無法の坩堝へようこそ
かつて起きた大災厄により一画が崩壊し、治外法権の坩堝へと成り果てた悪徳の都市——『禍津街』。
無軌道な犯罪組織、密売人、重火器をぶっ放すならず者たちがひしめき合い、昼夜を問わず硝煙が街を揺らし続けている。
欲望と金が渦巻くこの街において、人間が引き起こす暴力的で理不尽な惨劇など、もはや誰も気に留めない日常の些事に過ぎない。
だが、どれほど銃火器で武装した狂暴なごろつきであっても、本能的に理解している「絶対的な絶望」が存在する。
世の理を歪めて産み落とされる怪物。
人間がどれほど束になって挑もうと絶対に殺すことのできない最悪の災害——『異形』の存在である。
奴らの肉を裂き、討ち滅ぼせるのは、自らも一線を越えた狂気を抱く『喰悪者』だけなのだから。
雨が叩きつける街の真ん中に、異様な圧迫感を放って聳え立つ塔がある。
窓が極端に少なく、湿った夜気を受けて鈍く光る漆黒の特殊装甲鋼。
——『咎人執行局 中央統括本部』
裏社会の人間や、そこに繋がる咎人たちが畏怖を込めて『黒鉄』と呼ぶ監獄施設だ。
上層の冷徹な管理区域を通り抜け、重厚なエレベーターが地下深くへと下降していく。
最下層に広がるのは、分厚い鉄扉と「悪意」を遮断するための結界陣が張り巡らされた監房区。
「ふぁ……あ〜あ、またこのカビ臭い部屋にお戻りですかー」
重苦しいブーツの音を響かせ、ヴェロニカは自身の独房へと歩みを進めていた。
ロングコートは雨と返り血で濡れ、肩には先ほど現場で奪い取ったばかりの「物」が、気怠げにぶら下げられた袋の中に収まっている。
箱は未だに、ドクン……ドクン……と不気味な脈動を繰り返し、監房の結界を不吉に揺らしていた。
「おい、ヴェロニカ。余計な口を叩くな。ここがお前らクズ共の居場所だ」
後ろを歩く防具で身を固めた警備員が、安全距離を保ったまま銃口を彼女の背中に向け、冷ややかな視線を浴びせる。
「はいはい、すみませーん。で? 現場から回収してきたこのピチピチのお土産、上に渡せばいいわけー?」
ヴェロニカは振り返り、首をコトンと傾けて見せた。
狂気を孕んだその笑みに、警備員は思わず引き金にかかる指に力を込め、忌々しそうに顔を歪める。
「上層部で解析する。お前たちクズ共は、ただ指示通り動いていればいいんだ」
「ふーん」
重厚な鉄扉が不気味な重音を立てて開き、冷たい独房へと足を踏み入れる。
袋から箱を取り出し、鉄の机の上に放り投げると、カンと乾いた金属音が響いた。
(……ほんと、上層の固物どもはなーんも分かってないなぁ)
固いベッドに腰掛け、細い指先で脈打つ箱を愛おしそうになで上げた。
『黒鉄』は、自分たちのような咎人の力を利用し、街の異形を効率よく処理するためのシステムに過ぎない。
だが、この箱から漂う「悪臭」の深さは、ただの野良の異形が持っていたものとは明らかに違う。
「この街のどこかにいるんだよねぇ……こんな上質な『毒』を仕込んで、わざわざ人間に運ばせてるイカれたオーナー様がさぁ」
結界の魔力がジジジ……と音を立て、箱から漏れ出す不気味な脈動を押しつぶす。
ヴェロニカは一切意に介さず、煙草に火を点けると、妖しく瞳を輝かせた。
「次はもっと歯応えがあるやつと殺りあいたいなぁー♪」
細い指先で、机の上の箱を「チッチッチッ」と規則正しく叩いた。
ぽつりと、誰に聞かせるでもない呟きが漏れる。
「……にしてもさー」
指先から伝わる生ぬるい脈動が、ほんの数時間前の出来事を鮮明に呼び覚ます。
「——『喰罪』」
泥水の中に倒れ込み、激しく泡を吹いて失神している男の胸元へ指先を突き立てる。
メリメリと不気味な音を立て、男の肉を侵し始めていた箱を強引に引き抜いた。
男の皮膚を破りかけていた無数の脈動が瞬時に萎み、肉体の崩壊が劇的に止まる。
「命拾いしたねぇ、せっかくの上質な毒が、ただの雑魚の餌になるのは勿体なさすぎてさぁ」
気絶した男を爪先で蹴っ飛ばし、回収した箱を気怠げに袋へ放り込む。
そのままコートの裾を翻して路地を抜け出そうとした——その瞬間。
——タァンッ!
甲高い乾いた銃声とともに、足元の石畳が爆ぜた。
「おやぁ……?」
雨の帳を割って暗がりから現れたのは、異様な集団だった。
顔を覆う不気味な仮面。揃いの黒衣。そして手に握られた、消音器付きの無機質な短機関銃。
ただのごろつきでも、マフィアでもない。
気配を消し、狂ったように整った連動で退路を瞬時に塞ぎにかかる。
「口封じの『掃除屋』がご到着ってわけ? 手回しが早いことで〜♪」
仮面の男たちは一切の言葉を発さず、即座に集団で引き金を引いた。
無数の鉛の雨が雨幕を切り裂き、狭い路地裏を殺意で埋め尽くす。
「——甘い甘いっ!」
ヴェロニカは嘲笑いながら、肩に担いだ無骨な鉄塊銃を前に突き出し、一瞬で防盾代わりに構えた。
金属同士が激しくぶつかり合うスパークが雨の中に散る。
泥水に倒れる男を爪先で軽く見下ろしながら、その瞳に不吉な歓喜を宿らせた。
「箱の秘密を知ったこの男も、それを横取りした私も、まとめて消す気満々じゃん。いいねぇ……!」
ドゴォン……ッ!!
鉄塊銃の砲口から吹き出した爆風と衝撃波が、狭い路地裏を丸ごと圧殺する。
直撃を受けた仮面の男たちが壁ごと吹き飛ばされ、激しい火柱が雨夜の暗闇を真っ赤に染め上げた。
「もうちょい楽しめると思ったんだけどなー」
ふ、と紫煙を吐き出し、引き戻されるように独房の天井を仰いだ。
指先で弄んでいた箱は、結界の魔力にジジジ……と削られながらも、未だにドクン……ドクン……と生々しい脈動を刻み続けている。
分厚い鉄扉の覗き窓越しに、外の警備員が怯えたようにこちらを監視している気配が伝わってきた。
「ふふ……ビビりすぎだっての」
固いベッドの上で長くて白い脚を組み直すと、愛おしそうに小箱の表面を指先でなで上げた。
金属越しに伝わる上質で不快なぬくもりが、彼女の肉食獣としての本能を心地よく刺激する。
「ここまで証拠隠滅を図るような丁寧なオーナー様だ……。まさか自分が仕込んだこの『毒』が、今頃こんなカビ臭い檻の中で愛でられてるなんて、思ってもみないだろうねぇ」
「さあて……そろそろ上層の固物どもが、青い顔して駆け込んでくる頃かな♪」
静寂に包まれた地下廊下に、切り裂くような慌ただしい革靴の硬い足音が響き渡る。
複数の足音が独房の前でピタリと止まった直後、重厚な鉄扉の電子ロックが、無機質な解除音を鳴らした。




