序章:最後の記憶
その日、東京の銀杏は目も眩むような黄金色に染まっていた。
田中宏、四十二歳。新橋にある中堅広告代理店で働く、どこにでもいる平凡なサラリーマンだ。彼の中半生は、毎日寸分の狂いもなくホームに滑り込んでくる山手線そのものだった。規則正しく、静かで、そして何の一番の波風も立たない。 「田中、この案件の修正、明日朝イチでクライアントに持っていけるようにしといてくれ」 「わかりました。終電前には終わらせます」 上司の言葉に、宏は感情の起伏を一切見せず、ただ深く頭を下げた。それがこの街で生き残るための「最適解」だと知っていたからだ。
残業を終え、オフィスを出たのは夜の十一時を回った頃だった。 冷たい秋風がスーツの隙間から入り込み、首筋を抜けていく。宏は疲弊しきった身体を引きずりながら、渋谷のスクランブル交差点の赤信号の前に立っていた。スマートフォンの画面が淡く光り、LINEの通知を映し出す。さきほどの上司からのメッセージだった。 『明日もよろしく。』 短い記号のような文字列。そこに温もりは存在しない。宏は小さくため息を漏らし、画面を消そうとした。
その瞬間だった。
鼓膜を破らんばかりの激しいクラクションの音が、静寂な夜の空気を引き裂いた。 「え――」 顔を上げた宏の視界を、強烈なヘッドライトの光が真っ白に塗り潰す。トラックの巨大な影が、制御を失ったかのようにこちらへ迫ってくるのが見えた。身体が恐怖で硬直する。逃げる時間など、一秒すら残されていなかった。
凄まじい衝撃。 自分の骨が砕ける嫌な音が、頭の奥で響いた気がした。
そして――視界は完全な暗闇へと沈んでいった。 スマートフォンのバイブレーションが、アスファルトの上で虚しく震えていたことすら、もう彼には知る由もなかった。
音が消えた。 痛みが消えた。 自分が「田中宏」であったという境界線すら、冷たい闇の中に溶けていく。 (ああ、俺の人生は、ここで終わりか……) 最後に思ったのは、明日のプレゼンのことではなかった。ただ、あの静かで、冷たくて、どこか息苦しかった東京の景色だった。
どれほどの時間が経ったのだろう。 永遠とも思える暗闇の果てに、突如として「光」が差し込んできた。
それは、東京のネオンのような人工的な光ではなかった。 もっと泥臭くて、熱を帯びていて、そして――耳を聾するほどの、圧倒的な「雑音」を伴った光だった。
まぶたの裏側を焼き尽くすような光のなかで、宏は強烈な違和感に襲われていた。 トラックに撥ねられたはずだった。全身の骨が砕け、内臓が潰れるような絶望的な衝撃を感じたはずなのに、今の彼にはどこにも痛みがなかった。それどころか、信じられないほど身体が軽い。
(ここは……どこだ? 病院の集中治療室(ICU)か?)
思考を動かそうとするが、脳に霧がかかったようにうまくまとまらない。 視界が少しずつクリアになっていく。しかし、最初に見えたのは白い天井でも、液晶モニターの無機質な光でもなかった。
視界の大部分を占めていたのは、信じられないほど間近にある、見知らぬ人間の顔だった。
「ほらほら、妹仔、泣かないで。お腹が空いたのかな?」
その声を聞いた瞬間、宏の背中に冷たい戦慄が走った。 ――日本語ではない。
目の前にいるのは、肌が健康的な小麦色に焼け、ふくよかな体型をした中年の女性だった。彼女は目を細め、顔いっぱいに温和な笑みを浮かべながら、宏の顔を覗き込んでいる。その言葉の響きは、宏が四十二年の人生で一度も耳にしたことのない、独特のイントロネーションを持っていた。まるで歌を歌っているかのように激しく上下する、温かみのある見知らぬ言語。
(何を……言っているんだ? この人は誰だ?)
声を出して問いかけようとした。しかし、口から出たのは言葉ではなく、情けない「ギャー、ギャー」という高い泣き声だけだった。
「おや、元気な声だねぇ。よしよし、今おっぱいあげるからね」
女性は愛おしそうに目を細めると、宏の小さな身体をそっと抱き上げた。 その時、宏は自分の身体に起きた決定的な「異常」に気がついた。
視界の位置が異常に低い。自分の意思で動かそうとした手は、驚くほど短く、丸々と太っており、まるで洗いたての白くて柔らかい大根のようだった。大人の男の硬い皮膚ではなく、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、瑞々しい赤ん坊の肌。
(まさか……俺は、赤ん坊になっているのか……!?)
混乱が津波のように押し寄せ、宏の意識を飲み込んでいく。 抱き上げられた窓の外からは、東京の洗練された街の音とは根底から異なる、生命力に満ち溢れた「雑音」が響いてきていた。
激しく行き交うバイクのエンジン音。 どこか遠くで鳴り響く、けたたましい爆竹の音。 そして、湿度の高い熱風に乗って運ばれてくる、八角と未知のスパイスが混ざり合った、濃厚な食べ物の匂い。
田中宏という東京のサラリーマンの魂は、その日、全く見知らぬ熱帯の島で、新しい命として産声を上げた。




