3: Distortion
――長い、長い夢を見ている。そうとわかっているのに、いつまでも現実へ戻れずにいた。
「…違う」
戻りたくないのだ。戻れないのではなく。戻ろうと思えばすぐに現実へ戻れると知っている。そう、思いさえすれば。
劇場の庭と、そこにある東屋。その場所をほぼ正確に真似た夢の中で、日がな一日空を眺めていた。正確でないのは花だけだ。甘い芳香と鮮やかな色彩で庭を埋め尽くしている筈の薔薇が、この庭には一輪たりとも存在しない。
この庭に薔薇を咲かせれば、あの色に染まれるだろうか。そんな馬鹿げたことを考えて、数秒後に自ら否定する。どう足掻いたところで、遠い昔に見たあの色は再現できない。あの、現存する全ての薔薇を否定するかのように美しく、高貴な光を宿した瞳は、決して手に入らない。
***
「精神魔術を、自分自身に…ですか?」
「えぇ。彼女は役になりきることに定評があったのでしょう? 恐らくそれが、精神魔術の賜物なのでしょうね」
仮面をつけ替えるかのような気安さで、自分という存在を完全に作り替える。異常とも言えるその能力は、重度の思い込みという名の精神魔術によるものなのだろう。
「し、しかし…なぜ急にこんな…」
戸惑いながらもウィルバーは疑問を紡ぐ。ある程度柔軟性のある依頼人で良かったと、アーシェはふと思った。
「…完璧主義の人間は、得てして少しの瑕疵も認められないものです」
「それは…どういう…」
「今回割り当てられた役が、重度の思い込みを以てしてもなりきれないものだと、彼女は思っているのでしょう」
理想が高いのか、それとも他に理由があるのか。いずれにせよ、アーシェにはここまで自らを追いつめる意味が理解できない。
「そうだとすれば、話は簡単です。別の者を彼女の役に宛がえばいい」
「そ、それは困ります…! 配役はスポンサーの強い希望で決められていて…」
無理だろうと思いつつ、物は試しと改善策を打ち出したアーシェに、ウィルバーはひどく動揺して首を横に振る。興業にはスポンサーが付き物であるし、スポンサーが集客性を求めるのは当たり前のことだ。看板女優を主演に据えない理由がないし、決して許されることはない。
「――それが嫌なら、彼女の精神魔術を解除するか、しないかを選ぶ必要があります。当然ながら、解除は相当危険であることをお忘れなく」
「もし解除しないのであれば、彼女はこのまま…ということでしょうか」
「現時点では何とも。彼女がこうなった原因によっては、解除はできなくとも、普段通りの精神状態に戻す余地はあります。それが可能であるならば、無理に解除するよりはその方が良いでしょう」
精神魔術の影響下にあっても、生活に支障が出ないのであれば、無理に解除する方が逆に危険だ。下手に干渉して失敗するよりは、介助をしながら時間経過による回復を待つ方がいい。しかし、現在のメイナのような、生活に支障を来す程に重篤な患者が自然回復することは決して有りえない。
「それに…」
言いかけて、アーシェは口を噤んだ。ウィルバーが怪訝そうな視線を向けるが、彼女は首を横に振って黙り込む。
メイナに精神魔術の才能があるのは、一目見て理解できた。だが、精神魔術の使用に十分な知識があるようには全く見えない。今までよく誰も気づかなかったと思える程、その精神魔術は無駄が多く、歪んでいる。自覚のないまま自分に使い続けた結果、肥大化を続け、最早「混沌」としか形容できない状態となっている。何の犠牲もなくこれを解除するのは、恐らくアーシェにすらできないだろう。
「――とにかく」
微かな溜息を零し、思考を完全に切り替えたアーシェは、顔を上げてウィルバーを見据えた。
「まずは彼女の精神状態を把握しなければどうにもなりません。少々お時間は頂きますが、原因や、以前の状態に戻すことが可能なのか…それを確認させて頂いてもよろしいでしょうか」
「…えぇ、問題ございません」
「それでは申し訳ございませんが、私が確認作業を終えるまで、決して誰もこの部屋へは入らないようにして頂きたいのです…少しでも集中を保ちたいので」
「わかりました」
症状の確認程度であれば危険性はほぼ無いが、精神魔術というものの特性を鑑みると、万全を期したい。集中を切らされるような事態はない方がいい。そう言ってウィルバーを部屋から追い出したアーシェは、念のため部屋に結界を張る。ウィルバーのことは信用しているが、他の劇団員一人一人を信用することはできない。結界魔術に限り自分の上を行く同僚に教わったものだ。そうそう破られない自信がある。
そうしてアーシェは、改めてメイナに向き直った。濁り、焦点の合わない瞳と目線が重なることはない。
「――失礼」
零すように詫びて、アーシェはメイナの額に掌を当て、瞳を閉ざす。そうすれば、今まで見ていた以上に混沌とした魔術が視えた。その奥に見えたのは――。
「…庭園?」
花はないが、緑鮮やかな庭園と、そこに佇む瀟洒な東屋。その屋根の下にあるのは、繊細な作りのテーブルと椅子。そして、その椅子に腰かけるのは、メイナだった。
一度目を瞬く。次に目を開いた瞬間、アーシェは庭園の入り口に立っていた。東屋は若干遠く、その中に佇むメイナはこちらに背を向けており、彼女の存在には気づいていないようだ。
「…ん?」
いつもより目線がかなり低い。手を視線の高さまで持ち上げる。まるで子供の手のように小さい。恐る恐る自分の体を見下ろすと、仕立てのいい薄紅色のワンピースを着ているようだ。どこかで見たような気がするが、アーシェはいまいち思い出せない。
ここはメイナの精神世界だ。精神魔術に溺れ、現実世界に戻れない彼女の精神の居場所でもある。
精神世界とは、要するに、その人の心そのものだ。アーシェのように精神魔術を用いるか、或いは夢を媒介にするか、そのどちらかでしか入ることはできない。持ち主の思い出や感情、思考が入り交じり、およそ非現実的な光景を造り上げることが常であるが、メイナの精神世界はそうでもないようだ。庭園としての様相は一切破綻しておらず、この景色だけを見せられたら精神世界などとは思わないだろう。
「――だからこそ、危ないんだけどな」
相当強い思念で作られた精神世界なのだろう。闖入者の姿すら変えてしまえる程に。それはあまりに異常で、だからこそ危険でもある。
他人の精神世界に干渉することは褒められたことではないが、自分の姿が全く把握できないのも心許ない。仕方なしにアーシェは手元に小さな手鏡を作り出した。精神世界では強く望めば必要なものが一瞬で手に入る。もちろん、現実世界に持ち越すことはできないが。
「…これは」
白金の髪に、薔薇色の瞳。透けるように白い肌。鏡に映ったのは、幼い少女の姿だった。アーシェにはよく見覚えのある姿だ。
「私…?」
忘れもしない、幼い頃の自分の姿だった。そういえば、今着ているワンピースも、確かに自分が着ていたものだ。
強引に自分の姿を変えることはできるが、必要以上にメイナの精神世界に干渉することはしたくない。それに、わざわざこの姿を強いられたことには意味がある筈だ。そう判断して、アーシェは東屋に佇む女性の後姿を見つめる。女性は、庭を埋め尽くす緑を眺めているようだった。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
続きは早めに上げたいです…。




