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7 ずっと、私の側にいて

 帰りの馬車の中。

 キルスティとダンスを踊ったせいか、それとも、キルスティに対する気持ちに気づいたせか、フィスカはまだ夢の中にいるようなふわふわとした気分だった。

 ふと、向かいの席に座るキルスティにちらりと視線を向ける。


 何だか信じられない。


キルスティは窓枠に肘をつき外を眺めていたが、フィスカの視線に気づき微笑む。

 思わず頬を赤らめ、フィスカは慌てて目をそらす。けれど、もう一度、今度は睨む目つきでキルスティを見据える。


「ねえ、おまえはいったい何者なの?」


 一瞬の沈黙。


「何を今さらそんなことをお聞きになるのですか?」


「ごまかさないで」


「わたしはただの庭師ですよ」


「お願いだから、ほんとうのことを言って」


 キルスティはふっと笑って手を伸ばし、フィスカの柔らかい髪の一房を指先に絡めとる。

 キルスティの指先が頬に触れ、さわりとなでられる。

 それだけで背筋が震えた。

 身動ぎひとつできない。

 黒い瞳にのぞき込まれ、フィスカの視線が困惑に泳ぐ。

 やがて、キルスティは小さなため息をついた。


「目立つ真似はあまりしたくなかっただけです」


「目立つ真似?」


「理由はいずれわかると思います。いや、すぐにでしょうか」


「すぐに?」


「招かれざる客が来ているようですよ」


 キルスティの声とともに、馬車はサヴィア家に到着した。


「何故……」


 フィスカは目を見開く。

 馬車から降りると、驚いたことに目の前にフェルディナントが立っていた。

 いつもの戯けた調子はなく、その目はぎらついたような光を放っている。そして、フェルディナントの手には一振りの剣。


「何故、あなたがここにいるの!」


「夜会ではずいぶんな真似をしてくれたね。おとなしくしていれば、もう少し可愛がってあげたものの。あれだけ、おまえに優しくしてあげたのに。この僕をばかにするとどうなるか、少しわからせてあげないといけないようだね」


「大声をあげるわよ」


「ふん、やってみるがいい。夜会の途中、フィスカ様は体調を崩し、今宵はアルザス家に泊まっていただくことになったと言って、この屋敷の使用人たちをすべて休ませたよ」


「何を勝手な! いいえ、クレオールは私の帰りを待っているわ。彼は絶対に私以外の者の命令を受け入れたりはしない」


「ああ……あの爺さんならとっくにおねんねさ。疲れたのだろうね。もうお年だから」


「まさか、クレオールに何かしたの!」


「だから、少し眠ってもらっているだけだと言っただろう?」


 フェルディナントは一歩一歩、近寄ってくる。

 そこへ、フィスカを背後にかばい、キルスティが立ちはだかった。


「おいおい、またおまえか。庭師の分際でいちいちでしゃばるなよ。おまえはさっさとここから立ち去るんだな」


「それはできないな。貴様はフィスカ様と結婚し、この屋敷と財産を奪い取ろうと企んでいる。そうだろう?」


「はっ! だからどうした。俺はその娘の婚約者」


「婚約した覚えはないっていってるじゃない! あなたが勝手に言っていることだわ」


 しかし、フェルディナントは聞いていない。


「この屋敷も財産もいずれ俺のものになる」


「やっぱり、私に近づいたのもお金が目当てだったのね」


「あたりまえだ。おまえみたいな小娘を本気で相手にすると思ったか? すべては金だよ金!」


 フィスカは泣きそうに顔をゆがめる。

 怒りの感情はわかなかった。

 何故か悲しい気持ちで胸が痛い。


「だが、貴様がここで死んだらどうする?」


 キルスティの冷めた声にフェルディナントは眉をあげた。


「何だと?」


 不可解な顔をするフェルディナントに、キルスティはさらに続けて言う。


「執拗に婚約をせまるが、フィスカ様に冷たくあしらわれた貴様は、消沈してそのまま行方をくらませてしまった。そうだな、貴様の死体を薔薇園に埋めるとしよう。あの広大な薔薇園なら発見されることもないだろう」


 フェルディナントは口の端をつり上げた。


「たかが庭師ごときに何ができる。おまえを先に片づけるまでだ!」


 フェルディナントは剣を抜いた。

 フィスカは泣きそうに顔をゆがめ、ぽろぽろと涙をこぼす。


「キルスティごめんなさい。おまえを巻き込んでしまったわ。だからお願い。キルスティ……逃げて」


「逃げる? おかしなことをおっしゃるのですね。フィスカ様をお守りするのがわたしの役目なのに」


「私を守る?」


 唇を震わせ涙をこぼすフィスカに、キルスティはふっと笑いかける。


「ご安心ください。すぐに片づけますから。フィスカ様、どうかさがってください」


 剣をかかげフェルディナントはキルスティに向かって駆け出した。


「キルスティ!」


 フィスカの叫びとともに、キルスティは薔薇園の方向へと走っていく。


「偉そうな口を叩いたわりには、いきなり逃げ出すとは情けないな」


 たどり着いたところは薔薇園の、以前、フィスカが帽子を飛ばし、薔薇の蔦に絡ませた場所。

 月明かりを受けて咲く薔薇を背に、キルスティは緊迫した空気にはそぐわない艶やかな、余裕ともとれる笑みを浮かべた。


「もう逃げないのかな?」


 くつりと嗤い、じりじりとフェルディナントが間合いをつめていく。

 フェルディナントに視線を据えたまま、キルスティの手が背後の薔薇の蔓へと伸びる。 そこから現れたのは一本の剣であった。


「どうしてそんな所に剣が!」


 フィスカは驚きの声をあげた。


「この薔薇の蔓は剣を隠すのに都合がよかった。何故って、たかが一介の庭師ごときが、剣を持つなど不釣り合いですからね」


 だからあの時、私が薔薇の蔦に絡まった帽子を取ろうとしてキルスティは慌てたのね。


「貴様こそ、後悔したくないならこのまま静かに去れ。そして、二度とフィスカ様の前に姿を現すな」


「は、まったく庭師ごときが誰にものを言っている。その小娘は僕のものなんだよ。いや、その娘の所持するものすべてがね」


 フェルディナントが剣をかかげ踏み込んできた。同時に、キルスティも剣を抜いてかまえる。

 刀身の切っ先が月明かりに照らされ蒼く光り、その蒼白く輝く剣の刃と、キルスティの優美な仕草にフィスカは言葉を忘れ目を奪われる。

 緩やかな風にのって、ふわりと甘い薔薇の香りが漂ってきた。

 地を蹴り、飛び込んでくる相手の一撃をキルスティは剣で受け流す。

 月明かりだけの夜の空間に剣花が散る。

 キルスティは相手の剣を一撃で弾き飛ばした。

 勝負はあったと、キルスティは剣の切っ先を、相手の喉元に突きつける。

 ひっと喉の奥でフェルディナントは悲鳴をあげた。


「た、頼む。待ってくれ! 殺さないでくれ……」


 キルスティはすっと目を細めた。


「わ、わかってる。もちろん、フィスカには二度と近寄らない。ほんとうだ、信じてくれ。だから命だけは……」


「今日のところは見逃してやる。だが、今度フィスカ様に近づくようなら容赦はしない。その時は貴様を殺す」


「く……っ」


 フェルディナントは憎悪をみなぎらせた目で二人を睨みつけ、逃げるように去っていってしまった。


 再び訪れる静寂。


「お怪我はありませんでしたか、フィスカ様」


 剣を鞘におさめたキルスティが、フィスカを振り返り手を差し伸べた。


「もう一度聞くわ。おまえはいったい何者?」


 しかし、キルスティはフィスカから目をそらし、質問に答えようとはしない。


「答えなさい!」


 フィスカは伸ばされた手を振り払い、再度問いかける。やがて、キルスティはまぶたをわずかに伏せ小さな息を吐いた。


「わたしは前当主であるアロイス様に雇われた、フィスカ様の護衛……とでも言っておきましょうか」


「お父様に雇われた……」


 フィスカは小声で繰り返す。

 確か、クレオールもそんなことを言っていたことを思い出す。

 つまり、雇われたという本当の意味は、そういう意味であったのだ。


「はい。病に倒れご自分が長くないことを知ったアロイス様は、一人娘であるフィスカ様の身を案じ、そこでわたしたち組織……にフィスカ様の身をお守りするよう依頼されたのです」


「わたしたち組織……」


 キルスティはさらに言葉を続けた。


「アロイス様はひどく後悔されておりました。何の気はなしにアルザス家のフェルディナントとの婚約を口にしまったことを。しかし、そのせいでフェルディナントは執拗にフィスカ様との婚約を迫るようになった。だが、フェルディナントの目的はサヴィア家の財産。もし自分が死んだら、あの男は間違いなくフィスカを狙うだろう。そこでアロイス様の命で、わたしはフィスカ様を守るため、いいえ、最悪の場合はフェルディナントを殺すため、庭師としてこの屋敷で働くことになったのです」


「わたしたち組織って? おまえは……」


 それ以上は何も言ってはいけないというように、キルスティのしなやかな指先が口許に添えられた。


「どうか、それ以上わたしのことを詮索しないでください」


 おそらく、普通の人間が知ってはいけない世界に彼はいるのだ。


「もう、あの男がフィスカ様の前に現れることはないでしょう」


「では、依頼を遂げたおまえは、私の前からいなくなってしまうのね」


 声に寂しさがあらわれないよう、気をつけて言う。けれど、相手にはすべてお見通しだったようだ。


「わたしがいなくなると寂しいですか?」


「寂しくなんか……」


 言いかけてフィスカは瞳を揺らした。

 ここで素直にならなければ、きっとキルスティは自分の前から姿を消してしまうだろう。そしたら、きっと二度と会うことはできない。

 フィスカはキルスティの両腕をしっかりとつかんで見上げた。


「寂しいわ! 寂しいに決まってるじゃない! それに、あの男が本当にあきらめたとは限らないでしょう。もしかしたらまた……そうしたら私はどうすればいいの! だから命令よ! どこにもいったりしないで。ずっと……」


「ずっと?」


「私の側にいて!」


 貫くようなキルスティの瞳に負けじと、フィスカは懸命に自分の思いのすべてを相手に伝えようと必死に言葉を紡いだ。

 たまらずキルスティの胸へと飛び込む。

 今ここでこの手を離してしまえば、もう二度と会えなくなってしまうとばかりに。

 こらえきれずにこぼれた涙がキルスティの胸を濡らす。


「わたしの正体を知ったでしょう? それでもですか?」


「そうよ!」


「わたしは依頼のためなら、何の感情なく人を殺せる人間なのですよ」


 フィスカは目に大粒の涙を浮かべてふるふると首を横に振る。


「わたしは幼い頃からそういうふうに育てられてきたのです。そんな血で汚れきった男の手にあなたは汚れのないその身を委ねるというのですか?」


「あなたが何者であってもかまわない!」


 ふっとキルスティの口許に意地の悪い笑みが刻まれる。


「もしも……」


 キルスティはわずかにまぶたを落とし、目の縁にたまったフィスカの涙を指先でぬぐい取る。


「依頼を受けたのがあなたのお父上ではなく、あのフェルディナントという男だったら、わたしはためらうことなくあなたを捕らえ、あの男に引き渡した」


 キルスティの瞳の奥に一瞬、危険な色が揺れ動いたのを見てフィスカは喉をこくりと鳴らした。


「あなたを殺せと命じられたら、わたしは迷うことなくあなたを殺す。あなたに恐怖と苦しみを与え続けろと命じられたら、どんなにあなたが泣いても叫んでも、わたしは命令に従いあなたを傷つけた」


 キルスティにしがみついていたフィスカの手が小刻みに震える。そんなフィスカの頬にキルスティの手が伸びそっとなでる。


「わたしはそういう男なのです。本当はあなたの……フィスカ様が思っている以上に危険な男。あなたの側にいることさえ相応しくない男なのです」


「いいえ! だけど今は私の味方なのでしょう? だったら、私はあなたのことなんか少しも怖くない。もしも、この先私の命を狙うことになるというのなら、私は今この場であなたを繋ぎとめる。二度と放さない。私気づいたの。キルスティ、あなたのことが好き」


 フィスカの精一杯の告白に、キルスティの目が一瞬だけ驚きに見開かれた。

 迷いも揺らぎもないフィスカの真っ直ぐな目が、射るようにキルスティを見上げる。

 フィスカはそっとキルスティの胸にひたいを寄り添え、濡れた目で相手の顔を見上げた。


「お願い、キスして」


 思っていたことを素直に言葉にしてしまい、フィスカは顔を真っ赤にして慌てて視線を逸らしてしまった。


「私……」


 うつむこうとするフィスカのあごに、キルスティのしなやかな指先がかかる。


「いいのですか? わたしを本気にさせてしまって」


「私は本気よ!」


「その言葉、取り消すなら今ですよ」


「取り消さないわ」


「逃しませんよ」


「それでいい。だって、私、離れたくない。キルスティのこと離したくない。ずっと側にいて!」


 嘘も偽りもない真剣な眼差し。

 頬に一筋の涙がこぼれ落ちる。


「では、新たな契約ですね。ご主人様」


 やにわに、キルスティはフィスカの身体を引き寄せ強く抱きしめた。

 息苦しさにフィスカは空気を求めて顔を上げる。

 近づいてくるキルスティの唇に、フィスカはうろたえて身動ぐ。


「ま、待って。まだ、心の準備が」


「待ちません。それに、先ほど逃さないと言いました」


 途端、唇をふさがれた。


「ん……」


 あまりにも突然のことで驚いて身動ぐが、キルスティの手に頭を押さえ込まれ身動き一つできない。

 強張っていたフィスカの身体から少しずつ力が抜けていく。


 溶けていく──


 長い口づけの後、ようやく唇が離れた。

 震えるフィスカの身体の力が一気に抜け足下を崩す。

 すぐにキルスティの力強い腕によって抱きとめられた。


「このくらいで可愛いですね。フィスカ様」


 どこか意地の悪い笑みを浮かべてキルスティは言う。


「だって、こんなキスされたら……」


 フィスカは口許に手をあて、頬を朱に染め熱い吐息をこぼした。そんなフィスカの足元に恭しく片膝をつき、キルスティは深く頭を垂れた。


「この命にかえてフィスカ様をお守りいたします。一生……」



 ◇・◇・◇・◇



 窓辺に寄り添い、フィスカは眼下に広がる見事な薔薇園で作業するキルスティを見つめた。

 あの事件があった後も、彼はこうして屋敷に自分の元にとどまってくれた。そして、依然と変わらず庭師として働いてくれている。


「フィスカ様。彼を、庭師のままにしておくのですか? フィスカ様専属の護衛として側に置くこともできるのですよ」


 キルスティの素性のことを何も知らないとは言ってはいたが、おそらく、すべての事情を知っているのであろう執事のクレオールがフィスカに助言する。


「いいのよ。それに、キルスティが庭師のままでいいって言ったの」


「ですが、毎日そうやって庭園を眺めているばかりでは、お仕事に支障をきたすのではないかと存じますが」


「あら、側にいられるほうが、もっと手がつかなくなるわ」


「さようでございますか」


 フィスカは窓辺に頬杖をつき、庭園で作業するキルスティに視線を落とし微笑んだ。

 背後でクレオールのため息をきいた気もするが、今は無視だ。 (了)

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