4: Obsession
庭園には眩いばかりの瑞々しい緑に満ち溢れているが、それだけだった。花のない庭園にはそれ以外の色彩が一切なく、どこか心寂しい雰囲気を漂わせている。
「――お邪魔しているよ、メイナ・フェリュスさん」
ゆっくりとした歩調で近づきながらアーシェが声をかけると、メイナは弾かれたように振り返った。そして、幼い少女の姿を見るなり、まるで亡霊に遭遇したかのような驚愕を見せる。目を見開き、アーシェを凝視する彼女に、現実世界の心神耗弱な様子は見られない。
「あなたは…」
「君は今の自分がどのような状態か、自覚している?」
椅子に座った状態のメイナよりも、今はアーシェの方が遥かに小さい。動揺がはっきりと浮かぶ表情と瞳をじっと見つめながら、言葉を遮りアーシェは問いかける。
「私の…状態」
呆然と零すように呟き、メイナは目を閉じる。数秒してゆっくりと開かれた瞳には、最早動揺もなく、鈍い光を帯びていた。その佇まいには、庭園に溢れる瑞々しい緑とは逆に生気がない。虚ろな美貌は作り物めいていて、動いてさえいなければ、眼窩に硝子玉を嵌め込まれた等身大の人形に見える。
「ずっとここにいたの…帰れないから」
「帰れないのはなぜ?」
「理想があまりにも遠すぎるから」
予想できていた答えだった。だが、極度の思い込みを以てしても叶わない理想に執心する理由がわからない。続きを促そうとして、やめる。
一瞬の内に、虚ろな瞳の様相が変貌した。先ほどまでとは打って変わって爛々と輝く瞳は、狂気と妄執に彩られ、アーシェの瞳を凝視している。視線だけで命を刈り取るかのようなおぞましい目つきに、しかし彼女は怯まない。ただ静かに、その瞳を見つめ返していた。
「――理想とは?」
「ずるい…ずるいわ。私だってその瞳がほしい。その瞳さえあれば、理想の【薔薇の乙女】を演じられる…その色…色がほしい…その瞳…わたしに、ちょうだい?」
瞳に向かって真っ直ぐ伸ばされた引き留めようとアーシェは腕を掴む。ここが精神世界である以上、この瞳を奪ったところでメイナに意味はないのだが、奪われた方はそうもいかない。
精神世界で負傷したところで、怪我そのものは現実へは持ち越されない。しかし、幻痛を訴えたり、その部分を動かしにくくなったりという不調が現れる。怪我どころか欠損までしてしまうと、障害として一生残るだろう。試すまでもなく、瞳を奪われれば失明するとわかりきっている。
「私の瞳を奪ったところで何の意味もない。あなたも理解しているはず」
「瞳…その瞳がほしいの…」
そこまで執着する程の瞳でもないと思ったが、アーシェは何も言わないことにした。相手を刺激するような真似はなるべく避けたい。ここは彼女の精神世界なのだ。彼女が自分に対して敵意を持った瞬間、この世界は自分に牙を剥き、排除しようとするだろう。
「なぜこの瞳がほしいの?」
「理想、だから…その瞳の色が…」
そこまで聞いて、アーシェは微かな溜息を零す。要するに、薔薇色の瞳を持つ女性役を演じるに当たって、理想的な瞳の色を再現できないために今回の出来事が起きたのだろう。
しかし、魔術を用いれば瞳の色を変えることは可能だ。実際、アーシェもそうして瞳の色を変えている。そのくらいの魔術を使える魔術師を、メア・リュメール劇団は抱えていないのだろうか。確かに初歩的な魔術とは間違っても言えないし、髪の色を変えるより難しいのは確かだが、それほど難易度の高い魔術でもない。
「魔術で瞳の色を変えられるでしょう?」
「あんな醜い紛い物はいらないわ」
若干、メイナの声が強張った。この路線で話を進めるのはよろしくないようだ。だが、それで正気を多少取り戻したらしい。
「昔…劇場で女の子を見かけたの。あの子の瞳は、とても美しい薔薇色だった…あの色の前ではきっと、どんな薔薇も色褪せてしまう…あなたと同じ色…あなたは、あの子によく似ている…」
「…………」
思わず黙り込んだアーシェは、ようやく自分の姿が幼少期のものになった理由を察した。メイナが劇場で見かけたという少女は、自分なのだろう。この劇場に連れてこられた記憶は残っているが、観劇したはずの演目も、そこで何があったかも、誰に会ったかも思い出せない。ただ、そうでもなければこの姿を強要される理由がない。
自分と同じ薔薇色の瞳さえ手に入れば、メイナは納得するだろうか。現実世界に戻り、精神状態を持ち直すだろうか。
「例えどのような理由であっても、私の瞳をあなたにあげることはできない」
「…」
「けれど、あなたが在るべき場所に帰るというのなら――この瞳と同じ色の瞳をあげる」
暗い光を帯びた瞳が、アーシェの言葉で僅かに和らぐ。
「本当に…?」
「えぇ」
狂気と妄執を期待と希望に塗り替えて、メイナはアーシェを見つめる。アーシェは真っ直ぐその視線を見つめ返して頷いた。
次の瞬間、庭園が白く塗り潰されていく。色鮮やかな緑も、瀟洒な作りの東屋も、繊細な作りのテーブルと椅子も消え、最後に残ったのはメイナとアーシェの二人だけ。しかし、ふわりと柔らかな浮遊感が体を包んだ直後、意識は途切れた。
***
家族とは違う薔薇色の瞳を、自分は案外気に入っていた。両親と兄姉はいずれも青か緑の瞳で、家族の中で自分だけが違う色だった。どう足掻いたところで、血縁関係だけは否定できない。それでも、瞳の色という些細なようでいてわかりやすい違いは、大嫌いな家族と自分を隔てる重要なものだった。
本来であれば妻の不貞が疑われるのだろうが、薔薇色の瞳というのはファレス家の血筋において稀に現れる色らしい。実際に、五代前にも薔薇色の瞳を持つ男性がいたという。忘れた頃に隔世遺伝という形で子孫に顕現するのだろう。
大して珍しい色でもないと思っていたが、よくよく思い出してみれば、同じ色の瞳を持つ者と会った覚えがない。王都には世界各地から様々な人種が集まるが、その中で見かけたこともない。それなのに、自分はどうして、珍しくないと思っていたのだろう。自分以外にその色を持つ者がいなければ、珍しいことは明白なのに。
「――本当に、そうだったかな」
果たして、自分は本当に、薔薇色の瞳を持つ者に会ったことがなかっただろうか。過去を思い返してみるが、思い出せない。それなのに、一瞬だけ、暗闇から自分を見つめる薔薇色の瞳を幻視した。
書けば書くほどアーシェの口調が迷子になっている気がして仕方ないです。
大分時間が空いてしまいましたが、4話目投稿です。
待っていてくださった方、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
とうとう平成も終わってしまいましたが、新元号のこれからもよろしくお願いします。