第十九帖。十二月三日・五 靜と美代子の攻防
◆
昭和十九年十二月三日 千葉 柏
編組を確認する。エンジン全開訓練、とある。
「〝明日〟って文字が消されてるなあ」
「はいっ」
西川のひとり言にも近いセリフにミツが返答をした。
背筋がピンと伸びている。片足を前に出している。またしても歩兵操典に見本として載せられるくらい見事な「休め」の姿勢である。
「ミツ。これまたいつの間の僕の横に。ん? その首に巻いたタオルはさっき僕の使ったのじゃないか」
「ぎくっ。はい」
「ぎくって何だい」
「これはっ、あれであります。いけない。いつも西川さんのかおりといたいってのがバレちゃう。あれです。エンジン全開訓練ですからきっとオイルが飛び散ると思いまして。ですから早いうちに拭くためのタオルを準備しようと……思ったんであります」
「なるほど、偉い!」
「はいっ!」
途中のセリフは声が小さくて西川には聞こえなかった。だから西川は、訓練で油まみれになることを見越しての行動に感心するのだった。
そして褒められた美納ミツは嬉しげに敬礼をする。これまた見本みたいな敬礼。一挙手一投足が軍人としては完璧なミツだったが、いかんせん紅顔の少女である。どこか滑稽に感じてしまうのも正直なところだった。
「おー? 二人とも早いねー?」
サチ子がやって来る。あくびをしながら。相変わらず教官のいないところでは緊張感がない。手の抜き方を心得ているのだ。軍人といえば常にキチッとしていなければいけない、と教典に書いてある。人間だから常時それでは気が休まらない。だから頭の回る者はサチ子のように適度に手を緩めるのだった。
ミツもサチ子も軍人であるが、西川はどちらかといえばミツの仕草を好んだ。
ん? と西川は気付く。サチ子の着ている飛行服の前。
「おいサチ子。飛行服の前」
「んー?」
「ボタンが一つずれているぞ」
「あれー? 本当だ」
「軍人たるもの服装の乱れは軍紀の乱れだ。僕が直してやろう」
「へ」
サチ子の服のボタンを全部外す西川。それから一番下からちゃんとはめ直す。
「自分で出来ますそのくらいー……」
サチ子は言うのだった。目が泳いでいる。明らかに動揺している。頬にやや朱がさす。
「軍人のクセにボタンもはめられないのか」
「むー? 普段はちゃんとはめていますー!」
プンプンしているサチ子。でも嬉しそう。
他方、ミツはちっとも嬉しそうでない。むしろ口の端を曲げている様子は不機嫌そのもの。
「……」
黙っているミツ。が、にわかに何かを思い立ったらしい。自分の飛行服の前をいきなり左右に開いた。無理やり。案の定ボタンがはじけ飛んだ。
「……」
「……」
あまりのおかしな行動に黙ってしまった西川とサチ子。
一方でミツは「しまったしまった」と言いたげに頭をかく。そして言う。
「あれっ。間違えました」
「何してんだよミツ」と西川はあきれたような、驚いたような顔をしている。
「いえっ。服を脱ごうとしたんであります」
「あーあ、ボタンが飛んじまって。脱げ」
「えっ。まだ心の準備が」
「脱がなきゃボタンがはめられないだろうが。それに服を着たまま針を使うと服の神様が怒るっていうだろうが」
「はいっ。存じております」
「しょうがないな、直してやるよ」
「えっでっでも悪いであります」
「そういうな。直してやる。その代わり僕の物入れのほつれも直してくれよ? 昨日は結局直せなかったからな」
「はっ、はい! 申し訳ありません」
「気にするな。とりあえず着替えて来い」
「はっはいっ!」
敬礼するミツ。
それから走って女子寮に消えた。
西川はサチ子に言う。
「あの子はいい子なんだが……。どうもよく分からないところがあるなあ」
「そうですねえ」とサチ子は大きくうなずいた。あくまでも何も分からず、西川に同調する体である。それからぼそりと言う。「西川さんはニブい」
「ん? サチ子。何か言ったか」
「何もー? 気のせいです」
「そうか」
「はい」
サチ子は力強くうなずく。
◆
昭和十九年十二月三日 小笠原諸島
「文明の進歩とは実に素晴らしいじゃないか、マートス? もぐもふもふ」
「このサンドイッチのことですか」とマートスも口にものを入れて応対する。
「ああ。ごっくん。考えてもみろ。機外は零下三十度だぞ。だが機内はどうだ? 半そでシャツ一枚で平気だ。なんなら酸素マスクもなしでも暮らせる。極めつけはこのサンドイッチだ。保温コンテナのおかげでほのかに温か。こんな時代になるとは思わなかった」
「ええ。温かいのは助かります。元気が出る〝気が〟します」
「はは」とコックス中尉は苦笑い。「マートス。俺も同感だ。あくまでも〝気がする〟だけだ」
コックス中尉はしかめっ面をした。
あくまで気がしただけなのは味付けが良くないせいだとマートスは思う。そしてコックス中尉も同感のようで、礼賛しているくせにちっともウマそうに食べていない。
サンドイッチはお世辞にもうまくない。綿のように無味で胃があまり受け付けてくれない。気圧のせいであまり味を感じなくなっている。それにずっと操縦している疲れも手伝い、よほど味付けを濃くしなければ舌は味を感じてくれなくなっていた。
しかし添えられたビーフのスープはおいしいとマートスは思う。温かな汁物が疲れた体中に染み渡るようだった。わずかにショウガのような味がするのをマートスは感じ取った。憎い演出だな、と厨房の名も知らぬコックを褒めるのだった。
そしてぽつりと言う。
「今日は感謝祭ですね。本当なら七面鳥の丸焼きを食っている頃です」
「ああ。残念ながら今日は任務だからな……。あーあ。毎年楽しみなんだぜ、感謝祭の正午の食事は。今年はツマランものだったが、それでもないよりいい。……それも終わっちまったか。ああ、キャシーは今頃何をしているんだろう」
「七面鳥を焼いていますよ」とマートスは適当に答える。
「そうか?」
「ええ。もちろんコックス中尉のために」
「そうかそうか! そうだろうな! キャシー愛してるぜ!」
扱いやすいコックス中尉にマートスは軽く笑う。
そんなコックス中尉が計器盤を見る。
「俺たちの編隊の高度は? 八千四百メートルか……。傍受が怖いから隊長に聞けんが、この高度がコイツらの……第500連隊の維持高度だろうな」
「たぶんそうでしょう。嫌ですねえ」
「ああ。嫌だ」
コックス中尉が一転、不機嫌そうになる。
連隊ごとに所定の高度は異なる。マートスたちが所属する第499連隊での維持高度は九千二百メートル。高度があるほど日本軍の高射砲や戦闘機の脅威が薄まる。
これまで二回の東京爆撃に参加してきたマートスたちである。高射砲も戦闘機の機銃も経験している。両方ともない方がいいに決まっている。
航法士ジェイ・アールが機内電話を通してクルー全員に通達してきた。
『さあみんな! 手が空いているなら眼下を見よう! ぼつぼつ海岸線が見えてくる。敵国日本だ』
これを受けてマートスは敵戦闘機発見といった重要なことを除き、機内電話の使用を禁止する。無駄話で機内を混乱させるわけにはゆかない。
マートスは時計をチラリと見る。
「午後一時か。日本でも食事が終わった頃ですかね」
「かもな。エンジンはどうだ?」
「聞いての通り快調です。四つのエンジンはしっかり同調していますよ」
「オーケー。エンジンが無事なら何とかなる」
ひとり言のようにコックス中尉は言った。
間もなく眼下に陸地が見えた。それは日本であった。もやのように薄い雲を通して海岸線が左右に伸びている。屈曲した海岸線は何度も見てきた地図と一致する。
右手の方にあるのが東京湾であることはすぐに分かった。
まっすぐ前には円錐型のきれいな山が屹立している。富士山だった。それを見てようやくマートスはホッと息をつけた。日本人が霊峰として崇めるこの山は爆撃始点として定められており、サイパンを飛び立ったB29が東京に向かうときはこれを目印に飛ぶ。
マートスたちの編隊は隊伍を組む。あとは富士山の頂上まで飛び、それから九十度旋回し、右方に機首を転じる。目指すは東京である。
◆
昭和十九年十二月三日 千葉 柏
編組を確認した西川たちは飛行場の隅っこで教官を待っている。間もなく一人の教官がやって来る。
西川たちは一列になって敬礼をし、言う。
「頭中! 西川伍長以下二名! 点呼よし!」
「うむ」
下図田良雄大尉は答礼した。それに合わせて西川たちも敬礼を解く。
下図田大尉は教育班長で、進級ホヤホヤの大尉である。三十後半でいかにもおっさんといったシワのある顔。貫禄が漂う。しかし額がハゲかけているのが可哀相だった。
三人は陰でカッさん大尉と呼んでいる。
カッさん大尉は三人を眺める。
「全員揃っているな。みんな気分はどうだ?」
「上々です!」
「右に同じっ」
「健康そのものです!」
三者三様の答え方で体調万全を答えた。カッさん大尉は満足そうにうなずく。その視線はあたかも子供を慈しむ母のごとき目である。
カッさんは結婚が遅かった。軍人だからいずれ死ぬ、それなのに妻をもらってもしょうがない、とこれまで固辞していたという。だが戦隊長から、そういう時代だからこそ子供を作っておけと諭され結婚した。
やっと授かった子供は今五歳で一番手のかかる憎まれ年齢にある。子供があまりにワンパクで困る、とたびたび嬉しそうにグチるのを西川たちは何回も聞いている。
だからか、カッさん大尉はこの基地で最も若い西川たちに少し甘い。自分の子供と年齢が近いせいだろうとのもっぱらのウワサである。
それでもカッさん大尉は訓練に気を抜くことはない。かわいいからこそ厳しく接する方針らしい。
「本日はかねて決めてあった通り二式戦の未修訓練を行う。西川」
「はい、西川!」と西川は背筋を伸ばす。
「二式戦はどんな飛行機だ。何でもいい。言ってみろ」
——えー。一番困る質問するなあ。
どうとでも答えられる質問だった。つまりカッさん大尉の好みが正解ということになるがさすがに分からない。だから月並みなことを答える。
「はい! 皇紀二千六百二年に制式制定の戦闘機であります。単座単葉。武装は七・七ミリ機銃二丁と十二・七ミリ機銃二丁であります」
昨日資料室でやった予習の通り西川は答える。まずは基本的なことを述べることにした。
カッさん大尉はうなずく。
「うむ。次、平原伍長!」
「はい! 平原伍長!」とサチ子は背を正す。
「成増がどこにあるか知っておるか」
「へ……な、なります?」
二式戦とは全然関係ないような質問が飛んで来たのでサチ子は面食らっている。
地名であることは想像が付く。サチ子には耳に覚えがあった。聞いたことがあってもどこにあるかまでは分からない。
「えーと」
悩む言葉を口にしたサチ子。
カッさん大尉の額にシワが寄る。
「もうよい」と捨てるように言う。「あとで復習しておくように」
厳しい言い方をしても救いの言葉は忘れない。
「美納伍長」
「はいっ美納」とミツが姿勢を正す。
「うむ。よい背筋である。原案だ」
原案は軍隊用語で「模範解答」の意味である。さすがミツだと西川は思う。
「成増がどこにあるか知っているか」
「いいえっ存じません」
「そうか。知らんか。東京の北部だ。練馬区にある。ほとんど栃木県に近いところだ。ここには第四十七戦隊がおり、ウチと同じく二式戦の部隊だ」
「はいっ」
「昨今、第四十七飛行戦隊の戦隊長と話す機会があった。奥田暢少佐殿は非常に気さくな方であった。そこであまり良くない話を耳にしたので是非とも意見をもらいたい。美納。お前は空対空特攻をどう思うか」
「はっ」とミツはわずかに考える時間。
空対空特攻。
西川をはじめ三人とももちろん知っている。パイロットであるし関東防衛の実戦部隊にあって知らない者はいない。
十一月初め、B29の偵察型F13の複数回侵入を許していた頃である。これを受けて十一月七日、千葉県松戸に展開する第五十三飛行戦隊が編成した特殊な部隊がある。
これこそが四日後の十二月五日をもって「震天制空隊」と命名される予定の、空対空特攻専門部隊である。
いかめしい名前のこの部隊は肉弾をもってB29に体当たりしこれを撃墜するために特化している。海軍でいう「神風特別攻撃隊」の陸軍バージョンと言い換え出来る。
すでに十一月二十四日、少年飛行兵第十二、十三期の兵が複戦「屠龍」でB29に体当たり攻撃を敢行している。一撃必殺には失敗するも、その後B29は洋上に墜落しクルー十一名の死亡が確認されている。
西川の同期生であるから、体当たりした兵の名前も性格も家族も知っている。二十歳に満たぬ少年たちは見事体当たりして果てたのだった。
またこれとは別に、独立飛行十七戦隊に属する二式戦「鍾馗」が体当たりをし、B29の垂直尾翼を吹き飛ばし撃墜している。パイロットは東部軍防衛司令部で面罵された伊藤主邦中尉であり、伊藤中尉は未帰還となった。おそらく九十九里浜沖の海面に突っ込んだものと思われている。
体当たり攻撃部隊の編成は新聞でも報じられているから一般国民も存在を知っているはずである。
——どう思うか、だと?
西川は違和感とともに興奮を覚えた。そんなものはやって当たり前だと思った。正攻法でB29を落とすのが極めて難しいことは先輩からもカッさん大尉からも聞いている。
そしてこのタイミングで空対空特攻の話を切り出す。もしかするとカッさん大尉はここ柏でも同様の部隊を作ろうというのだろうか。それで希望者を募るためにそんな話をするのか。
だとすれば、と西川は思う。必ず志願してやる! むしろ話を出すのが遅いくらいだとなじりたかった。
それもこれもミツの返答次第であると西川は勝手に思った。ミツが肯定的に答えればカッさんは空対空特攻を言い出すだろう。しかし否定すれば?
ごくりとつばをのむ西川。ミツの返答を逃すまいと聞き耳を立て、不必要なことであるが背筋をより伸ばすのだった。
ミツは答えた。
「ぎっ義挙であります!」
——普通の返答しやがって。
当たり前の返答だった。むしろ当たり前すぎて、カッさん大尉も困るだろうと西川は思った。「是非ともやりたくあります」くらい言って欲しかった。
軍人としていつかは死ぬと思っている。それならば敵と刺し違えて散るのはむしろ望むところだった。それが自分たちの役目だとすら西川は思うのだった。
西川はカッさん大尉の次の言葉を待った。予想ではこの後すぐ空対空特攻の部隊を作ろうとか言うはずだった。空対空特攻部隊の編成を命令したのは他ならぬ第十飛行師団長吉田喜八郎少将であるから、命令系統上もおかしいことはない。
だがカッさん大尉の返事は意外なものだった。
「俺はそうは思えんがな」
「はっ?」
ミツだけではない。西川もサチ子も目を丸くし、耳を疑った。
「いいか。死ぬのはいつでも出来る。だが本当のパイロットは必ず帰って来る者をいう。これは俺の友人の言葉だが、腕がなくなっても足が千切れても帰って来て申告する。これが真のパイロットである。全員肝に銘じよ」
あっけにとられた。
上部機関の第十飛行師団の命令を否定するようなセリフではないか。
「これから俺はお前ら三人に二式戦の扱いを教える。編組にあった通り本日はエンジン全開訓練である。しかしながらお前らを殺すための訓練ではない。死ぬのは一瞬だがパイロット一人を育てるには十年も二十年もかかる。たかだか一回のためにお前らを殺すわけにはいかん。それを忘れず訓練に励め」
三人は揃って敬礼する。
西川は釈然としないのだった。
カッさん大尉は空対空特攻に反対である。一人のパイロットを育てるのに何年もの時間がかかる。それをたった一機と交換にしてしまってよいのか。そんなことをしていたらパイロットが何百何千人いてもキリがないのではないか。
だから空対空特攻に反対なのは分かったが、あたかも特攻は無駄と言わんばかりであるのが腑に落ちない。それどころか、まるで特攻をした者が無駄死にであるかのような言い方に怒りがわく。手段がないなら体当たりしてでも落としてやろうと考えるのは自然なことだった。それを実行に移したのは義挙ではないか。
カッさん大尉は二式戦「鍾馗」の未修訓練についての訓示を始めたが、西川は思い悩んでいたのであまり耳に届かなかった。
◆
昭和十九年十二月三日 静岡 御前崎
「意外と何もないな」
「静かですねえ」
コックス中尉が拍子抜けしたように言う。マートスも同様だった。B29が日本の上空に入ってすでに十分余。何も起こらない。一発の対空砲火もないし一機の戦闘機も飛んでこない。
まるでスミス一等兵を乗せたときのように遊覧飛行そのものだった。
「これまでと一緒だなあ。富士山上空で右方に転じても何も起こらない。三度目の今回は必ず待ち構えているものと思っていたんだがな」
「ええ」とマートスは機内電話を入れる。「ケプケ、レッキー。左右に敵機は?」
『いいえ少尉』
『見えません』
「ファインマン! 後方に敵機は?」
『ありませんぜ少尉!』
「チャンス。そちらは?」
『何もなし! オール・オーケー!』
「了解。引き続き見張りを怠るな」
「マートス。一体どうしたんだろうなあ。ジャップの連中は。我々に敵わないとみて逃げたかな」
「もしくは引きつけてから襲いかかるかも」
「そんなロシア軍みたいなことをするのか?」
コックス中尉が高等なジョークを飛ばした。引きつけて反撃するのはロシア軍お得意の戦法だ。別名焦土作戦。この戦法でロシアはナポレオンとヒトラーを追い返しているから、効果は証明されている。
マートスはやや緊張を解いた。東京があると思われる場所を見る。対空砲火が上がったり邀撃の戦闘機がいれば光の反射が見えるはずだ。だが何もない。東京は静かな都市に見えた。
下を見る。あらゆるものが故郷カンザスの平原のように見える。穏やかそのもの。
——やはり敵は東京上空で我々を待ち受けているのかな。
マートスはいよいよその念を強くした。ここまで無抵抗で侵入を許しておいて何もないはずがない。一回目のときでさえ対空砲も邀撃の戦闘機も来たのだ。三回目の今日何もないはずがない。
◆
昭和十九十二月三日 名古屋 小牧
「今日も地べたで訓練かよ」
悠祀がグチを言っている。
寺嶋がなぐさめる。
「そうは言わないでよ。だって月の配給量は決まっているんだよ? だから午前中に飛んだら午後は地べたなのだ」
「そうは言ってもよー、やっぱパイロットたるもの空を飛ぶときが一番楽しいじゃねえか。それを模型とピアノ線でカンを摑めたって無茶だ」
「まあまあ。とりあえずお昼ご飯にしようよ。僕お腹空いたよ」
「そんなの俺もだ。とっくに時間が過ぎてるぜ。……ん? あの機は?」
ちょうど離陸する複戦をみとめる悠祀。その横っ腹には赤い鏑矢が描かれている。
「あの赤い矢は松宮軍曹の機だね。午前の訓練は終わったのに何だろう」
「定時哨戒かな?」
「それにしては時間が遅いよ」
「何だろうな」
「さあ」
寺嶋は首をひねった。
悠祀は美代子の機が第一旋回のため左に大きく舵を切るのを見つめ続けていた。額に手をやり、機の行動の一挙すべてを見逃すまいと。
「おっ、見えた」と悠祀が言った。
「何が? また女風呂でも見ているのかい」
「バカ言うな! 見えるはずないだろうが! 美代子の横顔さ。思ったよりもパイロットの顔って見やすいんだなあ。目を凝らせば口の動きまで見える」
寺嶋は目を凝らす。
第一旋回を終え、しばらく直進する美代子の機をじっ……と見る。風防のガラスがキラリと光る。複戦は滑走路と平行に飛ぶ。確かにパイロットの横顔は見える。
だが口の動きなどは見えない。
「悠祀本当に見えるの? 僕には横顔がギリギリ精一杯だ」
「何となくね。そんな気がする」
悠祀は言うのだった。ちょうど美代子の機は第三旋回に入ったらしく、なおも左に大きく舵を切っている最中だった。
悠祀はその機をぼんやり見ている。
寺嶋はそれを見て思う。
——こりゃあ思ったより重傷だなあ。
寺嶋はちょっと困る。どう見ても悠祀は美代子のことが好きなのだ。もっとも悠祀はそんなこと口にはするまい。だが明らかだった。
「ん?」
遠くから視線を感じた。そちらを見ると靜であった。鬼のような形相。
——こりゃますますもってマズイ。
寺嶋は思うのだった。




