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無能と婚約破棄された僕ですが、世界最強の魔法使いに拾われ過保護に溺愛されています  作者: 水凪しおん


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第2話「時の止まった楽園と、過剰すぎる箱庭の主」

 ふわりとしたラベンダーの微香が鼻腔をくすぐり、僕はゆっくりとまぶたを開けた。

 視界に広がったのは、見慣れぬ高い天井と、重厚な石造りの壁だった。

 暖炉の中で赤い炎がはぜる音が、静寂の空間に心地よく響いている。

 身を起こそうとして、自分が驚くほど清潔で柔らかい寝台に寝かされていることに気がついた。

 泥まみれだった服は、上質な麻のゆったりとした部屋着に変わっている。

 ここは、どこだろう。

 戸惑いながら周囲を見回すと、厚い樫の扉が音もなく開いた。


「起きたか」


 現れたのは、昨夜の雨の路地で僕を拾い上げた男だった。

 フードを下ろした彼の素顔は、彫像のように整っていたが、血の気がなく酷く蒼白だった。

 銀糸のような長い髪が、歩くたびに空気をはらんで揺れる。

 彼は銀の盆を手にベッドの傍らへ歩み寄り、無造作にそれを小さな机の上に置いた。

 盆の上には、湯気を立てる琥珀色のスープと、ふっくらとした白いパンが乗っている。


「食べろ。腹が減っているだろう」


「あ……あの、あなたは」


「サイラス」


 男は短く告げると、寝台の脇の椅子に深く腰を下ろした。

 長い脚を組み、金緑石の瞳で僕をじっと見つめてくる。


「ここは時の塔だ。王都から遥か北、深い森の奥にある。お前を傷つける虫けらは、ここには一匹も存在しない」


「どうして、僕を……」


「僕の番だからだ」


 サイラスは微塵の揺らぎもない声で言い切った。

 番。

 その言葉の意味が理解できず、僕は困惑して口ごもる。

 魔力を持たない無能な僕が、こんなにも恐ろしいほどの魔力を内包した男の番であるはずがない。


「僕は、何も持っていません。あなたにお返しできるような価値は……」


「黙って僕の傍にいろ。それ以外の事は何も要求しない」


 サイラスの瞳の奥で、静かな熱が燃えていた。

 有無を言わさぬその声に押されるように、僕は温かいスープを一口すする。

 優しい味が舌の上に広がり、空っぽだった胃の奥がじんわりと温まった。

 彼が何者であれ、この静寂と温もりだけは嘘ではないと感じた。


◆ ◆ ◆


 時の塔での生活は、奇妙なほど平穏だった。

 僕はサイラスの弟子ということになったが、魔法の修練などは一切なく、与えられたのは簡単な掃除と食事の支度だけだった。

 塔の内部は途方もなく広く、至る所に古びた書物や奇妙な魔導具が積み上げられている。

 窓の外には広大な中庭があったが、そこにある植物はどれも枯れ果て、灰色の沈殿物のように風景にこびりついていた。

 サイラスの周囲には、常に空気が痺れるような濃密な魔力が渦巻いている。

 普通の人間ならその場にいるだけで息苦しくなるほどの圧迫感だが、不思議なことに僕にとってそれは、春の陽だまりのように心地よいものだった。

 その日の午後、僕は気分転換に中庭へ出ていた。

 枯れた蔓が絡みつくアーチの下を歩いていると、灰色の枝の陰に、小さな赤い蕾を見つけた。

 この塔に来て初めて見る鮮やかな色彩に惹かれ、僕はそっと指を伸ばす。

 チクリ。

 鋭い痛みが走り、指先から一滴の赤い血が滲み出した。

 蕾の下に隠れていた鋭い棘に触れてしまったのだ。


「アイゼン」


 背後から、氷のように冷たい声が響いた。

 振り返ると、いつの間にか中庭に降り立っていたサイラスが、僕の指先の血を凝視していた。

 彼の金緑石の瞳孔が、爬虫類のように細く収縮している。


「あ、すみません。少し油断して……」


 僕が言い終わるよりも早く、サイラスは僕の腕を引き寄せ、血の滲む指先を自身の唇に含んだ。

 ぞっとするほど熱い舌先が傷口を舐め上げる。

 背筋に電流が走ったような感覚を覚え、僕は反射的に身をすくませた。


「お前に害をなすものは、存在を許さない」


 サイラスが低い声で呟く。

 次の瞬間、大気が悲鳴を上げた。

 パキパキと空気が凍りつくような音と共に、中庭の空間そのものが歪む。

 サイラスの足元から漆黒の波が放射状に広がり、枯れた薔薇の茂みを飲み込んでいった。

 音もなく、薔薇の蔓が灰となって崩れ落ちていく。

 ほんの数秒で、中庭の半分を占めていた茂みが完全に消滅し、ただの更地へと変わってしまった。


「師匠……! 何を」


「僕の庭に、お前を傷つける無用な長物は要らない。歩きやすいように道もすべて作り直そう」


 呆然とする僕の肩を、サイラスの大きな手が引き寄せる。

 彼の胸板の奥から伝わる、重く規則正しい鼓動。

 その奥には、狂気とも呼べるほどの激しい独占欲と庇護欲が潜んでいるように感じられた。

 逃げ出さなければならないという理性と、この絶対的に安全な箱庭に永遠に閉じ込められてしまいたいという衝動が、僕の心の中でせめぎ合っていた。

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