肆:安倍川もち
月が昇り、青白い光が静かに降る。
からりころりと高下駄の音だけが帰路に響く。ゆったりとした歩運びだが、後に続く少年は大輪の華が咲く羽織を這々の体で追う。立ってはいるが、その足どりは重い。
「そろそろ観念したらどうだ、少年」
羽織を肩にかけ、着流し姿の妙齢の女性が頭だけ振り返る。
「……何がですか」
当人が一番わかっているだろうにやせ我慢する様子に、慶は口の端をあげた。
「あの目玉の数だ。かなりの人数だっただろう」
月光を浴びて青銀の髪自体が光を帯びているようだ。その前髪から覗く双眸には、レンズ越しでも飢えが滲んでいた。獲物を前にした獣の眼差しが刺さるようだ。
民家の塀に手をついていただけだった青月は、気付けば肩で寄りかかり、塀伝いにずるずると下がり膝をつくまでに陥った。呼吸は浅い。
歩くこともままならなくなったのを見かねて、慶は数歩分をひき返した。彼の頭をはさんで塀に手をつき、目を合わせる。青月は唾を嚥下し、引き剥がすように視線を逸らした。
「必要だろう?」
必要最低限でいいという彼は、定期接種の周期以外での食事を嫌がる。だが、どんなに強力な魅了をもっていようと大人数の人だったものを相手にしたのだ。その分の消耗も激しい。なのに、依頼人の少女を送迎するまでは平然を装っていたのだから、大した胆力である。
迷いで揺れる瞳をみられたくないのか、瞼をぎゅっととじた。顔を寄せ、そっと囁く。
「ただの経口摂取だ」
決して口付けなどではない。数に入らないのだから、純情な信条に反しないと安心材料を与える。
ふと、視点が反転した。塀を背にする彼を見下ろしていたはずが、青白い月ごと見上げていた。月光を背に陰っているはずなのに、飢えた双眸だけは爛々と光っている。
「さぁ、少年。存分に食らうがいい」
慶は、ゆるりと獲物らしかぬ笑みを浮かべる。気に食わなかったのか、噛みつくように口を塞がれた。
これが首筋ならば吸血鬼だな、と虚脱感を覚えつつ思う。疲労すらない身体が、精気を奪われるときだけは近い感覚になるのだからおかしなものだ。変化のない身ゆえ慶には、一時的でしかないささいな変化も好ましい。
飢餓で怒ったような表情が、満たされそれが薄まるほどに苦く変わってゆく。不服で仕方がないのだろう。彼にとっては食事なのだから、もう少し美味そうにしたらいいのに。
唇が離れ、は、と互いに呼吸を取り戻す。
「なぁ、私はまずいのか?」
「……はい?」
慶は、至極真面目に問うた。無粋さに、青月は問いを理解するのに数秒を要する。
「味見程度といえ、私の味を知るのは君だけだ。気にもなるだろう」
「だから、以前も言いましたが……」
「淫魔には食事なのだから、精気の良し悪しも分別がつくのではないか? 君の好みに合うのかぐらいはあるだろ」
精気を糧にする生物ならば、味に近しい感覚があっても不思議はない。なのに、彼は甘味を口にするときより苦々しく眉を寄せる。非常食といった通り、カンパンを口にしているに近しいのだろうかと質したくもなる。
しばし眼差しを向けつづけると、青月はメガネのブリッジを指でもちあげ、厚いレンズで瞳が曇った。
「ノーコメントで」
慶が詰るも、以降は取り合ってくれなかった。だが、一度に抜けた精気が多く立ちががりきれなかい彼女を横に抱え、帰路につく。
「慶さんの方が歩けなくなったら、結局同じじゃないですか」
「いいじゃないか。私では少年を運べん」
青月は嘆息ひとつ零す。横抱きの彼女が鼻歌まじりに浮いた足を揺らすものだから、からころと高下駄が鳴った。
寓居の洋館に住みはじめていかほど経ったか、散歩していたふたりはいつぞやの少女に出会う。
「おや、お嬢さんじゃないか」
「こんにちわ。お久しぶりです」
「久しいかな?」
「もう一年ですよ。わたし、あと少しで卒業です」
思ったより経っていたと慶は純粋に驚く。少女が成長したようにみえたのは気のせいではなかったらしい。
制服姿だったので学校帰りかと訊ねると、休日だと返る。魔女に会いにくる以外で正装が必要なことでもあったのかと小首を傾げると、少女はさびしげに微笑んだ。
「用務員のおじいちゃんのお葬式だったんです。わたし、仲良くしてもらってたんで」
家が近所だったこともあり、校内以外でも親しくしていたらしい。分けてくれたおかきを一緒に食べたり、ひとつひとつはささやかな思い出だが、縁を結ぶには充分なものだった。
慶はそうかと頷き、お悔みを伝えて、少女と別れる。葬儀で別れの挨拶をいう相手がいることを羨んではいけないのだろうと、苦笑が滲む。人間の生死に関心の薄い青月は、少女の後ろ姿を見送る彼女をみていた。
「最近の葬式饅頭はこし餡も上質で口当たりもよいときくが、今はきなこの方がいいな」
何をいいだすかと思ったら。青月が呆れている間に、高下駄が方向転換をする。
「安倍川もちを食べにいこう」
「わかりました」
丘を降りた和菓子屋に併設されているカフェにふたりは入る。入口に紺の暖簾があり、仕切りには竹が使われ趣深い。あんみつが人気の店だったが、目的のものが最初から決まっていたので迷わず注文する。和菓子に合わせて、今回ばかりは紅茶と珈琲ではなく、ふたりとも緑茶を頼んだ。
ほどなくして、店員が注文したものを運んできた。長方形の墨流しの皿のうえに、きなこがふんだんにまぶされた白餅がのっている。
慶はきつね色の粉にまみれた餅のひとつを食んだ。餅はあまりにやわく、かみきれない分が細く長くのびてゆく。
「んーっ」
伸びるぞ、と主張する声にはいはいと頷き、青月はあぐりと半分をしかとかみきった。あえて伸びるのを楽しんでひとくちずつ食べる彼女とは違い、あっさりとした食べぶりだ。
大口で食べていたこともあり、青月が先に食べ終わり、彼は緑茶のおかわりを頼んだ。ペースこそ異なるが、お互い口のまわりにきつね色の粉がついていた。
口元のきなこを指で拭い舐めとると、くどくはない甘さが口に広がった。相殺するために、緑茶をすする。彼女にはこの品のよい甘さを味わうのがいいのだろう。
浸るように食む彼女を眺め、頬杖をつく。
「亡くなられたようですし、次にいきますか?」
口のなかの餅を食べきり、湯飲みを傾けつつ慶は肯いた。
「ああ、そうだな」
よい頃合いだ、と彼女は笑むが、今回の寓居には長居しすぎた。だから、魔女の噂が立ったのだ。
「それで、旦那さんだったんですか?」
「さてな」
もう記憶も朧げだとただ笑う。それに生まれ変わっては顔も声もなにもかも違うだろう。かもしれない、だけに浪費する時間が慶にはいくらでもあった。
残るひとくちを食む。固くなることがなく、最後までやわらかさを保った白餅だった。
「白玉のかたさは耳たぶぐらいがいいというが、安倍川もちのやわらかさは唇のようだな」
青月は飲みかけの緑茶で、ぐっと噎せかけた。
「例え方」
「情緒ある方だと思ったが」
「セクハラですよ」
「カラメル色に染まる空のなかで食べた卵の味だとはいってないだろう」
「今いってます」
直近の味の記憶を持ち出している時点でアウトだ。彼女に本当に自分を揶揄うつもりがないのか穿ってしまうが、真面目に口にしていそうなのが性質が悪い。飲む緑茶の苦みが増す。
青月は、せめて自身の食事事情をあげるのはやめさせようと決める。
軽口を交わし合うふたりの正体を誰も疑うことはしない。多少風体の変わった客はそれから来なくなった。
目撃証言が減り、いつしか街にあった魔女の噂は薄れていった。





