違和感
並木道を抜けようやく正門へ戻ってきた伯はそれより広がる街並み心奪われていた。
依然としてかすかに霧がかっているビルやマンション。それらを区分するかのように敷かれた車道、歩道、横断歩道。それに従って進み、止まる車、自転車、バイク。そして無秩序な空を縦断する飛行機。
毎日目に映るありふれた都市の風景。だが、伯はかつてないほどこの被造物に魅力を感じ、愛着を覚えていた。
それを遮るように一つの影が伯の前へ現れる。
「――――よ、 伯。やっときたな」
「……式部先輩……?」
被った帽子の鍔を持って、ニヤリと笑みを浮かべたのは伯と同じく弐路学園高等部に在籍し生徒会副会長を務めている式部菖。伯より一つ年上だが家が近かったこともあり小学生からの付き合いで、一人っ子の伯にとっては頼れるお兄さんのような存在だった。
残念ながら小学校卒業を機に式部が引っ越してしまったため交流は途絶えてしまっていたが、偶然にも同じ学校に進級し間もなく廊下で再会を果たした。伯が生徒会に入ったのも彼からの勧誘があったためで、現在では良き先輩後輩として持ちつ持たれつの関係を築いていた。
式部も教室で会った花代同様登校してきたにもかかわらずセーターの襟元からシャツを覗かせた私服姿。
伯はある程度の離れた位置で足を止め、待ち構えていたという先輩を無意識に警戒する。対する式部は見知らぬ土地でばったり知り合いに出くわしたような調子で伯に問いかける。
「ここでなにしてるんだ?」
「……え、っと……」
「あ、わかった。わからないところを質問しにきたんだろ。今は自宅学習中だからな。そうでなきゃここに来るはずがない。さしずめ教科は数学か英語ってところだな。それくらいなら俺に言ってくれれば喜んで教えたのに」
「あ、その……」
わざとらしく人差し指を額に当てて考え、子どものような無邪気さで言葉を続ける式部。だがそこには全てを見通して自己の思い通りの筋書きへ導こうとする威圧的な態度が含まれていた。
違う、と伯は訂正しようとするが、無意識に湧き上がってきた力に支配されて言葉を飲み込む。
明確な理由などわからない。だがいつの間にかここにいて、ある物を持っている、という真実を話してはならない。そう脳が叫び、警鐘を鳴らすのだった。
ならば自分が取るべき行動は一つ。適当に話を終わらせ、式部の後ろで活気をみせている街中へ一刻も速く逃げ込むのみ。
「……そうなんですよ。ちょっとわからない文法があって。それを教えてもらうために学校へ……」
式部に合わせて笑顔を取り繕いながら伯は言葉をつないだ。誤解したままでいてくれ、と強く願いながら。
けれども、そうか、と呟くその表情には学校生活では感じたことのない冷たさを秘めていて、笑っているのに向けられる瞳は真剣そのもの。
「なら、荷物はどこだ? まさか質問するのに手ぶらで来たのか?」
「そ、それは……っ」
「忘れた、とか言わないでくれよ。寝ぼけてるのか? あ、寝てるんだったな。悪い」
自分の言葉に吹き出す式部。何が可笑しかったのか、伯は分からない。いや、式部が笑ったことにすら気付けないほど伯は切羽詰まっていった。
惚けているが式部は確実に知っている。自分が質問目的でここにいるのではないと。
――奪われてはならない大切な物を所持していることを。
伯は懸命に切り抜ける方法を思索する。だが、相手は生徒会副会長をつとめ三学年のトップを争う成績優秀者の一人。すでに先輩に流れがある中、彼を言いくるめる自信と度胸など伯にあるはずもなかった。
焦燥にかられ、伯は冷静さを欠いていく。そんな彼に式部は優しい声色で続ける。
「はは、笑ってる場合じゃなかった。さて、単刀直入で申し訳ないが……お前が唯一持つ“それ”を渡してくれないか?
そう、ズボンの右ポケットに入ってるそれだ」
「……なぜですか? これは、僕の物です。僕が教室に忘れていた物なんです。今日はそれを取りに来て……なので、いくら式部先輩の頼みでも無理です」
「お前の物、か。その通り、それはお前のであって俺の物ではないさ。けどな、それを持つことはできない。持っていてはいけないものなんだ」
「だから、どうしてっ?」
強く伯は抗議する。抵抗する。
両手で大切な“それ”を守るようにポケットの中でしっかりと握りしめて。
「それは人の夢を叶える驚異的な力を秘めている。が、時として脅威にもなり、人の運命を狂わせ、堕落へと陥れる危険なもの。そのことを理解せずに所持しつづけることはお前にとって何の得もない。むしろ身を滅ぼす禍となるだけだ。
例えるのならそれは金銭のようなもの。労働と引き換えに得る金の重さを十分知っている大人は思わぬ偶然で大金を手に入れたとしても大半の奴が様々な事態を考慮してうまく活用することができるだろう。
だが、一千万、億を終える額の金を手にしたのがまだ人生経験の浅い子どもだったら? ……行きつく末は言うまでもないな。
お前が持っている“それ”も同じだ。湧き上がる感情を今はまだ理解せず、逆にその欲望に飲み込まれようとしている。
一度甘い蜜の味を知れば、お前は二度とまっとうな生活には戻れないだろう。そうならないように俺たちが預かる。お前を守るために。伯の人生をこれからも続けるために。だから――」
式部は右手を突き出して歩み寄ろうとするが、それを遮るように衝撃と叫び声が空間を震撼させる。
音の発生源は伯の後ろ。
「!!」
目を見開く式部につられて伯も振り返ると、目に飛び込んできたのは見慣れた校舎でも霞がかった空でもない。人の数倍はあるだろう鋭利な牙を持った巨獣が無抵抗に飛ばされ宙を舞う影。そしてそれは伯を巻き添えにするように真上から落下してくる。
正直言って何が起こっているのか全く分からない。ただ、このままでは身の安全が保障されない、と察するほどには伯は平静を保っていた。
逃げろ、と切羽詰まった先輩の声が伯の耳に届く。しかし、伯はその言葉に耳を貸す様子はなく、無意識のうちに目の前で手を合わせて痛みや物が当たるその時をじっと待つ。
これが最期というのならもっと好きなことに精を出しておけばよかった。勉強しておけばよかった。友達とばか騒ぎしておけばよかった。後悔ばかりが頭をよぎる。
だが、伯の本心は違っていた。
怖い。嫌だ、終わりたくない。
誰か助けて――。
「うわあぁぁぁぁぁっ!!――――」
言葉にならない想いをすべて吐き出す伯。
怒り、苦しみ、悲しみ、後悔、恐怖、悲嘆。
現実逃避するように伯はぎゅっと目を閉じる。
完全に視界が暗闇に包まれる直前。
言葉を紡ぎながら伯と巨獣の間に割って入る人の姿を見た気がした。
――――
「わあぁぁぁっ!」
がばっと体を起き上がらせる。
激しく波打つ脈。首筋を流れる汗。
初めに目に映ったのはハンガーにかかった学ラン。巨獣も先輩も学校も街並みもそこにはなかった。
改めて周りを見渡せばやはりそこは自分の部屋で、使用済みのタオルと共に伯はベッドの上にいた。
「夢、だったのか……」
額に手を当ててぽつりと呟く。
充電しないまま放置していた携帯で時刻を確認すると午前零時過ぎ。眠りについた午後九時過ぎと異なり下からテレビの声や食器を洗う音が聞こえてきて、その生活音が一層伯を安心させた。
夢に見た内容が鮮明に覚えているからか、妙に頭は冴えていた。
伯は何が現実か確信を得るために一度机に座り、放置していた鞄を開く。それから手帳を取り出し栞紐をしていたページをめくると中旬から下旬にかけてびっしりと予定が記入された三月の暦が現れた。
「……やっぱりこっちが現実だよなぁ……」
信じたくない予想が的中し一人伯は落胆する。
それから朝に向けて教科書とノートを取り出し渋々提出物を仕上げて簡単に小テストの勉強も済ませた。
慌ただしかった一階は両親が寝床につき、静けさを取り戻していた。時刻は間も無く一時十五分。一時間集中した為か、再び睡魔が現れ始めている。
明日も学校がある。しかも朝課外から苦手な英語ときた。恥を晒さないためにも休息を取り、余裕を持って登校し課外前に見直しをすべき。しかし、伯はベッドに横たわろうとはしなかった。
短針のない時計、授業のない学校、心奪われる街並み、そしてそこに現れた同級生と先輩。
時間が経ってもすべてが現実のようにくっきりと思い出せる、あの夢が頭から離れない。
「……そうさ。あれはただの夢。出てきた場所も人も感情も感覚も脳の処理に過ぎない。何が起こってもずっと続くわけじゃない。
こっちが本当で目覚めれば終わりだ。何も怖がる必要はない、大丈夫……」
一体何に怯えているのか。瞳を閉じて意識を沈めることに躊躇っている姿を自嘲する。
そして自分の考えが正しいと証明するように伯は電気を消して布団を被る。
変に気を張ってなかなか寝付けない。だが、時間とともに睡魔は強くなり気付かぬうちに眠りの世界へ落ちていた――。




