であったと言える。
共通して言えることは、どちらもある種の予感を抱いて準備をしていたということだった。
そこが決戦の地だと理解しているように。
しばらくの間、暇つぶしにくだらない雑談をしていると、沙巳子の家方面のバスが停留所に到着した。
予想よりも早く時間が過ぎていたようだった。
「話をしていたらあっという間だったね」
「そだね」
二人はそのままバスに乗り込む。
席に座ると、山肌にこの地域の人間たちの墓が並んでいるのが見える。
彼女たち以外の同乗者は三名いた。
あまり人の乗らない路線のようだった。
他の三名は荷物も少なく、どう見てもこのあたりの住民だ。
小夏たちだけが場違いな印象を受ける。
どうやら観光客は、さっき案内された日原鍾乳洞に向かうバスに乗るらしいが、彼女たちの目的地はちょうどさほど大きくない山を挟んで反対側だ。
途中で二股に分かれていくので、路線そのものが別方面らしい。
渓流の釣り場も日原鍾乳洞行きのバスに乗るため、釣り師の男性たちもこのバスには乗っていなかった。
「……散々聞いていたけど、ここから学校に通っていたんだ、サミ」
「大変そうだね。もう少し楽なんだと思ってた」
「片道二時間ちょっとってのも、あたしらを気遣って少なめに見積もっていたんだね」
「帰りの時間とかももっと考えてあげればよかった……」
「確かにね……」
出発したバスは二車線になったり一車線になったり安定しない道をゆっくりと進んでいく。
急なカーブなどはそれほど多くなく、道の高低差もあまりなかった。
そのため、甲州街道等と比べても比較的運転しやすい部類の道なりのように感じられた。
車酔いしやすい小夏も素直に緑の多い景色を楽しむことができた。
ときおり眼下に渓流が見えたがそれほど大きなものはない。
反対側の山の中腹に、ちょっとした大きさの白い邸宅が見えた。
他の家の作りと違い、周囲を白い塀で囲んでいる点が印象的だったことから、ひかりが小夏に向けて指差した。
「あれだけ、ちょっと目立つね」
「そうだね。大きな塔みたいなのもあるし。軽井沢の別荘みたい」
そんな話をしていると、前の席の六十代ぐらいのおじさんが振り向いて話しかけてきた。
すでに初老を過ぎて老人の域に達しているだろうが、矍鑠とした雰囲気で田舎の人物らしいおおらかな雰囲気を発している。
「あれは、勢多さんとこの別荘だよ。十年近くまったく使っていなけど、手入れだけはしっかりとされているみたいだぜ。うちのカカアなんかよく頼まれて掃除に行ったりしているらしい」
「……はあ、そうですか」
「あんたら、さっきから聞いているけど、もしかして勢多さん家にいくのかい?」
「はい、そうです」
二人は目を合わせてから、大丈夫と判断して、そう答えた。
あまり知らない人と話したくはなかったが、このおじさんは一見親切そうに思えたことと沙巳子の家にいくことは別に秘密でもなんでもなかったからだ。
男性はわざとらしい感じで驚く様子を見せた。
多分、ずっと彼女たちの話に聞き耳を立てていて、一段落着いたから話しかけてきたのだろうに。
勢多家と関係があることを確認すると、顔には隠しきれない野次馬的な好奇心の色が浮かびはじめた。
どうやら話したくて仕方がないことがあるらしい。
一瞬前までの印象が豹変とまではいかないが、一気に変わったことを二人は悟った。
あまりいい予感はしなかった。
小夏たちは少しだけ返事をしたことを後悔した。




