Pain
「逃げて!ヘレナ!早く!」
お母さん....。私は平和だった。少なくとも、お母さんという単語を口にしていたそのときまでは。
我に返るとそこは火の海だった。つい半日前にお使いに出された肉屋は業火に包まれ、おじちゃんは火だるまになりながら泣き叫んでいた。"熱い、熱い、誰か、水を、熱い熱い熱い助けて"
辺りを見れば、そこには皮膚の焼けただれた亡骸や、文字通り釘付けにされている者。そして、目の前には腸から向こうが見える亡骸で溢れかえっていた。
空っぽの胃の中から出てきた胃酸が喉を、口を焼く。
背後から銃声がした。もう涙も出ない。走った。足がもつれても、転んでも、走った。故郷のハズレまできたとき、銃声とともに焼けるような痛みが左腕を襲う。
「お嬢ちゃんじっとして。さあお兄さんと一緒に来ようね。」
鈍く光る銃口と共に歩み寄る"お兄さん"の目には、一寸の良心すらなかった。ただただ私を蹂躙して己の欲を満たしたい。そんな欲がガキでもわかるくらいに表情が語っていた。
「嫌、嫌だっ!」
酷く怯えた私は竦んだ脚をなんとか動かし後退する。
「動くなってお嬢ちゃん。言うこと聞いていれば何もしないからさ」
その醜い笑みに私は心の芯から竦み上がった。はぅはぅなんて息の音の混じった力ない声を出しながら助けてと祈る。
"パァン"
乾いた銃声が鳴り響く。そして一発の銃弾がお兄さんの左足を貫いた。
「アアアアアアアアア痛てぇ....痛てぇよ....くそっ....なんだよああああ」
痛みに悶え苦しむお兄さんを横目に、彼はお兄さんの手から離れた銃を拾いあげ、私に差し述べながらこう言った。
「奴を撃て。」
私にはそれが地獄の門からの誘いのように聞こえた。
「む、無理だよ....じ、銃なんて....私無理だよ....」
9歳の女の子、つまり私は本能的にそれを拒んだ。
「無理というならばここで殺す。奴を撃て。」
彼からは悪意なき殺意が轟轟と流れ出て、私を容易く圧倒した。
小さく頷き、震える手を押し込めて、銃を手に取る。このとき生まれて初めて銃を持った。身体の震えが伝わってカタカタと音を立てる拳銃は狙いが定まらず、そこから飛び出した銃弾は不偏世界へ飛んでいった。
彼は私の後ろに回り込むと、身体を添える形で私をサポートした。
「いいか、よく狙え。落ち着いて安定させて、そう。」
お兄さんの表情は恐怖に染まり、抜けた腰と撃たれた足でどうにか立とうともがく。
トリガーの重さは驚くほど軽かった。そしてその軽さこそが、この世界において命の重みであることを痛感した。
人の命、それまで尊い、大きなものだった。しかし....
「ガキ、自分は自分で守れ」
彼はショーンと名乗った。ショーンは色んな事を教えてくれた。銃の使い方、狩りの仕方、弓や刃物の扱い、火のおこし方、人の欺き方、車の運転の仕方。つまるところ、ここで冷たく生きる術全てだ。
彼の愛機はAvtomat Kalashnikova-47。通称AK47だ。曰く、"壊れない"事が第一条件であるこの世界で、この銃が一番強いそうで。
彼はその銃を持ちながら説いた"強くなれ。生きるために"と。
ショーンと私は数えて2年一緒にいた事になる。業火のアテネで拾われた私は紛争に弄されるアンカラを通り、戦禍の真っ只中のクラスノダールで殺されかけながらも北上し、途中キエフにも寄り、気がつけば初夏のモスクワにいた。
モスクワで私は、彼の隠れ家に身を潜め、身体を休めることになった。アテネから戦禍をくぐり抜けここにいるので満身創痍であることは間違いなかったので、手足をゆっくりと伸ばして非日常的なかつての日常を満喫した。と言ってもお察しかとは思うが、ここは朽ちた世界だ。野盗や過激な原理主義者で溢れかえるこの街に平和なんてのはなかったが、家屋が炎上していないだけまだマシと言えよう。まともなベッドにありつけるだけで幸い至極というものだ。
そして、ここで彼にギターの手ほどきを受けた。初めてこの冷たい世界で感情のある人として、獣ではない人として生きる術を学んだのだ。
"少しは女の子らしいこともできなきゃな"
冗談を口にする彼の口元はどこか寂しく、彼の細めた目は私でない誰かを見ていた。
それはそうと、彼が私に教えた曲がCountryRoadなのだが、どこに"女の子らしさ"があるのか何度考えてもわからなかった。
少なくとも間違ってはいない。これでいいか。
モスクワにも初冬が来た。初冬と言ってもモスクワが寒いことくらい想像に難くないだろう。
その日ショーンはクラスノダールで盗んだ、もとい拝借したトヨタを操り、ベルリンに行くと言った。無論私は助手席で同行した。
明け方のモスクワに繰り出すと、そこに裏のモスクワの姿があった。路上をベッドにする中年男性、外壁を斧でズタズタにされた家。集団暴行。いや、素手ならまだましで、10人ほどが、一人に銃口を向けて発砲していることや、ナイフで十幾人が一人を八つ裂きにしていることもあった。これが、モスクワの本性である。
そしてモスクワにはあるルールがある。
何があっても止まるな
だ。例え老婆が手押し車で前を横切ろうと止まってはならない。轢き殺してでも止まってはならないのだ。もし止まろうものなら、集中砲火が待っている。車もろとも蜂の巣だ。幾ら一騎当千のショーンであっても、四方八方から降り注ぐ銃弾を前にすれば30秒ともたないだろう。私なんぞ3秒ももたない。
モスクワを出ると、そこからはほとんど西へ高速道路 (であった場所)をひた走るだけだった。センターコンソールに置いたAK47はカタカタと音を立ている。荒れた大通りを飛ばし通行できない場所を迂回しながら走った旅は、1ヶ月を要した。
凍てつく冬の夜中のベルリンにつくと、セーフハウスに身を潜め、暖を取りながら一夜を過ごした。
彼はベルリンに着いてからやけに物静かで、私を見つめては遠くを見るだけだった。
そして地下の武器庫から一丁の拳銃を持ってきた。H&K P2000。漆黒のその銃は彼の心そのものだった。そしてこう言うのだ。"生きるために殺せ。そして永く人であれ。"と。
日が昇り辺りが朝日に包まれる頃、私達は最終目的地に足を運んだ。市街地は以外にも事の前のベルリンの姿を辛うじて残しており、生まれて此の方初めて警察官を見た次第だ。白い雪と曇り空に覆われた冬のベルリンに活気はなく、形だけの社会が形だけの人生で形成されていた。車は郊外の倉庫地帯へと向かった。郊外になるにつれ人は減っていき、行き交う車もなくなった。無機質な鉄とコンクリートの塊が眼前を過ぎていき、やかてバックミラーからも消えるのだ。
やがて私達の車は倉庫地帯の一角に止まった。
"ここで待ってろ。"
彼は車を出たがカラシニコフ(AK47)は車内に取り残されていた。ガソリンスタンドでさえ携行していたのに。
窓を開けて叫んだ
「ショーン!相棒置いていってるよ!」
ショーンは足を止めた。そして振り返りこう言うのだ
「壊すなよ?」
彼は笑っていた。
そしてフロントガラスは鮮血に染まった。何かが彼の頭を貫通したのだ。
「ショーーーーン!!!!!!!」
彼は死んだ。
弾道を辿って射手を睨む。スコープには映るだろうか。私の憎しみ、悲しみ、混乱、全て込めて射手を睨む。
純白の地面を彼の血と私の涙が濡らす。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
抑えきれない憎しみ、殺意が慟哭となって口から飛び出す。私はそれを禁じえなかった。そしてこのとき私は心に決めた。
"殺すために生きる"
と。
この刹那、私は人ではなく死神へと身を堕としたのである。
今、私は名を尋ねられている。
"Helena"
いや、彼女はもう、とうに死んだ。
だとすればこう答えることにしよう。
「Смерть(スメルト)」
久しぶりの更新ですね
Смертьとはロシア語で死神を意味します。これからはすべてカタカナで表記しますが、意味はこんな感じなのでよろしくお願いします。