食わず嫌い(前篇)
「私、サシミが食べてみたい」
満面の笑みでカミラが注文したのは意外なものだった。
今日はエーファの奢りということで居酒屋ノブにカミラを招いている。
夜営業の始まる前の時間だから、店内には他の客の姿はない。リオンティーヌとハンス、それにシノブも出掛けている。
今日カミラを呼んだのは、春の山菜摘みへのお礼だ。
ハンスの考えた雪割芽のミソ和えはエトヴィン司祭たちレーシュ党には絶大な人気で、テンプラと同じく山菜の注文を伸ばすのに大きく貢献している。
対価は払って買い上げているが、それだけでは寂しいのでノブで何でも好きなものを頼んでもらおうということになった。
薬師見習いの仕事として薬草を摘みに行くついでだとカミラはいったん断ったが、エーファが強くお願いしたので根負けすることになった。
お招きに与ったので渋々やってきた、という風を装っているつもりらしいが、店に入っ手着たときから足取りは軽く鼻歌でも歌いだしそうだった。
放任主義に見えて、カミラの師匠イングリドは意外に躾が厳しい。
行儀作法はもちろん、ノブに来てもカミラが好き勝手に注文することはできないようだ。
元は聖王国で学問を修めた聖職者だったのだから、無理からぬことかもしれない。
食事と薬は似たようなものだというイングリドはカミラに調和の取れた食事をさせようとする。
自分は酔い潰れるまで飲むほどの酒好きじゃないかとリオンティーヌが指摘したことがあった。
「酒と甘いものについて私は反面教師だからね。カミラが真似しないように私は泣く泣く酔態をさらしているのさ」と悪びれる風もない。
今日はカミラ一人で来ているから、何を食べても怒られる心配はなかった。
何か甘いものを注文するだろうと皆で予想して、タイショーには果物を多めに仕入れてもらっていたのだが、予想が外れた格好だ。
「カミラはサシミ食べたことないんじゃない?」
「うん。だから食べてみたい」
酔い潰れた師匠のイングリドを迎えに来たときに他のお客がマグロのサミシを食べていたのが美味しそうに見えたらしい。
珍しいことだ。古都の人はほとんどがサシミに二の足を踏む。
普段から珍しいものを食べ慣れているカミラだからだろうか。
薬師見習いとして、身体を整えるためにいろいろと不思議なものを食べているというのはエーファも聞かされていた。
森の中にしか生えない珍しい木の実や野苺、野生の果物はエーファも食べてみたいと思うが、蛇や蛙、虹蟲なんかはあまり食べたいものではない。
エーファがカウンターを見遣ると、包丁を拭いていたタイショーが優しく微笑む。
奥から取り出してきたのは、マグロのサクだ。
今日はいいマグロが手に入ったと喜んでいただけあって、赤が美しい。
見惚れるような包丁捌きであっという間にサシミに切っていく。
この手際はタイショーにしかできない。褒めても「包丁がいいだけ」と笑うが、鍛冶ギルドのホルガーによれば「確かに包丁も業物だが、タイショーも凄い」ということだ。
リオンティーヌの話では、夜営業が終わった後にハンスはこっそりコンニャクを切って練習をしているらしい。
あっという間に盛り付けられたサシミは赤い宝石のようだ。
「さ、召し上がれ」
ことり、と目の前に出された皿をカミラはきらきらとした目で見つめている。
食べていいの、と目で問い掛けられて、エーファはこくりと頷いた。
見ているだけで涎が出てくる。今日のサシミは、とても綺麗だ。
エーファの前にもう一枚皿が置かれる。
「タイショー?」
「これはエーファちゃんの分」
タイショーがしーっと人差し指を口に当てた。他の店員には内緒ということらしい。それほど高いマグロなのだろうか。
エーファの見ている前でカミラが恐る恐る箸を伸ばした。瞳には期待の光が輝いている。
ぱくり。
目を閉じて二度三度噛むと、カミラの顔が笑み崩れてきた。
ほぅとうっとりした表情で頬を押さえ、堪能するように噛み締め飲み込む。
「美味しい?」
聞くと名残惜しそうに小さく頷いた。口を開くと味の余韻を損なうかのように、カミラは言葉少なに語る。
「美味しい。本当に美味しい。口の中に入れるとね、ふんわり溶けるの」
口の中で溶けるとは大袈裟な。
マグロは美味しいとエーファも知っているが、溶けるというほど柔らかくはないはずだ。そう思いながらエーファも続いて箸を伸ばす。カミラもふた切れ目を口に運んだ。
ぱくり。
口に含んだ瞬間、マグロがとろんと溶けた。
脂は乗っているが、トロほどではない。マグロではトロよりも赤身の方が好きなエーファだが、だが、今日の赤身は普段のものとは少し違う気がする。
もう一切れ、口に運ぶ。また溶けた。
目を瞠りカウンターの中を見ると、タイショーが微笑んだ。
「それは、赤身とトロのちょうど間くらいの身だからね。今日のは特に綺麗だ」
とろりとした味わいは正に至福の味で、口の中に幸せが広がる。
マグロだけでなくカツオやサワラ、アオリイカも食べ放題だ。どれも、美味しい。
その後はただ夢中で、サシミを食べた。
気が付けばサシミはなくなっていて、カミラと二人で空になった皿を見つめていた。
「タイショー、マグロは……」
名残惜しげな声を上げるカミラにタイショーは申し訳なさそうに頭を下げる。
俎板の上のマグロはいつの間にか消えていた。エーファとカミラの少女二人でマグロのサクを食べ尽くしてしまったようだ。
そう言えばお腹も一杯になっている。美味しいものを食べているときは、周りのことがあまり気にならなくなるらしい。エーファはただ、幸せだけを感じていた。
食材は結構な量があったはずだが、食べれば食べられるものだ。
「エーファ、ありがとう!」
ずっと食べたかったサシミが食べられて、カミラは満足そうだ。友達のカミラがノブの料理を気に入ってくれたのはエーファとしては嬉しい。
「タイショーもありがとうね。サシミ、とっても美味しかった」
「お口にあったようで良かった。また食べに来てね」
丁寧にもう一度礼を言い、カミラは夜営業前に帰っていった。美味しいものを奢り、自分も美味しいものを食べる。なんだか元気が湧いてきた。こういう日も、たまにはあっていい。
翌々日、古都は朝から生憎の雨模様だった。
春に降る雨は霧のようで、大気がじんわりと重い。
こういう日は自然と客足も鈍る。外でする作業は休みなので、人夫が昼食を摂らない。だから、昼営業でも空席が目立った。
夜になると雨脚は弱くなったものの、それでも客の数はほどほどだ。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
硝子戸を引き開けて入ってきたのは、イングリドだった。今晩はカミラも一緒だ。
「邪魔するよ」
薬屋師弟はカウンターに腰を落ち着けると、一息ついてから髪を気にし始めた。
雨に濡れてしまった髪を両の掌で挟んで絞るイングリドとカミラに、エーファはタオルを渡す。
「ありがとう、助かるよ」
干していた薬草の取り込みに手間がかかって、随分と濡れてしまったらしい。どうせ濡れたのならと二人してノブに何か食べに行こうということになったとイングリドが笑う。
「さて、それじゃあ私はレーシュを貰おうかね。肴は何か温かいものを見繕っておくれ。それと、カミラ、お前は何にするんだい?」
「私はサシミ!」
元気よく応えるカミラに、イングリドは表情を冷たくして言い放った。
「サシミはダメだよ」