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第9部:愛したくないから、傍にいるだけ


 嶺倉先輩が目を覚ましたのはそれから二時間後、閉店まで三十分のあたりのことだった。


「ん、ん……?」


 もぞもぞと動いた後にカウンターテーブルから顔を上げた先輩は、所在なさげに周りを見回した後に傍らでトローン・キャットをちびちびと飲む私を視界に収める。


「寝て……しまっていたのか、わたしは」

「熟睡してましたよ」


 事実をありのままに伝えるも、先輩は納得できないとばかりに首を傾げる。


「おかしい、私は嵯峨根の胸を借りて眠っていたはず。それなのに、テーブルに移されても気づかなかったのか……いや、普通の女の子の胸とは違うことにすぐ気づいて起きるはず……つまり、こうして気づかなかったと言うことは」

「それ以上は言っちゃいけません」


 反射的にでこピンを先輩の額にかましていた。


「いてて」


 パチン、と軽い音を立てて指で弾かれた部分を摩りながら、先輩は私を見て、


「嵯峨根は、テーブルと同じくらい平坦だったと」

「やめなさいと言ってるでしょうが」


 ふざけ半分に更なる追撃に身を乗り出すも、ひらりと先輩は椅子から飛びのき、


「少し、お手洗いに。顔を洗ってくるよ」


 言って、こちらに背を向ける。


「その方がいいですよ」


 私は、その背に語り掛ける。


「特に、目元――赤くなっていますから」

「……ご忠告どうも」


 苦笑交じりに。

 ひらひらと手を振りながら、先輩はトイレに姿を消す。


「ん? 嶺倉はどうした?」


 入れ違いのように、店の奥に引っ込んでいたマスターがやってきた。

 ちなみにサラリーマンの方々や、途中に姿を見せたお客さんは既に帰っていて、お店にいるのは私と先輩、マスターだけだ。


「先輩は、顔を洗いにトイレに行きましたよ」

「あ……あぁ、そっか」


 それからしばらくして、濡れた手をパタパタと振り回しながら先輩が戻ってくる。


「すまないな、マスター。世話をかけさせて」

「いつものことだろう、もう慣れたよ。これからどうする? 閉店前に気つけに一杯飲んでいくか?」


 マスターが尋ねると、いいや、と先輩は首を振る。


「明日も仕事があるからね。もう帰らせてもらうことにするよ」


 それと、と先輩は付け足すように、


「ありがとう、嵯峨根……君にも世話をかけさせてしまって」

「……別に。いつものことですから」


 お詫びにと先輩は私の分も含めて代金を支払ってくれて、私と一緒に外に出る。

 店から出て、細い道を歩き、いくつかの角を曲がる。

 大通り、開けた視界にはネオンのきらめきがあって、やたら眩しくて、ヒトが多くて、反射的に目を逸らしたくなった。

 それから、同じ帰り道を私と先輩は歩いた。

 二人で、並んで歩いた。


「――先輩」


 しばらくして、一緒に歩く人に、私は話しかける。


「何だい?」

「もう、大丈夫ですよ」

「んー……?」

「誰も見ていません。たくさんヒトはいますけど、誰も私たちなんて見ちゃいませんよ」

「……どういうことだい?」

「しらばっくれないでください」


 あくまで知らぬフリを通そうとする先輩に、私は言う。


「顔と挙動を見れば分かります。立っているのも辛いんでしょう?」

「…………」

「肩くらいなら、また貸しますよ」


 言うと、


「……そうか」


 すまない、と。

 言って、先輩は私にもたれかかる。

 支えながら、私は先輩と一緒に歩いた。

 少し歩きにくかったけれど、確かな温もりはそれだけで歩く糧になった。


「それにしても、よくわかったね」

「伊達に、一年近くお付き合いをしていたわけじゃありませんから」


 顔を洗うついでに少し吐いてきたのだろうか、口を漱いだ程度では消えない酸っぱい匂いの吐息が、顔のすぐ横から漂ってくる。

 肩にくる感触は重く、振動から感じる歩調も乱れているのが分かった。

 嶺倉先輩は、酒が好きなくせに酒に弱い。

 すぐ酔っ払って寝る上に悪酔いの影響もすぐに出てくる体質のくせに表に出しらたがらない。

だから、傍にいる人間が察してフォローするしかないのだ。


「……嵯峨根」

「何ですか?」

「もう一度、付き合わないか?」

「……今、なんて言いました?」


 何度でも言うよ、と先輩は応えて、


「もう一度、一緒にならないか? よりを戻さないか?」

「嫌です」


 即答した。

 即答、せずにはいられなかった。


「君とは、合う気がするんだ。相性とか、性格とか、体とか、そういうのが」

「嫌といったはずですよ、先輩」


 咎めると、そうか、とだけ言った。

 言って、憂鬱な表情――顔は伺えないけれど、たぶんそんな表情だろう――で、俯いた。


「理由」

「え?」

「理由、訊いてもいいかな?」

「……はぁ」


 一拍の間の後。


「先輩を愛したくはなかったから、です」


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