09
語り終わった後、雪はしばらく何も言おうとしなかった。俺も、何も言えないまま。テレビだけが、空虚な音声を吐き出し続けていた。
どれくらいそうしていたのだろう。気まずさすらもなくなってしまったような空間で、俺と雪は顔を合わせないようにテレビへと目を向けていた。
「……仁志君はさ、悪魔にそそのかされちゃだめだよ」
ふっと思い出したように、雪が呟く。
「あたしが言わなくても、仁志君なら大丈夫だと思うけど。仁志君は、あたしの誘惑にも引っかからなかった。彼女を生き返らせる道を選ばなかった。だからこの先も絶対に、甘い言葉に引っかからないでね」
それは今まで聞いたどんな言葉よりも、重みのある言葉のようだった。俺が無言で頷くと、雪は頬を緩ませる。雪解けのように、自然な笑みだった。
「まー、あたしなんかに言われたくないだろうけどね」
「え?」
「あたしなんて悪魔の言葉にそそのかされて、――自分の過去が知りたくて、いまだに人を殺し続けてるんだから」
「……それは」
言葉に詰まる俺を見て、雪はいつものように柔らかく笑う。死んだ彼女に似ている顔。けれどそれは、彼女ではなく雪の表情なのだと、俺はようやく分別できていた。
雪は今までで一番長い溜息をつくと、パーカーの袖でごしごしと目元をぬぐい、ぱっと顔をあげた。そして、ベッドを指さす。
「それじゃ、そろそろ寝ようか仁志君!」
「え? いや、俺まだ眠くねえよ」
「――ううん、もう寝るんだよ。仁志君は」
そう言うと、雪は勢いよくこちらを振り向き俺の右手首をつかんだ。見た目以上に強い力に、俺は驚く。振り払おうとするが、今度は両手で抑え込まれた。雪の首に巻かれた白いマフラーが揺れる。
「な、なんだよ」
「……あたしの能力、覚えてるかな? 人を蘇らせるだけじゃ、ないんだよ」
そう言われても理解できない俺は、雪の手をほどこうと試み続ける。だが次の瞬間、雪の左手は、負傷している俺の拳を思いきりひっぱたいた。久しぶりに受けた衝撃と痛みに、俺は思わずうなり声をあげる。その様子を見て、雪は「ごめんね」と呟いた。しかし、その手を緩めようとはしない。
「――あたしの能力は、人を蘇らせるだけじゃない。蘇らせた後、その人間が死んだという『事実を消去』する能力もあったのを覚えてる? ……記憶を操作できる、って言えば分かりやすいのかな?」
俺は今度こそ、その言葉の意味を理解した。ここに来る前、雪が言っていた言葉の意味も。
『明日にはもう、仁志君だってあたしのこと忘れてるよ』
「……雪まさか、お前」
「ごめんね仁志君。これもあたしの仕事だから」
「そんな仕事頼んだ覚えはねえよ! 離せ!」
「仁志君ならね。あたしのこと忘れちゃっても大丈夫だよ。きっと、悪魔の誘いになんて乗らない」
「そういうこと言ってんじゃ、ねえ……!」
刹那、俺の視界が真っ暗になった。あたたかく、湿った感触。雪の手の平に両目を覆われているのだと察するまで、それほどの時間はかからなかった。
「……仁志君の彼女さんは、幸せ者だなあ」
耳元で囁く声は、明らかに震えていた。
「いつまでも想っていてもらえて、大切にしてもらえて、――忘れないでいてもらえて。本当に幸せな人。だからこれからもずっと、彼女さんのこと、忘れないであげてね」
「っ……お前のことだって、忘れるもんか」
「あは、浮気は駄目だよ?」
雪がかすかに笑う気配。それでも彼女が笑えていないだろうことは、容易に想像できた。なのに俺は、抱きしめてやることすらできないんだ。
それに、と雪は付け加えるように呟いた。
「――世の中にはね。知らない方がいいことだって、沢山あるの」
じゃあね、仁志君。楽しかったよ。
その声が聞こえるのと同時に、俺は意識を手放した。
自宅以外の場所に泊まると、目が覚めた時、ほんの一瞬迷子になるのは俺だけだろうか。
見覚えのない風景を見て、『ここはどこだ?』と考え、ようやく自分がホテルに泊まったことを思い出した。……そうだ。彼女を殺した犯人を見つけてぼこぼこにして、駅前の安いビジネスホテルに泊まったんだった。そこまで考えた俺は次に、『なぜ自分は床で寝ているのか』について考察した。こちらの方は、全く持って覚えがない。
チェックインして、部屋の隅に置かれた椅子に腰かけて……疲れて眠ってしまったのか。しかもバランスを崩して、途中からは床で寝ていたと。
わざわざホテルに泊まったのに、シャワーも浴びずに固い床の上で眠るとは。ものすごく残念な気持ちを抱え、俺は上半身を起こした。つけっぱなしにしていたテレビは、朝の天気予報を垂れ流している。――本日は、春らしく気持ちの良い一日が過ごせるでしょう。
「……大学、は、さすがに行きたくねえな。その前に間に合わねえし」
テレビの左上に表記されている時刻を確認して、俺は溜息をついた。同じ大学に通っている森野に電話して、代返を頼もうか。いい加減、怒られそうだが。
とりあえずシャワーだけでも浴びようと立ち上がり、改めて部屋を見て首を傾げた。天井を見た時から、一人で泊まるには広い部屋だと思っていたが、やはりというか部屋にはシングルベッドが二つ設置されていた。
――俺はどうして、ツインルームに泊まってんだ?
自宅からここまで、一人でタクシーを飛ばしたはずだ。そのあと犯人をボコボコにして、ホテルまで直行してきた。誰かとともに行動していた覚えは、ない。
俺は頭を掻きながら、手前にあったベッドに横たわった。相当な安物かつ年季物らしいベッドは嫌な音を立て、それでも壊れない。これまた固い枕に顎を陥没させつつ隣を見ると、隣のベッドの上に何かが置かれているのが見えた。
彼女の白いマフラーだ、というのはすぐに理解できた。自分が置いた覚えはないが、ここにあるということは俺が置いたのだろう。
――亡き彼女を想って、ツインルームに宿泊した。ここ数分で収集できた情報をもとにすれば、そう考えるのが一番俺らしくて、妥当だった。だからこそ彼女の遺品を、ベッドの上に置いたのだろう。
「……けど」
何故か、何かが引っかかる。重要なことを、大切なことを忘れてしまったような、ぽっかりと穴が開いてしまったような感覚。それを埋めるために、俺は他の手掛かりを探した。しかし、よっぽど慌てていたのか、携帯と財布しか持っていない。遠方まで来た割に、着替えすら持っていなかった。
変わったものといえばせいぜい、ジャンパーのポケットに入っていたピンク色のポケットティッシュくらいだろう。『高収入』をうたう、明らかに女性をターゲットとした何の変哲もないポケットティッシュ。けれどなぜかそれだけが、特別なもののように感じられた。
どこででも配っていそうなそれを、俺は痛んだ右手で大切に握りしめた。
何故なのかは分からない。
けれどこれはきっと、一生捨てられないんだろうなと思いながら。