立ちっぱなし男子
今日は文庫本だった。
もしかしたらという気持ちで、昨日と同じ時間、同じ車輌に乗り込んだわたしは、そこで昨日の彼を発見した。
やっぱり立ったまま本を読んでいる。
わたしのあとから乗り込んでくる人が空席を埋めてゆくけれど、彼には少しも動く様子がない。
気がついたときには近くに空席がなくなってしまっていたので、わたしも彼と並んでドア際に立つことになった。
昨日読んでいた本は、もう読み終えたのかな? なんの本を読んでるんだろう?
ちらりちらりと様子をうかがう。
本を読むその顔は無表情で、面白いのかどうかはわからない。泣けたり笑えたりする話ではないのかもしれない。
今日は距離が近かったので、襟章がよく見えた。
わたしの通う学校のふた駅先にある男子校の生徒だとわかった。
駅の手前で、少し強めにブレーキがかかる。
「あっ」
踏みとどまれなかった。
危険を察知したのか、彼が本を持つ手を素早く上げる。わたしは障害物のなくなった彼の胸に顔からぶつかっていた。
「ごっ、ごめんなさい!」
慌てて離れる。心臓が早鐘を打っている。顔が熱い。
「いや……」
そう言うと、彼はすぐに手を下ろし、視線を文庫本に落としてしまう。
わたしはばくばくという心臓の音を聞きながら、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
そうこうしているあいだに電車がゆっくりと停車して、立っている彼のすぐそばの席が空いた。
「座らないの?」
微動だにしない彼に、思わず声をかける。
彼が眉間にしわを寄せてこちらに視線を向ける。
あからさまに迷惑そうな顔だ。
声をかけたことを後悔しそうになる。
「座りたければ、どうぞ」
「あ、違うの。そういうことじゃなくて……」
「おれはいい」
「でも……」
話をしているあいだに、他の人がその席に座ってしまった。
ドアが閉まって、電車がゆっくりと動き始める。
「なんで席が空いてるからって、座らないといけないんだ」
「は?」
とっさに言われたことがわからず、わたしは思わず聞き返した。
「なんで、って……。だって、空いてたら普通座るでしょう?」
「おれは座らない」
「なんで?」
今度はわたしが訊く番だった。
「おれよりも座りたい人がいるから」
わたしは数度瞬きをしてから、まじまじと彼を見た。
「でも、昨日はたくさん空席があって、他に立っている人はいなかったのに、やっぱり座らなかったじゃない」
わたしの言葉に、彼はわずかに目を瞠る。
「どうせすぐに人がたくさん乗ってくるのがわかってたからだ」
ふい、と視線を逸らしながら言う。
確かに、あのあと乗り込んできた人の陰になって、彼の姿が見えなくなったんだっけ。
目から鱗が落ちた。
まさか、そんなことを考えている人がいるなんて。
一駅くらいならと立っている人がいるのはわかる。友だち同士で乗って、話がしたいからとみんなで立っているのもわかる。
でも、ひとりで本を読んでいる人が、もうすぐ乗り込んでくる、誰か自分よりも座りたい人のことまで考えて立っているなんて、思いもしなかった。
「え、偉いね……」
そんな感想が口をついて出ていた。
彼は眉間にしわを寄せたまま、本を鞄にしまいこむ。
次の駅が近づき、電車が速度を落とした。
「別に、そういうんじゃない。立ったり座ったりするのが面倒なだけだから」
そう言い残して、彼は電車を降りて行った。