雑用係…ジン
聖騎士団の宿舎内にある講義室。午後の柔らかな光が木板の床を斜めに切り裂いている。机に広げられた算木を前にジンが難しい表情を浮かべる。
「この数が…うーむ…どうも……」
記憶喪失の影響か数字の概念すら曖昧な少年。
「焦らなくていいよ〜」
猫獣人アリアが水色の尾を揺らして覗き込む。「わたしだって計算は今でも苦手だし!」
ドアがキィと軋む音。入ってきたのは深紫の羽毛を持つ鳥獣人フィリスだった。幾何学模様の眼鏡を掛け直す仕草はいかにも学者タイプ。
「算術の講師を務めさせていただきます」
冷静な口調とは対照的に胸元の朱雀のペンダントが微妙に揺れる。「基本的な加減乗除から始めましょうね」
彼女の指導方法は独特だった。羽根ペンで空中に数式を描くと墨痕がそのまま宙に留まる。鳥類特有の三次元空間把握能力のなせる業だろう。
「理解できていますか?」
フィリスがジンの表情を伺う。筆記習慣から彼が右利きであることも初対面で見抜いていた。
「あ……はい」
少年の瞳が初めて明るさを取り戻す。
廊下を通りかかったルシャがちらりと室内を覗く。数学嫌いで有名な狼獣人もさすがに興味を惹かれたようで。
「ほう……分かりやすそうだな」
ベリアリアが癒術書を抱えて微笑む。
窓辺で休憩中のハインリヒ団長が髭を撫でる。
算盤を弾く音と共に春の芽吹きを感じる昼下がりだった。
とある日…。
ジンの割り当てられた最初の仕事は宿舎清掃だった。木桶に汲んだ冷水で石畳を磨きながらふと気づく。
「あれ……」
廊下を行き交うのはすべて女性騎士たち。重厚な鎧を纏った紅い毛並みのルシャも、資料を抱えた白灰色髪のベリアリアも、報告書を手渡す水色のアリアも皆同じだ。
「どうしました?」
突如背後からかけられた声に振り向くと、深紫の翼を持つ鳥獣人フィリスが立っていた。「桶の水が溢れていますよ」
言われて初めて気づく。思考に没頭するあまり無意識に力を込めすぎていたらしい。
「すみません……ただ気になって」
ジンが桶を持ち上げながら呟く。「男性の騎士さんはいないんですか?」
フィリスが眼鏡の位置を直す。彼女の指先で微かな魔力光が煌めいた。
「聖王国アストレリアでは代々聖騎士団は女性のみで構成されています」
朱雀のペンダントが優雅に揺れる。
「なぜでしょう?」
「聖典曰く『女神アルテミスの御名において女性だけが神聖なる力を受け継ぐ』とか何とか……」
猫獣人アリアが途中から会話に割り込む。
彼女の尻尾が掃除道具入れに絡まって動けなくなったところを見計らいルシャが引き剥がしてくれる光景が微笑ましい。
「実際のところは単純に適性値の問題でしょうね」
ベリアリアが窓辺で花瓶の水替えをしながら言った。
「女性の生理周期が魔素循環率と相関しているという最新研究結果もありますし」
その夜、就寝前の点呼時に団長ハインリヒが厳しい視線を向けた。
「明日は馬房掃除だ。遅れることなかれ」
老人の声には記憶喪失の少年への哀れみと厳格さが同居している。
敷布を捲るジンの心中では様々な感情が渦巻いていた。
(そもそも……俺ってどうしてここに連れてこられたんだっけ)
拾得品としての立場に対する羞恥心。そして何より——
(女性専用組織の中に放り込まれた……前代未聞だよな)
天井を見つめる視線の先で木組みの梁が歪んで見える。記憶のない自分にとって今の環境だけが唯一の現実なのだと悟るしかないのだった。
翌朝の厩舎では噎せ返るような堆肥の匂いが充満していた。二十頭余りの軍馬たちがジンの存在を警戒して鼻息荒く嘶く。
「まずはこの箒で排泄物を集めなさい」
ルシャが投げ渡した竹箒が床で転がる。「終わったら餌箱の洗浄……次に鞍磨き」
過酷な肉体労働に次ぐ労働。記憶と経験ゼロの体には堪える。
(これが記憶喪失者への罰なのか……?)
四時間後。全身泥まみれになった少年がようやく納屋から出ると、ベリアリアが待ち構えていた。
「お疲れ様。さぁご飯の前に湯浴みをしましょう」




