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第1話

 水瀬悠人(みなせ ゆうと)には憧れの先輩がいる。

 黒崎詩織(くろさき しおり)。悠人が通っている大学の1つ先輩だ。

 綺麗な黒髪と吸い込まれそうな瞳。

 人柄も良くて、去年のミスコンではグランプリを取った。

 高嶺の花として彼女を見ているだけの人は多い。

 悠人もその1人だ。


「それで?悠人はいつ黒崎先輩にアタックするんだよ?」


 大学の中庭を歩きながら、親友の翔(かける)はニヤニヤと笑いかけてくる。

 昼休みの中庭は賑わっていた。吹き抜けで風通しが良く、ベンチには昼食を取る学生が並んでいる。


「茶化すのはやめろよ。僕があの人に釣り合うわけないだろ。住む世界が違うんだから」


 悠人は本気でそう思っていた。

 

 卑屈になってるわけではない。

 特別な才能があるわけではないし、人目を引くような容姿でもない。

 どこにでもいる普通の大学生だ。

 そんな自分が黒崎先輩の隣に立つ。

 それは彼にとっては夢のまた夢だ。


「あの人が高嶺の花なのはわかるけどさ、アタックしてみなきゃわかんないぞ?」

「いいんだ。僕は黒崎先輩を遠くから見てるだけで満足」

「こりゃ重症だわ」


 翔は呆れたように首を振る。


「それより早く食堂行こ。席埋まっちゃうよ」

「待てよ。そんな急がなくても空いてるって」


 少しだけ歩く速度を上げて、2人は中庭から食堂へ向かった。


 

 食堂は人で溢れかえっていた。ちらほらと席を探して歩く学生が見える。悠人たちは何とか空いているテーブルを見つけて、向かい合わせに腰を下ろした。


「ほら、席埋まりそうだったじゃん」

「いや、いつもはこんなに人いないって。今日がおかしいんだよ」


 悠人は食堂の入口に貼られていた、限定メニューのポスターを思い出した。人が多いのはそのせいだろうか。


「悠人、いつもそれ食べてるよな」

「食べやすくて美味しいんだもん」


 そう言って悠人はオムライスを一口食べる。


「翔だっていつもカレーライスじゃん。限定メニューとか食べないの?」

「食べてみたいけど、ああいうのってすぐ売り切れるじゃん。だったら食べ慣れてるこいつがいい」

「確かに、それはそうかも……」

 

 そんなことを話していると、2人のテーブルの前で誰かが足を止めた。


「あの、相席してもいいですか?」


 一瞬、悠人の動きが止まった。

 この声を聞き間違えるはずがない。最初に見えたのは白いスニーカーだった。悠人は視線をゆっくりと上に向けていく。そこにいたのは憧れの黒崎先輩だった。思わず目が合い、悠人は視線を逸らしそうになる。

 翔を見るとニヤニヤしていた。


「ど、どうぞ」

「ありがとうございます。おーいここ座れるよー」


 詩織の声に反応して、もう1人の女性が歩いてくる。

 同時に周りの学生たちの視線も集まった。

 周りの視線なんてどうでもいい。黒崎先輩が隣に座っても平常心でいなきゃいけない。

 悠人は詩織にバレないよう軽く息を吸って、吐く。

 緊張で小刻みに震える手を何とか抑え、心を落ち着けようとする。


「今日は珍しく学食が混んでて、困ってたんだ。ありがとう」


 隣には、笑顔の黒崎先輩がいた。

 憧れの人が、自分に話しかけている。

 それだけのことなのに、悠人は返事をしたくても言葉が出てこなかった。


「限定メニューのせいですかね。俺達もびっくりしました」


 そんな悠人の様子を察して、翔がフォローを入れてくれる。


「きょ、今日は……珍しいですよね。いつもならもっと座れるんですけど……」


 翔に続いて、何とか言葉を絞り出せた。

 悠人にとって、それは小さくても確かな一歩だった。

 隣の詩織は悠人を見て微笑んでくれた。


「そういえば、名前聞いてなかったね。私、黒崎詩織って言います」

「私は佐倉心春。詩織とは幼なじみなんだよ」


 詩織は軽く頭を下げ、心春は2人に向かって小さく手を振る。

 先輩たちの視線が自然とこちらに向いた。


「み、水瀬悠人です」

「成雲翔です。悠人の保護者やってます」

「翔に保護者されたことないが?」


 悠人は反射的に突っ込んでしまった。


「へぇ、保護者なんだ?」

「違います」

「否定早っ!」


 心春がわざとらしく驚く。詩織は静かに笑っていた。

 4人の空気が少しだけ柔らかくなる。

 まだ緊張はするが、言葉を詰まらせず話せそうだ。


「2人は何年生?」

「3年生です」

「あ、そうなんだ。じゃあ1つ下なんだね」


 黒崎先輩が会話を広げてくれる。

 自然に返せただろうか。


「先輩方は普段から学食使ってるんですか?」

「いつもは2人とも中庭でお弁当食べてるんだけどね。今日は詩織がお弁当忘れちゃって」

「ちょ、心春」


 悠人が詩織を見ると、少しだけ頬を赤くして心春に視線を向けている。

 

「あはは、ごめんごめん」


 悠人は話を聞きながらオムライスにスプーンを伸ばす。


「黒崎先輩ってなんというか、すごい完璧な人ってイメージがありました」

「意外でしょ。詩織って意外と抜けてるんだよ」

「この前もスマホを教室に忘れたり」

「心春、それ秘密にする約束だったじゃん」


 詩織の顔がさらに赤くなっていく。

 

「ミスコンのグランプリを取ったってだけで皆、詩織を特別な人って見るんだよ」


 住む世界が違うと思ってた先輩。

 

 悠人には今はただ、身近な女の子に見えた。


 4人はその後もいろんなことを話した。

 趣味や好きな食べ物、サークルのこと。ほんの少しだけ、知らなかった先輩のことを知れた気がした。

 


「そろそろ午後の授業が始まっちゃうね」


 悠人が腕時計を見ると、針は13時を指していた。


「本当だ。そろそろ行かなきゃ」


 先輩たちはカバンに手を伸ばし、立ち上がる。


「2人とも、今日はありがとね」

「こちらこそありがとうございました」

「水瀬くんもまたね。また話そ」

「ぜひ。すごく楽しかったです」


 詩織に名前を呼ばれた。

 悠人はそれだけで少しだけ胸が熱くなった。


 食堂を出ていく先輩の後ろ姿を見る。


「……どうだったよ。憧れの先輩と話すのは」

「どうだったとかじゃないよ。ちゃんと話せたかな」


 向かいに座る翔が、くすくすと笑っている。


「緊張してたにしては、話せてたんじゃないか?」

「そうかな」

「そうだよ。最初なんて声震えてたぜ」

「茶化すのはやめろよ…」

「ははは」


 翔は楽しそうに笑った。

 それにつられて悠人も口角が上がってしまう。


 いつもと変わらないはずのお昼が、少しだけ色付いた気がした。



「じゃ、また明日な」

「うん、またね翔」


 駅の改札前で悠人は時計を確認した。

 針は18時を指している。スーツを着た会社員、制服やジャージを着た学生がチラホラと見え、駅前は少しずつ街灯に照らされていく。


 翔とは家が逆で大体この駅で別れる。

 悠人は電車に乗り、空いている席に座る。


 通路を挟んだ向かいでは男の子と、母親らしき人が何かを話している。

 声は小さくて悠人には聞こえないが、2人とも笑っている。何を話しているんだろうか。


 そんなことを考えている間に最寄りの駅に着いた。

 改札にICカードを当てて通り、薄暗い帰り道を歩く。


『水瀬くんもまたね。また話そ』


 詩織の言葉が頭の中で何度も繰り返される。

 悠人の口角が自然と少しだけ上がっていた。

 変な顔をしていたかもしれない。チラッと周りを見る。

 人は少しだけいるが、誰も見ていない。


 騒がしい駅前から遠ざかるにつれて辺りは暗くなり、5月の暖かく優しい風が顔を撫でていく。


 アパートが見え、カバンのポケットから部屋の鍵を取り出す。

 2階へ向かって少しだけ暗い階段を一歩一歩上る。

 階段の途中の蛍光灯が消えていた。明日管理者の人に電話しよう。


 階段を上り終え、悠人は部屋のドアへ向かって視線を向ける。


 (ん?)


 ドアの前に誰かが座っている。


「あの……どうかされましたか?」


 悠人の声に反応して、その人はゆっくりと顔をあげる。


 茶髪のセミロングに透き通った瞳。耳には花の形をしたイヤリングを付けている。


 (……誰だ、この人?)


 その人は悠人を見ると立ち上がり、身体をこちらに向ける。

 視線は悠人の瞳を覗き、ゆっくりと口を開いた。


「おかえり、悠人」

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