08
――昔々。あるところに、父親と二人で暮らす女の子がいました。母親がいない寂しさは感じても、不自由なことなどない生活。女の子はすくすくと、育っていきました。
大人になった彼女は、従兄に恋をしました。
従兄の男は、誰が見ても『軽い男』でした。高校生の頃は地元で有名なヤンキー。高校を卒業すれば音楽家を名乗るフリーター。暴力団とつるんでいる、変な薬をやっている、あらゆる女に手を出しているという噂もありました。けれど、恋をした女の子には、そんな声が聞こえるはずもありません。
彼女は男の言うまま、奴隷のようにつくしました。
そうして彼女は、男との子を、孕みました。
俺は、雪の腹に目をやった。彼女は俺の視線に気づいて笑う。
「あたしは意気揚々と、その男の元へ向かった。馬鹿だからね、結婚してもらえると思ってたの。今思えば、あいつのどこがよかったのかさっぱり分からないんだけどさ。まあ、恋は盲目ってやつよね」
「……結婚、しなかったのか」
「それどころか、堕ろせって言われたよ」
目の前にその男がいたら、間違いなくぶん殴っている。雪はえへへ、と力なく笑うだけだ。
「お前なんかただの『便器』に決まってるだろ、だって。酷い言い方してくれるよね。……酷い男につかまったことか、子供を堕ろせって言われたことか、酷い言い方されたことか、それでもまだ彼のことをあきらめきれない自分の馬鹿さ加減か。――どこに焦点当てたのかわかんないけど、とにかく悲しくって、泣きながら家に帰ったよ」
「……父親に相談は?」
「できるはずない。ただでさえ、男と付き合ってることを隠してたんだから。それがいきなり妊娠したなんて、言えるはずないでしょ? だから、部屋で一人で泣き続けたよ。……誰にも、相談できなかった」
語尾が震え、雪はふう、と息を吐いた。
「それがさ。堕ろせって言われた翌週に、その男の死体が発見されたの」
「……え?」
「――心臓麻痺だったみたい。他殺の線は無し。死体も確認したけど、それはもう綺麗なもんだったよ」
タイミングがいいのか悪いのか、なんだか出来すぎてるでしょ、と雪は呟いた。確かに、堕ろせと言った翌週、男が死ぬというのは出来すぎているかもしれない。けれど、
「それは、お前のせいじゃないだろ」
「どうかな。……でもさ、ここからあたしの馬鹿っぷりが発揮されるんだ」
――男の葬儀に出席してから三日三晩、女は泣き続けました。
お前は遊びだった、子供は堕ろせ、お前は便器だった。それだけ言われたはずなのに、それでもまだ男のことが好きだったからです。子供がいれば、家族になれば、きっと男も変わってくれたに違いない。女は、そう信じていました。
もう一度やり直せればいいのに。――彼が、生き返ればいいのに。
そう思った、時でした。
『あの男を、生き返らせてやろうか』
そんな声が、聞こえてきたのです。
女は、自分の部屋を見渡しました。父親はもちろん、自分以外は誰もいません。
しかし、声の主は確かに、女に語りかけました。
『お前の望み通り、男を生き返らせてやろうか。その代わりに、対価をもらう』
「たいか……?」
『お前が「顔」も「名前」も知らない人間の命、一人分だ』
「それって、お前の……」
絶句する俺に、雪は微笑む。
「あたしね、本当に馬鹿だから、人のことなんて考えないんだ。彼が生き返ってくれれば、自分の知らない人間が死んだって構わないと思った。彼が生き返って、子供を産んで、家族三人で暮らして。そしたらきっと幸せになれるって、どうしてかそう思い込んでたんだ。だから、契約したの」
そうして彼は生き返り、雪が『顔』も『名前』も知らない人間が一人、死んだ。
「……さて、ここで質問。あたしの自分勝手な契約で、いったい誰が死んだと思う?」
「え? それは、お前だって知らないんじゃないのか。だって、犠牲になったのは、お前が『顔』も『名前』も知らない人間だったんだろ?」
「そうだよ。……でも、あたしはその人を知ってた」
雪はそこで言葉を切ると、自分の腹にそっと手を置いた。
「あたしはその人の存在を知っていて、――けれどその子の『顔』も『名前』も知らなかった。もう二度と、知ることもできない。……あたしの、せいで」
彼女の言葉と、涙。それが何を意味するのか、国語の苦手な俺にでも理解できた。
死んだ男を蘇らせ、子供と三人で暮らす。そのために彼女は契約を結び、対価として子供を――『顔』も『名前』も知らない胎児を、失った。
「本末転倒とは、まさにこのことだよね。結局、あたしのもとには馬鹿な男だけが戻ってきた。めでたくもなんともない話でしょ。そそのかしてきた『声』もうまいこと言うよね。顔も名前も知らない人間なんて言い方されたら、遠い異国の人間のことかと思うもん」
彼女は肩を落とし、首を傾けて笑う。失ったものに、手を当てたままで。
「……でもね。この話はこれで終わりじゃない」
「え?」
「あたしだって、生まれた時はごく普通の人間だったんだよ? 人の家に侵入したり誰かを生き返らせたり、そんな能力持ってなかった」
「それじゃあ……」
話の続きを察した俺に、雪はうなずいた。
「声の主――悪魔と契約したから、だよ。悪魔と契約した人間はね、悪魔になるんだって」
俺の彼女ならよく知っていそうな話だが、あいにく俺はその手の類のものは信じていない。……いや、信じていなかった。雪に出会うまでは。
「……悪魔になったら、そういうことができるようになるのか?」
「多分ね。あたしの場合、あたしが契約した内容と同じようなこと――誰かを生き返らせるだとか、そういう能力が手に入った。それからね、……今話してた昔話、いつのことだと思う?」
「いつのことって……」
「もう三十五年以上、前のことなんだ」
言われて、俺は雪の顔を確認してしまう。どう見ても、三十歳は超えていないように見える。なのに、今の話が三十五年以上前の話?
困惑している俺を見て、雪は苦笑した。
「不老不死ってやつ、だよ。だから言ったの、年齢なんてもう分からないって。あたしの容姿は、男に『便器』扱いされてた時となんら変わり無いんだ。――最初の三年くらいかな、死ぬためだけに労力を使ったけど、すべて徒労に終わった」
死ぬために何をしたんだ、とは聞けなかった。
雪は苦笑すると、「話があちこちに飛んじゃうんだけど」と前置きし、続ける。
「馬鹿な男を蘇らせたときにね、その男が妙な事を言ったんだ」
「妙な事?」
「『俺に近づくな。――あいつが、××が、俺のことを殺したんだ!』」
「××?」
それは、聞き覚えのない人物名だった。恐らくは、女の名前だろうか。
――××に殺された。
けれどその男は、心臓麻痺で死んだはずなのに。
「どういうことだ?」
「実はね、まだはっきりとしてない。あたしもその××っていう名前に覚えはなかったし、男の方は混乱というか錯乱状態で、何を話してるのかさっぱり分からなかった。けれどどうも、男には『死ぬ前』の記憶もちゃんと残ってたみたい」
「死ぬ前……」
「そう。悪魔と契約したあたしはもちろん、蘇ったその男も、『自分が一度死んだ』という事実を知っていたんだ。そしてその男だけは、自分の死の真相を知っていた。自分がどうして死んだのか、はっきりと覚えてたの。――××が来る、殺される、俺から離れろ気持ち悪いって、壊れた人形みたいに繰り返されたよ。何を訊いても答えは一緒だった」
「それって……」
「××。あたしが忘れてしまってる人物が、もう一人いるはずなんだ。この物語には」
壁の向こう側を透かすように見つめながら、雪はそう言った。
××。男以外、誰もが忘れている人物。
「誰なのかは分からない。どんな人物で、あたしとどう繋がっていたのかも知らない。けれどきっと、大切な人だったと思うの」
「……その人間を、探してるのか」
「そう。――子供を失って不老不死になってさ、途方に暮れているあたしに、声の主がまた囁いてきたんだ。『再生の能力を使って、あらゆる人物と接触しろ。誰かを殺し、誰かを生かすことを生業としろ。そうすればいつか、お前の知りたがっている人物にたどり着く』。……あの悪魔の言うことだから、どこまでが本当かは分からないけれど。けれど、少しずつ××に近づいてるんだって信じるしかないの」
あたしにはもう、その××しか残っていないから。雪は苦笑した。
「ねえ、仁志君。なんでもいいんだ。××って人物のこと、何か少しでも思い当たる節はない? 本当に、なんでもいいから」
悪魔の言うことが本当なら、もしかしたら俺も××と接触しているのかもしれない。ほんの少しだけ期待を込めた雪の目。それを見てまた、脇腹の古傷が疼く。
夜中の河原。震える同級生が持ってきたナイフ。――どうして、あの時のことを思い出すのだろう。
「……悪い。なんも思い出せねえよ」
俺が謝ると、雪はふるふると首を振った。「なんせこちとら不老不死だからね、時間はいくらでもあるんだ」――そう笑う雪に、俺は問いかける。
「お前が契約して蘇らせた男は? 今、どうしてんだ」
錯乱し、殺されると繰り返した男。そいつならすべてを知っているはずなのに、どうして聞き出そうとしないのだろう。
――あたしには××しかいない。そう言い切った雪は、すうっと目を細めた。まるで、
「……あの男、今度こそ生き返ってないといいけどね」
それはまるで、悪魔のように。




