第3話「宝石の部屋と、夜の底で繋ぐ手」
塔での生活は、穏やかな反復の連続だった。
朝は書庫の埃を払い、昼は二人分の簡素な食事を作る。
サイラスは常に僕の視界の端に存在し、僕が重い本を運ぼうとすれば指先の魔力でそれを浮かせ、火を使おうとすれば瞬時にかまどに火を灯した。
あまりの過保護ぶりに、僕は申し訳なさを通り越して戸惑うしかなかった。
「あの、師匠。これくらいは自分でできますから」
「お前は柔らかすぎる。紙の端で指を切るかもしれない」
「子供じゃあるまいし……」
呆れてため息をつきながら、僕は窓辺のテーブルを布で磨く。
ふと、窓の外の景色に目を向けた。
灰色の空と、深い森の樹海。
季節の感覚が麻痺するようなこの場所で、僕は自分の誕生日が数日前に過ぎていたことに気がついた。
「そういえば、誕生日はもう過ぎたんだったな」
「……お前の、生まれた日か」
サイラスが本から顔を上げ、静かに問い返す。
「ええ。昔、妹に誕生日を忘れられた事があって。僕が楽しみにしていたケーキを、彼女が全部一人で食べてしまって……今思えば、あの頃から僕は邪魔な存在だったんでしょうね」
自嘲気味に笑って話したつもりだった。
だが、振り返ったサイラスの顔は、氷のように冷たく硬直していた。
彼は何も言わず、ただその深い瞳で僕をじっと見つめ、やがて無言のまま自室へと戻っていった。
◆ ◆ ◆
翌朝、目覚めた僕は、部屋の異変に息を呑んだ。
寝台の周囲が、見渡す限りの極彩色で埋め尽くされていたのだ。
ルビー、サファイア、エメラルド。
こぶし大の輝石が無数に床に転がり、壁際には季節を無視して咲き乱れる百合や薔薇、名も知らない異国の花々が山のように積まれている。
むせ返るような花の香りと、宝石が放つ暴力的なまでの光の乱反射。
部屋の入り口に、サイラスが立っていた。
「これで足りるか」
彼は無表情のまま、平然と尋ねる。
「師匠……これ、全部どうしたんですか!?」
「南の鉱脈から掘り出させ、東の国から花を摘んできた。お前が生まれた日は、僕にとってこの世で最も価値のある日だ。あの虫けらどもが奪ったものの何千倍も、僕がお前に与えよう」
サイラスの足元から、微かなオゾンの匂いが漂っている。
一晩中、空間転移の魔法を連続して行使し続けていた証拠だ。
彼の瞳の奥にある、純粋で重すぎるほどの執着。
呆れるべきか、怒るべきか。
だが僕の胸の奥に広がったのは、どうしようもなく温かい、泣き出したくなるような感情だった。
「……ありがとうございます。でも、次は言葉だけで十分ですからね」
僕が小さく笑うと、サイラスの瞳孔がわずかに揺れ、彼は無言のまま目を伏せた。
◆ ◆ ◆
その夜、僕は不快な夢を見た。
王立学園の広間。
冷たい大理石の床。
ユリウスの冷酷な目と、リアの嘲笑う唇が、無限の合わせ鏡のように増殖して僕を取り囲む。
『役立たず』
『無能』
『誰にも愛されない』
呪詛のような声が鼓膜にへばりつき、息ができない。
喉を掻きむしり、暗闇の中で懸命に空気を求めてもがく。
冷たい汗が全身を覆い、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打鐘する。
「……アイゼン」
不意に、名前を呼ばれた。
重く、深い声。
はっと目を覚ますと、夜の闇に沈む寝台の脇に、サイラスが片膝をついていた。
彼の大きな手が、僕の震える両手をしっかりと包み込んでいる。
骨張った指の節々から伝わる、痛いほどの熱。
夢の恐怖で凍りついていた血脈に、彼の内包する莫大な魔力が、静かな波のように流れ込んでくる。
「悪い夢でも見たか」
「師匠……」
「僕はここにいる。お前を傷つけるものは、夢の中にさえ踏み込ませない」
サイラスの低い声が、毛布のように僕の心を覆う。
もう誰にも期待しないと決めていた。
愛情なんて、いつか裏返る刃でしかないと思っていた。
けれど、繋がれた手から伝わるこの絶対的な体温の前では、そんな諦念さえも砂のように崩れていく。
もし、この人が本当に僕を望んでくれるのなら。
この人のためなら、もう一度だけ、この世界を信じてみてもいいかもしれない。
僕はサイラスの手を握り返し、再び深い眠りへと落ちていった。




