第8部:レズもホモも全世界的にOKにすればいいと思うのん
「結局は、そこなんだよ」
先輩は、グラスの中身を口に含みながら言う。
「私は自称できる程度には同性愛者だが、それを世間は〝変人〟と称する。『こういう愛もある』、『別に否定はしない』と人は言うが、それは所詮共感ではなく同情でもなく、ただの〝理解〟でしかないんだ」
つまりは、と。
「許されていないんだ――私が愛を語らうことは、ね」
「…………」
「私は、愛するヒトを自由に愛したい。だけど、その声は相手に届いても、響かせることはなく、結果として、私の愛が叶うことは無いんだ」
「世の中には、先輩を愛する女性もいるのでは?」
「それにしたって、ごく低い確率でしかないし、私のちっぽけな人生で出会えるかどうかなんて高が知れてる」
不条理極まりない。
そう言って、先輩はグラスを口元に傾ける。
アルコールと、柑橘類の強い芳香が言葉にする端から漏れていた。
「不条理極まりない世界だよ、ここは。努力は報われず救いを求めても救われず、どこの誰とも知れない神様を信じれば弾圧され報復すればテロ扱い、誰もが誰かを裏切って笑って見捨てて力は言葉に負けて愛は何物にも勝てなくて自由という名の不自由が横行して完全性を求めた社会制度は実は穴だらけで幸福を願っても不幸が蔓延し全てには裏があって表なんてほんのわずかしかない、小さい子は成長し老い死に貧困は悪で富豪も悪で中庸はどっちつかずで政党なんて無くて逃げ場も何もかもが無くてすべては誰かのモノで時は遡れないどうしようもない世界だそして私は今何のために生きているんだろうか?」
喉を潤し、唇を湿らせるために先輩は酒を飲む。
だけど、その度に言葉は輪郭を失くし、ぼやけてしまう。
「どうしてだろう、どうして誰かは死んで新しく生まれるんだろう老人が増えて子供が減ってしまうんだろう人に害悪な微生物は敵視されて排除され新たな物質を作り出すくせにその分解を殺している細菌に押し付けて私たちは健全と呼ぶ不健全さで笑って暮らして大衆に迎合できない人間を排除して社会的に殺しても平気で生きていて殺しても生きていて盗むことを悪徳としながらも自分たちの搾取は当然として性欲は悪で情欲は悪でそのくせ愛は正で暴力は悪なのに経済的社会的な死には無関心で人々は分かり合えなくて言葉で殺し合って麻薬は悪で煙草も悪で健康に害悪だと排除しようとするセックスも悪だけど子供が少ないことは気にするならばセックスは正義じゃないのかああああセックスセックスセックスセックスセックスセックス」
ぶつぶつ、ぶつぶつと。
猫に触った時の私の首筋の皮膚のように。
先輩は意味をなさない言葉をただただ紡いだ。
紡がれるそれは形を成さない、服どころか雑巾にも満たないそれは、糸くずに過ぎない。
「……嵯峨根ぇ、」
悲しいよ、と先輩は言った。
「悲しいよ、寂しいよ」
憂鬱に暮れ、悲嘆に触れ、先輩は私へと肩を寄せて来た。
「すまない……少しだけ、このままでいさせてくれ」
そう言って、俯いて、私のジャケットの胸に顔を埋めてきて。
「別に構いませんよ、先輩」
私は、ただ、受け入れた。
私と先輩のそれは、何度となく繰り返してきた行為だった。
先輩は、普段は理知的を装って笑うけれど、時折その仮面が剥がれて子供のように取り乱すことがある。
そちらが本性なのだろうと、私は考えている。
「……いつものヤツか?」
「おそらくは」
小さい声でマスターに問われ、私は頷いた。
「肩肘張って生きてる奴は、大変だな」
「それがかわいいんじゃないですか」
寂しがり屋で、甘えたがりで、それでも嘘を吐いて。
誰かを求める目的にまで嘘で覆って、笑い飛ばして。
そうでもしないと、このヒトは、泣きつくことすらできはしない。
それは、先輩に限らない、ヒトの性だ。
ヒトならば誰もが持ちうる悪性の、悪の性の塊の。
誰もがどこかで折り合いをつけて生きていくものだけれど、それが下手だったり、そもそもできなかったりすると、こうなってしまう。
仕事が大変なのか、それとも他の悩み事があるのかは知らないけれど。
このヒトは、それらの全てを貯めこんで、放出する術を誤ってしまうのだ。
「少し、こいつを任せていいか?」
「いいですよ」
「ありがとう……そろそろ妻を休ませないといけないからな、向こうの相手をしてくるよ」
「奥さん……?」
首を傾げると、ほら、とマスターが顎である方向を示す。
そこには、数人のサラリーマンに酒を振る舞う女性がいて、
「結婚、なさってたんですか?」
てっきり、バイトの人かと思っていたのに。
「まぁ、な。こうして自営業で店をやってるオレについてきてくれる、いい女だよ」
言って、マスターは笑って。
その笑顔は、幸せそのものを体現しているようで。
「じゃあ、任せたよ」
マスターは奥さんの方に歩いて行って、何らかの会話をして奥さんを下がらせた後、サラリーマンと向き合う。女性が去ってスーツ姿の男の人たちは不満そうだったけれど、マスターは愛想よく何かしらの冗談でも言っているのか、それらは笑顔に変わり、笑い声であふれた。
「……楽しそう」
いつの間にか、先輩は私の胸元で眠っていて。
優しくその頭を撫でながら、私は男の人たちを遠目に見ながら、カクテルを飲む。
甘く、柔らかい感覚が舌を包む。
甘い現実が、目の前に存在する。
恋愛主義者が介在せずとも成り立つ、微笑ましい光景。
その中で、どうしてか。
私の胸は、湿っていた。