07
殴った相手に最低限の応急処置を施して、俺は警察に通報した。必要なことだけを説明して電話を切り、男の背負っていたリュックを漁る。雪の言っていた通り、包丁とロープが入っていた。包丁には若干、血が付着している。恐らく、刺された彼女の物だろう。
「……こいつが犯人だっていう証拠がないから、警察に行けないんじゃなかったのか?」
「ああ、その話は嘘だから。その包丁、立派な証拠になるよ。仕事が欲しくて嘘ついたの。ごめんね」
なんとも思っていなさそうな声で、雪は俺に謝罪した。俺は溜息をつき、包丁をリュックに戻す。あれだけ暴れ倒したので近隣の人間が集まっているかと思い、外を覗いたが、とりたてて騒ぎになっていることはなさそうだった。
「行くぞ、じきに警察が来る」
「こういう時って仁志君もけーさつ行って、事情説明するんじゃないの?」
「いやいい、疲れた。犯行動機とかはこいつが自分で話してくれればいいし、今はその話を聞く気力がない。それに……」
「それに?」
「こんだけボコボコにしたら、俺まで捕まりそうだ」
「それは言えてる」
雪はくすりと笑うと、「おじゃましましたー」と間抜けな声を出しながら外に出た。下校の時間らしく、ランドセルを背負った小学生がパタパタと走っている。雪は一瞬だけ自分の腹に手を当て、最近のランドセルっていろんな色があっていいよねえと目を細めた。時刻は、午後三時半。四時間前にはまだ自宅にいたことが、不思議だった。
「ねーねー仁志君、これからどうするの? おうち帰るの?」
自転車に乗って空を飛ぶ宇宙人を彷彿するようなセリフである。公共の交通機関を利用して家まで帰ったら何時間かかるだろう。考えるだけでぞっとした。俺は首を振る。
「もう今日は、ここら辺にあるカプセルホテルかどっかに泊まるわ」
「ここ、観光できそうな場所も特産品も特にないよ?」
「いいよ、今日中に家に帰るのが面倒なだけだから。旅行するつもりはない」
そこまで言って、気が付く。こいつはどうするつもりなのだろう。
雪との契約は不成立。俺はもう、彼女の客ではない。彼女が俺とともに行動をする理由はないのだ。もちろん、俺が彼女の面倒を見る必要もない。
――ここで別れることになるのか。なら、せめて礼を言わないと。そう思っている俺の斜め上を、雪の言葉が通り過ぎた。
「んじゃ、あたしも一緒に一泊するー。だからせめて、カプセルじゃなくてビジネスホテルにしてよ」
……あたしも一緒にって、なんだ。……カプセルじゃなくて? つまり、あれ、え?
「え、同じ部屋に泊まるつもりか」
「え、同じ部屋じゃだめなの?」
相変わらず、きょとんとした目をする雪。こいつ、分かってんのか。
「いやお前、俺一応男だぞ」
「知ってる」
「いやだから、危ないだろ」
「そっちがそういうつもりじゃないなら、大丈夫でしょ? それともなに、あたしの裸に興味ある?」
「いやねえよ」
「その即答はある意味失礼なんですけど?」
安心させるつもりが、怒らせてしまった。俺は素直に謝り、けどな、と首を傾げる。
「なんでまだ、俺と一緒にいるつもりだ?」
「だって、今日寒いから野宿したくないし。お金あんまり持ってないし」
「……いつも野宿してたのか、お前。マジで危ないぞそれ」
あきれ果てる俺に、彼女は笑った。
「細かいことはいいじゃん。明日にはもう、仁志君だってあたしのこと忘れてるよ」
寂しげな彼女の顔。それを見た途端、腹部の古傷が痛み出した。
何故か、その顔を昔見たことがあるような気がしたのだ。夜中の河原で刺された、あの時に。
「……忘れるわけ、ねえだろ」
俺の声は、突如吹いた風にかき消された。雪が慌てて、マフラーを巻きなおす。
「ひいぃ、寒い寒い! ほら仁志君、早くどっかホテル見つけようよ、寒いから!」
雪は白い息を吐くと、冷えた手で俺の腕をつかんだ。若干赤くなった、細い指先。
――お前のこと、忘れるわけがない。俺はもう一度、口の中で呟いた。
結局、駅前にあった安いホテルにかけこんだ。アレ専用のホテルとは違い、ベッドが二つあることに酷く安堵した。というのに。
「一緒に寝よっか、仁志君」
一足先に、というか一身体先にベッドに着地した雪がそんなことを言った。俺がこいつの父親もしくは兄だったら、間違いなく心配するレベルである。正座させ、「自分がモテるって自覚ないのか!?」と問いただすだろう。彼女の容姿なら、某四十八人アイドルグループの上位三分の二には食い込んでくるはずだ。そんな女がまさか野宿したり、冗談でも「一緒に寝よう」などと男に向かって発言するとは。
「そういうつもり、ねえっつーの」
「ふーんだ、知ってるもんねえー」
ふーんだ、とはなんだ。
俺は雪と距離を取るため仕方なく、部屋の隅にある固い椅子に腰かけた。かと思えば、雪がこちらに近寄ってくる。俺の隣で、先ほどのように膝をついた。
「え、な、なんだよ」
「これ、手当てしなくて大丈夫?」
ぐちゃぐちゃになった俺の右手に、雪がそっと手を置く。皮膚が裂けて出血しているところもあるが、幸い骨折はしていない。俺は首を振った。
「これくらい平気だ。腹を刺された時の方がよっぽど痛かったね」
「……そう」
そして、沈黙。彼女は何か思案しているのか、俺の傍から離れようとしない。シャワーでも浴びたい気分だったが、ここで風呂に入れば激しく誤解されそうだ。余計な心配をしながら、俺はテレビのリモコンを操作した。夕方という微妙な時間帯だからか、特別面白そうな番組はない。
「――どうしてこんなことしてるのか、っていう質問に答えてなかったよね」
ぽつり、と雪が言葉を漏らした。その言葉があまりにも唐突すぎて、俺にはぴんとこない。
「こんなこと?」
「あたしがどうして、人を生き返らせたりしてるのかって話」
「……ああ」
そういえば午前中、そんな話をしていた。契約するかどうか決めたら教えてあげる、と後回しにされていた質問だ。
「言いたくねえなら、言わなくても」
「ううん、仁志君には言っておく。忘れちゃうだろうけど」
「だから忘れねえっつーの」
俺がそう言うと、雪はいつになく力のない笑みを見せた。だといいなあ、と心にも思ってなさそうな声で言う。そして、寒い場所にいる時のように長い息を吐いた。
「……あたしね、人を探してるんだ。その人に会うために、再生屋をしてるの」
探している人に会うため、人を生き返らせる仕事をしている。
それがどういうことなのか、見当もつかなかった。
「その『探してる人』って、誰なんだよ」
俺が至極当然の質問をすると、雪は首を振った。
「分かんない」
「……はあ?」
彼女は両目を瞑り、不自然な笑みを作る。まるで、少しだけ赤くなった目を隠すように。
「――探している人がどういう人で、あたしにとっての誰なのか。あたしはもう、覚えてないんだ」