喰悪者
——光を乞う祈りなどあるはずもなく、救いをもたらす慈悲など到底ない。
人の心に芽生える負の感情には、確かな「質量」がある。
妬みや怨恨といった泥水のような情念は、底へ深く沈み込み、逃げ場を失ったまま密閉され、やがて粘り気のある「悪意」へと変質する。
それは腐敗した感情が魅せる、最悪の奇跡である。
宿主にも知られない暗がりで時を得た悪意は世の理を歪め、意志を持った咎人、すなわち「異形」へと化けていく。
だが、歪んだ奇跡が産み落とされる場所には、必ずやそれを追う影がある。
異形の肉を裂き、その悪意すらも己の糧として喰らい尽くす者たちが——。
深夜の煙雨が、石畳の路地を黒く濡らす中、男は必死に逃げていた。
背後に迫る「それ」の気配に、喉の奥が焼きつくほど喘ぎながら。
「は、はぁっ、痛い…いだ…ハァ……ッ! 動け、足……動け! 死にたくない、まだ……っ!」
始まりは、ほんの小さな嫉妬だった。
他人の成功を妬み、夜ごと酒に逃れて吐き捨てた醜い呪詛。
だが、密閉された胸の底で澱んだ悪意は、歪な質量となって産まれ落ち、いまや宿主の背中を追っていた。
「アァ!!、ガァ、アアアアアアッッ!!」
黒く濁ったタール状の皮膚には、他人の不幸を覗き見ようとする濡れた眼球と、陰口を吐き散らしてきた無数の不揃いな舌がびっしりと蠢いている。
「嘘、だろ……? 行き止ま……なんで……くそっ! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない!! 来るな! こっちに来るなぁぁぁっ!!」
じわじわと迫り来るねっとりと耳にこびりつく声を前に、恐怖で膝を折ろうとしたその時——男と異形の頭上から、鈴の音のように可憐で、しかし底なしに軽薄な嘲笑を含んだ女の声が降り注いだ。
「はーい、動かないでー。そこから一歩でも動いたら、君もこんがり焼けちゃうよー!」
瞬間、放たれたのは鈍い銃声ではなく、腹に響く重低音の破裂音だった。
怪異の胸腔へ深々と穿たれた巨大な弾丸は、体内で苛烈に爆縮。
超高温の焔が脈動する黒肉を内側から焼き尽くし、ドロドロの腐敗汁と化した体液を激しく撒き散らす。
ジジジと肉の焦げる凄惨な音とともに、怪物の上半身は一瞬で青白い炎に包まれ、悲鳴すら上げられずに炭化して爆ぜ落ちた。
「ヒッ!!……ひあぁぁっ!?」
顔面に焦げた肉片と返り血を浴びた男は、腰を抜かしたまま浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
恐怖で視界が白く霞む中、立ち込める黒煙を割って歩み寄ってくる影に気づき、地べたを這いつくばるようにして前を見上げた。
(な…なんなんだ…?)
カチリ、と小さな金属音が響き、揺らめいた一瞬の火花が煙草の先端を朱に染め上げる。
灯火に照らし出されたのは、夜風よりも冷ややかな笑みを浮かべた女の顔だった。
膝丈まで伸びた漆黒のロングコートは濡れた石畳と同じ暗闇を纏い、胸元には気怠げに結ばれた真紅のタイ。
黒と赤の鮮烈な対比が、直前に弾けたばかりの血飛沫を連想させて男の背筋を凍らせる。
そして何より異彩を放っていたのは、彼女が華奢な肩に担ぎ上げている巨大な鉄塊——未だ砲口から灼熱の熱気を吐き出している、禍々しい銃身だった。
「うーん、核がないなー。まだ完全体じゃなかったか。これじゃ星つかないかも……あ、大丈夫だった? 派手に飛び散っちゃってごめんね〜!」
「た、助かった……のか? 俺……助かったんだよな!?」
「ん〜? どうだろ。一応君の心臓はまだ動いてるみたいだけど…」
女はけたけたと喉を鳴らし、腰をかがめて男の目元へ顔を近づけた。
夜露に濡れた黒髪の合間から、獲物を品定めする肉食獣のような鋭い瞳が覗く。
妖艶な唇がニヤリと歪み、整った容姿とは裏腹の底知れない「狂気」が男の全身を金縛りにした。
「ねーねー、ここ、あの異形の爪掠ったでしょー? あと数分もすれば全身の皮膚が腐り落ちて、お腹の中からウジ虫がハローって挨拶してくるよ♪……っ嘘嘘。怯えちゃって可愛い♪」
「ひっ……! た、頼む、金なら払う! だからたすけ——!」
「お金ー? じゃあ、始末費と……ヴェロニカさんのアクションシーンの鑑賞代、まとめて請求させてもらおうかな〜。払えないなら、その綺麗な腸、標本用に抜き取るから♪」
「へ……は、腸……!?」
女——ヴェロニカは楽しげに笑うと、腰のポシェットから小さなガラス瓶を取り出し、男の顔面へ容赦なく緑色の液体を噴射した。
「ぶふっ!? げほっ、ごほっ! な、なんだこれ!?」
「やつらの体液に含まれる毒素の打ち消し薬だよー。気休めだけど気休め以上には効くから。……それでさー、君のポケットの『それ』は何ー?」
ヴェロニカが指さしたのは、男が胸元に必死で抱え込んでいた真鍮製の重厚な小箱だった。
表面には複雑な刻印がびっしりと刻まれ、ドクンドクンと生き物のように微かに脈打っている。
「その箱はどこで拾ってきたのかな〜? 正直に言わないとさっきの奴みたく死んじゃうよー?」
彼女は妖しく目を細めると、黒革の手袋で男の顎をクイと持ち上げた。
「その箱から溢れてる悪臭のせいで、この街の異形共がヨダレを垂らして集まってきちゃってるの。ほら、聞こえるでしょ?」
暗闇の奥、濃霧に包まれた路地裏から、ズズ……ズズズ……と無数の不気味な足音と肉の蠢く音が響き始め、街灯の光が不吉に明滅する。
男はガタガタと震え上がり、必死の形相で箱をヴェロニカへ押し付けた。
「ヒッ……! 嘘だろ、頼む助けてくれ!! 喋る! 喋るから!! 高額な報酬につられて『絶対に中身を見るな』って言われて荷物を運んでいただけなんだ! なのに途中でこの箱が勝手に脈打ち始めて、一緒にいた仲間が次々と化け物に……! 俺はパニックになってこいつを抱えて逃げ出してきただけで——!」
ヴェロニカは箱をひょいと奪い取ると、ねぶるように観察し始めた。
「うー…うん、多少いじられてるけど典型的な『悪意増幅型の呪物』だね。持ち主の欲望を肥やしにして、周りの人間を異形に変えるタイプのやつ、かー」
「それで君の中にいた奴もあてられて、育つ前にでてきたのかー。ねぇ、おにーさん。その依頼主って、誰?」
「知らない! 顔は見てないし名前も知らない…!」
男が喋り終える前に、周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。
夜の路地裏の影が一斉に立ち上がり、影のあちこちから、幾つもの赤い眼球がギチギチと音を立てて開き始める。
「……あ〜あ。どうやらそいつらが、お友達を連れてお迎えに来たみたいねー」
肉を灼くような不快な音が路地裏の闇に満ちていく。
影の残滓から這い出してきたのは、ひとつやふたつではない。
壁を這い、石畳を埋め尽くすように蠢く異形ども——その無数の目が、飢えを孕んで一斉にヴェロニカへと向けられた。
「う、うわあぁぁッ! 逃げろ! 囲まれてるぞッ!?」
男が悲鳴を上げて尻餅をつく。
だが、当のヴェロニカは逃げるどころか、足元まで押し寄せる悪意の波を眺め、心底おかしそうに肩を揺らした。
「あらあら……ずいぶんと群がってきたじゃない」
コートの裾を夜風に翻し、彼女は煙草の灰をゆっくりと叩き落とす。
その動作には一切の焦りも、恐怖もない。
あるのは、溢れんばかりの捕食者の歓喜だけだ。
異形が一斉に跳弾し、鋭い爪と悪臭を撒き散らす顎がヴェロニカの視界を完全に覆い尽くす——。
しかし彼女は、ただ気怠げに紫煙を吐き出しただけだった。
「——光の導きなどここにはなく、救いの慈悲など始めより途絶えたり」
彼女が担ぐ巨大な鉄塊——その重厚な砲口に、灼熱のルーンが仄青く浮かび上がる。
襲いかかる怪異の瞳に、絶望的な高熱の光が反射した。
「我ら、その重荷を喰らい尽くす黒き影。悪をもって悪を裁ち、毒をもって毒を散らせ」
狂気に濡れた唇が、最後の一句を紡ぐ。
「——『喰罪』」
瞬間、夜の闇を塗りつぶす朱色の爆炎が弾け飛とび、絶望的な殺気は一瞬にして灰へと変わり果てた。
救いようがない度し難い罪人達がいる。
己の悪意を内へ抑えこみ、 善と悪の境界すら嗤い飛ばし、 異形を狩り尽くす者達が。
「悪意」や「欲望」を理解することができるのは、 自らも一線を越えた「悪意」を抱いたことのある者達だけ。
歪んだ悪意が産声を上げるとき、 暗がりより現れし、毒をもって毒を散らす者たち。
人々は畏怖と侮蔑を込め、彼らをこう呼んだ——。
『喰悪者』と




