77 ソバ屋の娘
かれこれ三十年も前のことになる。
その日。
私と妻はドライブを楽しんでいたのだが、どうもどこかで道をまちがえたらしく、車は山奥に迷いこむばかりとなった。
進むほどに道が狭くなる。
さらに曲がりくねっている。
カーラジオの電波も入らない。
腹は減ってくる。
雲行きは怪しくなる。
とにもかくにも最悪な状況だった。
そんなとき。
道端に「手打ちそば処」という看板を目にした。
私は迷うことなく、店先の駐車場に車を乗り入れた。
店は古民家風に造られてあった。
中に入ると、ワンフロアーの床には四人掛けのテーブルが五卓ほど。天井は吹き抜けで、中央にひとつだけ大きな天窓がしつらえてあった。
赤ら顔の若い娘がお茶を運んできて、私たち夫婦はそろって山菜ソバを注文した。
開かれた天窓から、薄明りが差しこんでいる。そしてそこからは、今にも降り出さんばかりの、どんよりと曇った灰色の空が見えた。
「雨が降り出しそうだな」
私は天窓を指さした。
「ほんと。でもあれって、どうやって開け閉めするのかしら? 雨が降り出したら、店の中が濡れちゃいそうだわ」
妻が首をかしげる。
「電動じゃないみたいだしな」
「ええ、電気のコードが見えないもの」
「なら、ハシゴだろ」
天窓までは六、七メートルほどあるのだが、そこまで行く手段がないのである。
「ハシゴなんてどこにもないわよ」
妻が店内を見まわす。
「じゃあ、長い棒を使うんだよ」
「そんな棒も見あたらないけど」
「なら、とんでもなく背の高いヤツがいて、ソイツが開け閉めしてるんだよ」
「また冗談を。たとえそんな人がいてもよ、店にどうやって出入りするのよ」
「こんな山奥だ。妖怪みたいなもんがいても、ちっともおかしくないじゃないか」
「じゃあ、その妖怪。店に入るときは、入り口を通れるぐらい小さくなるのね」
妻が冗談に乗ってくる。
「まあな」
バカ話で盛り上がっていると……。
「お待たせいたしました」
娘が盆にのせた山菜ソバを運んできた。
食事が終わる。
出口のカウンターで会計をすませ、店の外に出たところで、雨がポツポツと落ちてきた。
私は天窓のことが気になり、ドアのガラス越しに店の中に目を向けた。
娘が天窓の下にかけ寄り、天井に向かって両手を伸ばすのが見えた。
するとなんとしたことか。
娘の腕がスルスルと伸びて、手の先が天窓に届いたではないか。
娘は天窓を閉めると、なにごともなかったかのように、私たちが食べた食器の片づけを始めた。
「なんだったの、あれ?」
隣で妻の声がする。
妻も店内をのぞき見ていたのだ。
「行こう!」
私は妻の腕を取った。
雨のなか。
二人は走って車に乗りこんだのだった。
幻想などではない。
これは夫婦二人で見たことである。




