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そろそろ期限の一か月が目の前に差し迫った時、私はナオに言った。
―――「一緒に逃げよう」と。
彼女は戸惑った様子を見せたが、私が懇々と説得すると暫くしてから頷いた。
そこまで自分を想ってくれているのかと感激しているようであった。
見当違いも甚だしいが、ここまでくればしめたものである。
私はナオに、ナギが帰還するにあたって必要とされていた力を使い、何処か遠い国へ逃げようと伝えた。
幸い自分は魔力に長けているから、聖なる場所にさえ行けば後は簡単に脱出できるとも。
ちなみに実家は裕福だから金もあるし、不自由にはさせないとも付け加えてある。
その辺りは抜かりない。
当日、ナオとは聖なる場所で待ち合わせた。
ナオは信用しているらしい侍女を1人だけ連れ、常では考えられない簡素な服を身に纏っていた。
侍女はナオに小さな荷物を持たせると「どうぞお気をつけて」とだけ声を掛け、私をちらりと見る。
私が侍女に目配せすると、彼女は小さく頷き出て行った。
侍女を見送った後、私はナオだけを魔法陣が描かれている場所に立たせた。
それはまだ完成しておらず、あと一筆付け加えるだけで発動するものだ。
「描き終えたら私もすぐにそちらに行くから」と言って、不安そうに私の手を握るナオを宥めて距離を取る。
これで全てが丸く収まるのだと思うと、最後の一筆には思わず力が入った。
描き終えた途端、眩い光が魔法陣から放たれ、私は巻き込まれまいと後ずさった。
ナオは光に包まれつつ、私に手を伸ばす。
「早く来て」と。
その姿はやはり神々しく美しかったが、私の心に響くことはない。
私はうっとおしいとばかりに顔を顰めてナオを鼻で笑うと、懐に手を入れて取り出した重みのある袋を彼女に向けて投げた。
せめてもの餞別である。
その時のナオの顔はなかなか傑作だった。
何が起きたかわからないという間抜け面で、次いですぐに状況を察したのかものすごい形相でこちらを睨んできた。
どうやらそこまで阿呆ではなかったようだが、もう遅い。
ナオは独り善がりな感情のために、自らその地位を手放したのだ。
私はここで初めて心からの笑顔を彼女に向けた。
さぞ良い笑顔だったことだろう。
久しぶりに清々しい気分だった。
しばらくすると手筈通り、研究仲間と兵士が息を切らしてやって来た。
彼らは聖なる場所にいるのが私だけだと知ると状況を察し、私を捕らえにかかった。
私は抵抗などせず、ただの研究員として大人しく連行された。
ちなみに私を捕らえた兵士の1人は、私の身分を知る者である。
どこか呆れた視線を投げてくる彼を無視しつつ、私は愛おしい女に騙された愚かな男を演じ続けた。
連行される途中、必死な形相でルーメンたちが聖なる場所に向けて駆けていくのを遠くから見た。
全くもって素晴らしいタイミングである。
彼らと鉢合わせしてしまえば、私の正体と一連の計画がばれてしまっていただろう。
あくまで、美しい花嫁は自らの意思で去り(あながち間違いでもない)、その手助けをしたのは彼女に惚れたただの馬鹿な男でなければならないのだ。
多大に協力してくれた侍女達には褒美をやらねばなるまいと考える。
私はくすっと小さく笑うと、軽い足取りで歩みを進めた。
私は自室で謹慎処分を受けた。
本来なら牢屋に入れられるところだが、私の身分と状況を理解した王の指示で秘密裡に自室へと移された。
とはいっても部屋に籠るのはいつものことなので、牢屋だろうが自室だろうが、私にとって何の痛手はない。
通常通り書物を読み漁るだけだ。
様子を見に来た王は呆れた視線を私に投げ、幾つか小言を言っただけだった。
去り際にニヤリと笑いかけたのは、多分よくやったと言いたかったのだろう。
心なしか王の側近たちの顔も同じような表情に見えたのは気のせいではない。
むしろこうなることを望んでおり、私が行動を起こすのを待っていた。
自分たちの手は汚さず、邪魔者を排除したのだ。
やはり腹黒い。
ナオを帰すことには成功したが、残されたナギを思うと申し訳なくなった。
彼女がいかにこの一か月を心待ちにしていたか、彼女に付けていた侍女に話を聞いていたからだ。
ナギの評判はすこぶる良く、比較対象がナオということを考えると余計そうなるだろう。
こちらのことを学ぼうという姿勢も奢る事のない態度も大変好ましいもので、皆が彼女のことを慕っていたという。
まあ、そんなナギだからこそ、こちらに残そうと決めたのだが。
もし彼女もナオのような女だったなら、2人まとめて強制送還していたはずだ。
それが今回の召喚における総責任者としての義務だ。
私は部屋で謹慎していたため見ていないが、いつも平然としていたナギが泣いたと聞いて心が痛んだ。
彼女はやはり普通の女だったのだ。
ルーメンたちも落ち込んでいたらしいが、野郎のことなどはどうでもいい。
むしろ地の果てまで落ちるがいい。
そして戻ってきたら覚悟しておいてもらおう。
特にルーメンには再教育が必要である。
だから私はナギの気が済むまで付き合うことにした。
それが私に出来るせめてもの償いだった。
さすがに殴りたいと言われた時は驚いたが、自分のやったことを顧みればそれも致し方ない。
むしろそれぐらいで事が収まるというなら安いものだと思った。
周りはさすがに私の身分を知っている者ばかりだったので青ざめていたが。
恨み辛みを散々言いつくしてふっきれると、ナギの表情が徐々に柔らかくなっていった。
それを見て安心しつつ、次の段階へ進むかと書庫へ行って本を見繕う。
いずれ相応の地位に就くことになるのだから勉強してもらわなければと自ら教えた。
これがなかなか優秀で、ナギは乾いたスポンジが水を吸収するように知識を身につけていく。
思えばこの時点で、私はナギを手放すのが惜しくなっていたのだと思う。
与えれば与えるだけ、彼女は応えてくれる。
それに、どれだけ気が強い女なのかと思っていたが、心を開いた相手には案外素直で可愛らしい。
その中に自分も含まれていることが単純に嬉しかった。
ナギはいつしか私の中で大きな存在となっていた。
一緒に時間を過ごしている内に、ナギも私のことを憎からず思っていることがわかると私は決断した。
彼女をルーメンに渡さないと。
そうと決まれば行動あるのみだった。
私は王に進言すると、それは思いのほかあっさりと承認された。
「いいよ」と軽い一言だ。
ルーメンたちが何か言いたそうな顔をしていたが、そんなもの無視である。
謁見の間で、私が正体を告げる前にナギが気づいてくれたことはとても嬉しかった。
いや、きっと彼女ならわかってくれると私は期待していたはずだ。
ナギに名を呼ばれ、自然と笑みが浮かぶ。
視界の端で王が物珍しそうにこちらを見てきた。
それはそうだろう、私は滅多に人前で心から笑ったりしないのだから。
王は小さく「これはまたナギ殿も大変な者に捕まってしまったものだ…」と呟いた。
全く余計なお世話だ。
部屋に戻って来ると、ようやくナギと2人きりで話せることになった。
まさか私が王子であるとは思っておらず、さらに私の花嫁になって欲しいと言われ、困惑中だった。
彼女が困惑するのも無理はないだろうが、私はすぐに確信を得たかった。
ナギへ投げかけた問いかけは自分でも考えられないほど弱々しいものだ。
図らずしもそれは彼女を慌てさせ、きっぱりと否定してくれた。
贅沢を言えば、しっかりと私への想いを言葉にしてもらいたかった。
しかし羞恥心で頬を染めて目を潤ませるナギを見て、今日はこれぐらいにしておこうと諦める。
これから時間はまだまだあるのだ。
お互い想いを確かめ合った喜びと色々仕込む楽しみが出来た嬉しさに、思わず本音がぽろりと出てしまった。
しまったと内心舌打ちしつつナギの様子を窺ってみると、彼女の脳は許容範囲が超えてしまったようで、今のような状況に至っている。
ナギに気付かれなかったことにほっとしつつ、どこかで残念がっている私もいた。
正直猫を被っているのも楽ではないので、ナギには早く私のことを理解してもらいたい。
だが、ナギのことだから、いつしか全てに気付く日がくるだろう。
その時彼女がどんな行動をとるのか、恐ろしくもあり楽しみでもある。
しかしどちらにせよ私がナギを手放すことはありえない。
私の花嫁はナギしかいないのだから。