女為朝も乙女である
次の日、沙巳子は学校に来なかった。
ひかりのスマホに着信記録と留守録が残っており、そのおかげで彼女の祖母の様態が悪化したせいで登校できないということがわかった。
こちらから連絡しようにも、沙巳子の家は奥多摩のさらに奥の方にあり、今の時代になっても携帯の電波が届かないことからできないのである。
以前、彼女から小夏が聞いた話では、彼女の住む家は山の上にある旧い家屋であり、今でも電話線が引かれていないせいで、緊急の連絡は少し降りた麓にある家にとりついでもらうのだという考えられないほど不便な環境ということだった。
ネット等の回線なども当然繋がれていない。
小夏たちはお祖母ちゃん子である親友のことが心配で、落ち着かない午前中を過ごすことになった。
お昼時―――
「あの子、大丈夫かな」
「確か、お祖母さまと二人暮らしだって話だったよね。ご両親が亡くなられてから」
「うん、そんなことを言ってた。親戚は沢山いるらしいけど、その中の誰かが引き取るって話を断って、お祖母ちゃんが育ててくれたって。確か、中学に入る前ぐらいの話じゃなかったかな」
「もしお祖母さまにもしもしのことがあったら、沙巳子さん、どうなっちゃうんだろう」
「ナッツー、駄目だよ。あんまり不吉なことを考えないこと。サミのお祖母ちゃん、きっと持ち直して元気になってくれるよ。そうでないとあの子が可哀想だし」
「そうだね」
小夏が作ってきた沙巳子への弁当は、ひかりが食べることになった。
ひかりの元々の昼食であるサンドイッチは、彼女の三時のおやつになることになる。
弁当の中身は、鶏肉の混ぜご飯の上に、つや煮したニンジンとグリーンピースを散らして、正方形に切った卵焼きとラップに包んだバナナを入れたシンプルなものだった。だが、ニンジンは花の形に抜かれ、えんどう豆の緑も加わっていることで、彩も豊富で地味さはなかった。
しかも、一口目を味わったひかりが、思わず唸り声を上げるほどに味付けがしっかりとしている。
小さな頃から雑誌や新聞の切り抜きを集めて、料理用のノートに美味にするためのコツをメモしてきた努力がみのり、小夏の料理はひと工夫で美味しくなる小ワザが際立っている。
ただのレシピを読んだだけでは身につかない技術というものを、小夏は数多くマスターしているのだ。
そのため、彼女はただの料理好きを簡単に凌駕する実力の持ち主となっていた。
「やっぱり、ナッツーのお弁当はおいしい。冷めても味が落ちないってのはお弁当の理想だけど、これは全然問題ないし、ほんとあんたはスゲエ」
「ふふん、喜んでもらえたら嬉しいな」
「……これで、女為朝でなかったら嫁にしたいクラスメートナンバー1になれるのに」
「ほっといて」
一瞬、褒められて顔をほころばした小夏はすぐに唇を尖らせて抗議した。
十六歳の頃にはすでに170cmの大台に達して、クラスでも一番の背の高さを持つ彼女にとって、その恵まれた体躯から放たれる強弓とそれにまつわる二つ名はコンプレックスそのものであった。
面と向かって言われたら、いくら親友でも腹が立つというものである。
「私が背の高いのを気にしているの、知っているくせに。ひかりって、そういうところでイジメっ子だよね」
「まあまあ。あんたのことを羨ましがっている子だっているんだから。でも、あんたも良く羨ましがられているけど、モデルになるわけでも、プロのスポーツ選手になるわけでもないんだったら身長があっても無駄だよね」
「そうだけど」
「あんたの夢って、保母さんだっけ? 確かに保母さんになるのに身長はいらないか」
他の女子にモデルみたいで素敵とか褒められることがあるが、彼女たちは純粋に憧れてくれているとしても、小夏自身はそれが褒め言葉だとは微塵も思っていなかった。
武道を嗜む女の子に対するかっこいいイメージもいらないと常日頃断言していた。
常時堂々としていると言われて、むしろ崇拝されてしまうことも多いのだ。
弓道をしているせいで、背筋がまっすぐに伸び、姿勢が綺麗なため、高身長の人間にありがちな猫背の悩みがないことだけはいい点だが、逆に、彼女のコンプレックスに気づいてくれる人が少ないのが悩みの一つでもあった。
実のところ、彼女の将来の夢は保母さんになることなのだが、この調子では近い未来において、仕事先の園の子供たちにまで怖がられてしまうのではないかと今から戦々恐々としているぐらいだ。
「あれ、夏木は保母さん志望なの?」
隣の席で、サラミと燻製チーズを栄養ドリンクで流し込んでいた少年が声をかけてきた。
それ以外の食品は机の上にない。
多分、それが昼食なのだろうと思われた。
しかし、育ち盛りの高校生の昼食としては相応しからぬ殺伐としたメニューに、女子二人は眉をひそめる。
「……あんた、相変わらずそれが昼ごはんなの?」
「そうだよ。手軽だし、栄養価は満点なんだ」
「前から感じてたんだけど、男の子には量的に足りなくない?」
「俺は昼はあまり食べないから。朝と夜にしっかり食べる派なんだ」
「へえ」
黙って会話を聞いていた小夏が自分の弁当をそっと差し出した。
おずおずとした遠慮がちな行動であった。
自分の分にはまだほとんど手をつけていない。
「少し、食べる? きっと足りないよ」
「ありがとう、夏木。でも、好意だけを受け取っておくよ。俺はこれで足りるからさ。しかし、美味しそうだね、そのお弁当」
「今度、作ってきてあげようか?」
「ありがとう、でも、それもいいや。さっきも言ったけど、俺は昼を少ししか食べない主義なんだ。もし残したりしたら、作ってくれた夏木に悪い」
少年はにっこりと微笑んだ。
その笑顔だけで、好意を断られたことへの謝罪としては十分と思わせる華のある表情だった。
「で、ナッツーが保母志望ならどうしたのよ」
ひかりが少年に問いかけた。
少し嫌そうな顔つきは、彼女が男子生徒全般をあまり好きではないということだけではない。
食事時のガールズトークの途中で話しかけられたということも、友好的に接する気が欠片もわかない理由の一つだ。
そして、それだけでなく、この少年について、彼女にはちょっと思うところがあったということもあった。
「女の子らしくていいね。夏木は料理も上手らしいし、後輩の面倒見もいいし、きっとお似合いの職業だと思う」
「ありがとう、朋輪くん」
褒められて頬を赤く染める親友をジト目で見据えつつ、ひかりはしっしっと犬を追い払うように手を振った。
「あんたねえ。口当たりのいいことばかり言って、女の子を調子に乗らすんじゃないよ。なに、もしかしてナッツーを口説く気なの? 隣の席に座っているのも、偶然じゃなくてわざと?」
「昔から尾野屋は口が悪いよね。そもそも、ここは俺の席で、その横に君らが陣取ったんじゃないか」
「やかましいわ」
「それに夏木を口説いているわけじゃない。保母って聞いて、昔、俺の姉さんがなりたがっていたことを思い出したんだ。俺の姉さんに比べたら、夏木はほんとうに優しい女の子だし、向いているんじゃないかな」
「あんたの姉さんなんて、知らないわよ。まあ、ナッツーが子供相手の仕事が向いていることにだけは同意だけどさ」
「そうだよね。応援したいな」
「……うるさい、あんたはもう口を挟むな」
丁々発止と続く二人の会話中、小夏は俯いて、手をもじもじと胸の前で握りこんでいた。
頬にさした赤みはまだ薄れていない。
その様子を見て、ひかりはまた膨れっ面になる。
この少年について、小夏が好意を持っているらしいことは前々からわかっていた。
少年はひかりの隣の席に座っているのだが、食事時ぐらいはその傍に近づきたいがために、授業が終わるといそいそと小夏がやってくるのも知っていた。
万事、奥手な小夏が少しだけでも勇気を出して好意を示そうとしている相手なので、いつもの彼女なら自分の男嫌いは棚上げしてでも仲を取り持ってやろうと考えるところなのだが、この朋輪という少年にだけはその気になれない。
なぜなら、彼女とは小学校高学年の時からの付き合いで、彼女が懸命に隠しているある秘密について知られてしまっているからである。
もっとも、そのこと自体について、少年はまったく気にしていないようであったし、そもそも記憶しているのかどうかも怪しいぐらいなのだが。
同じ事情について、親友の二人にはすでに打ち明け済みなので、立場は同じなのに、その二人に対するものと同様の対応をすることは何故かできなかった。
あたしの事情を知っていて、この飄々とした態度が許せない、という屈折した想いがひかりにはあるのだ。
しかも、あたしの大好きな親友にこんなにも好かれているし!
「それにさ、尾野屋はさっき夏木のことを女為朝なんて言っていたけど、自分だって一年の頃は弓道部でバンバン射ってたじゃないか。あと、中学の時に、桜並木の清掃中に出てきた蛇を踏んづけて捕まえている姿は、うーんと、俵藤太みたいだったぞ」
「な、なん……!!」
「うん、そうだ、俵藤太だ」
「朋輪くん、俵藤太って誰?」
「昔、近江国のいた大ムカデを蛇の依頼で退治した弓の名人だよ。橋を渡ろうとしたときに、その上でとぐろをまいていた大蛇を怖がらないで踏んづけていく度胸の良さを買われて、蛇たちにスカウトされたって話がある」
「おい、ちょっと、黙れ、おまえ!!」
ひかりが少年の口を押さえつける。
まさか、そんな話を覚えているとは!
これだから腐れ縁の同級生はまずい。見つけ次第始末しないといけない。私のイメージが悪くなるだけだ!
だが、少年は必死なひかりの手をいとも簡単に受け流して、小夏への説明を続ける。
華奢な外見に似合わず力が強いのか、それとも慣れているのか、椅子に座って一歩も動かずにひかりをさばく姿は猿回しの曲芸師のようだった。
小夏は、意地が悪そうに目元の皺が寄っている彼の様子が珍しく、親友の慌てふためきを止める気も起きなかった。
さっき彼女を二つ名でもっておちょくったのはそもそもひかりなので、少し痛い目にあいなさいとまで思っていた部分もある。
「それで、俺の覚えている限り、尾野屋が蛇を踏んづけて先生たちを呼んでいるシーンは、まさに豪放磊落な武人って感じだったよ。とても今みたいな、いかにも愛され系という髪型ではなかったしね」
「うぎゃーーーー!」
発狂寸前にも見える親友の姿を楽しそうに眺めながら、小夏は憎からず想っている少年のうんちくや思い出話を楽しんだ。
この少年は色々な雑学を知っていて、話をしてみるととても面白いタイプであることも魅力的だと思っていた。
そして、今回の俵藤太という弓の名人の逸話も興味深かった。
自分と同じ弓を使うものとして親近感が湧いていたこともある。
しかし、この時の彼女はまだ知らなかった。
数日後、伝説の武人と同様に、彼女が巨大でグロテスクな妖魔と死闘を演じることになるということを。