第一章:ここは日本ではない
自分が置かれた状況を、前世の論理的な思考で理解できるようになるまでには、それからさらに三年の月日が必要だった。
人間の脳は、幼少期には大人の記憶をすべて受け止めるだけの容量を持たない。そのため、宏の頭のなかにある「田中宏としての四十二年間」の記憶は、まるでひび割れた鏡の破片のように、新しい幼児の脳の片隅に静かに沈殿していた。
三歳になったある日。 居間の冷たい大理石の床に座り、プラスチックのミニカーで遊んでいた陳宏志――それが彼の新しい名前だった――は、突然、頭のなかのパズルが完成するような奇妙な感覚を覚えた。
(そうだ。俺は田中宏だ。新橋の広告会社で働いていた、あの田中宏だ……!)
すべての記憶が、濁流のように脳内を駆け巡った。 満員電車の息苦しさ。 深夜のオフィスで飲む、冷めきった缶コーヒーの味。 エスカレーターで全員が左側に整列して、無言で運ばれていくあの静寂。
「宏志! 何をぼーっとしてるの。早くおもちゃを片付けなさい、ご飯だよ!」
鋭い声が、彼の思考を現実へと引き戻した。 声の主は、あの日、彼を抱き上げていたあの女性――新しい母親である陳素雲だった。彼女は、日本の母親のように「静かにしなさい」と嗜めるような言い方はしない。常に喉の奥から響くような大声で、感情をストレートにぶつけてくる。
「……あ、うん。わかった」
宏志は、たどたどしい中国語(普通話)で答えた。 この三年で、彼は自分が今、日本の隣国である「台湾」という島にいることを理解していた。しかも、台北のような大都市ではない。彰化県にある「溪湖」という、周囲を一面の緑豊かな農地に囲まれた、のどかな地方都市だった。
家の中に流れる空気は、いつも驚くほど賑やかだった。 テレビからは、大音量で台湾語のドラマが流れ、近所の住人がドアも叩かずに勝手にリビングに入ってきては、母親と大声で世間話を始める。
「素雲! 今日の豚肉、良い部位が残ってる?」 「あるよ! あんたのために取っておいたんだから、早く持っていきな!」
日本のマンションで、隣人の顔すら知らずに生きていた田中宏にとって、この距離感のなさは恐怖に近いものがあった。プライベートという概念が、この島には存在しないかのように思えた。
しかし、それ以上の本当の「文化衝撃」は、翌朝、彼が初めて母親の職場へと連れて行かれたときに待ち受けていた。
「宏志、明日はちょっと早いよ。お母さんの仕事、手伝ってね」
そう言って笑う素雲の手は、いつもほんのりと、生肉と独特の脂の匂いが染みついていた。彼女の職業は、この町の生活の心臓部である「伝統市場(市仔:チーアー)」の、豚肉売りの店主だったのだ。




