少年
雪嶺の彼方にある聖王国アストレリア――
女神アルテミスの恩寵を受けし白き国。
千年の歴史を持つこの王国には、月光のように輝く鎧を纏う精鋭たちがいた。
女性のみで構成される「星影の聖騎士団」である。
朝霧が城壁の輪郭をぼかす頃、王宮の中庭に星影の聖騎士団が整列していた。
三十人ほどの女性騎士たちが月光の甲冑を身にまとい、肩に羽織った深紅のマントが微風に揺れる。
それぞれの腰には王国特有の長剣が揺れ、胸元には金細工の星形勲章が光っていた。
隊長格と思われる年長の騎士が一歩前に出る。
背筋を伸ばした凛とした姿勢で口を開いた。
「第十三巡回哨戒開始。北方森林域への進入ルートを確認せよ。最近の山賊団活動再活発化に対応する」
静まり返った空間に金属音一つなく、騎士たちが整然と移動を始める。
馬具の調整をする者もなく、全員が徒歩での移動を選んでいた。
正門を通る際、守衛官が敬礼する。聖騎士団の隊列が街路に踏み出す瞬間、住民たちが窓や戸口から顔を覗かせた。
女王直属の精鋭部隊——それだけで特別な存在だった。
森へ至る道でさえ、彼らの歩みに乱れはない。騎士たちの足音が規則的に石畳を打つ。
森の奥深く、陽射しが木漏れ日となって差し込む古樹の根元でそれは発見された。
「待て!」
先頭を行く副隊長格の騎士が手を挙げて全員を停止させた。警戒信号だ。
訓練された動作で全員が即座に戦闘態勢に入る。
倒れているのは一人の少年だった。しかし森の中で横たわるその姿はあまりにも異質だった。
騎士たちは慎重に近づいていく。
一番若い見習い騎士が恐る恐る屈みこんだ。「生きて……います」
倒れたまま微かに呼吸している少年の顔立ちを見て、最も経験豊富なベテラン騎士が眉をひそめた。
「これは……東方の顔だ」
落ち着け」と先任騎士が若手を制止する。「触れる前に確認すべきことは多い」
柔らかな灰色と白い髪と丸い瞳が印象的な牛獣人の女性。ベリアリアが一歩前に出た。
角に小さな銀の額飾りをつけている。
癒術専門の聖騎士団癒術騎士だ。
「脈拍安定……体温正常……」彼女の魔術が淡い緑の光を放つ。「外傷なし。毒物も検知されません」
隊長が首を振る。「問題はそこじゃない。この子はどうやってここまで来たのか—」
「失礼します」
ベリアリアが巨大な体をかがめ、慎重に少年を両腕で包んだ。その動作はまるで赤子を扱うようだった。
隊長の声が響く中、少年の瞼が震えた。閉じていた漆黒の瞳がゆっくりと開く。最初に映ったのはベリアリアの優しい顔——青い宝石のような瞳と温かな笑み。
「大丈夫?」
ベリアリアの角がわずかに傾いた。少年が身じろぎする。
「ここ……どこ……?」
か細い声が葉擦れに消えかけた。聖騎士たちは互いに視線を交わす。
「痛むところはない?」
ベリアリアの大きな指が少年の額に触れると、驚いたようにびくりと身体を引いた。
少年が周りを警戒するように見回す。騎士たちの鋼の胸当てと長剣に怯えた表情を浮かべた。
「安心しなさい。私たちは聖騎士団よ。ここはアストレリア。あなたは私たちの森に倒れていたわ」
紅い髪の狼獣人が一歩前に出て膝をつき、少年と視線を合わせた。冷徹な眼差しが初めて柔らぐ。
「名前は?」
長い沈黙の後、少年がかすれた声で答えた。
「わからない」
「何もかも?」
こくりと頷く。漆黒の瞳に不安の波紋が広がった。
騎士団の緊張が走る中、ベリアリアが静かに言った。
「記憶が…」
「何故東方の子供がこんなところにいるんだ……?」隊長が唸るように呟いた。聖王国が高地の北西部に位置することを考えれば、東方とは大陸を横断した遥か遠方の地域である。
「ありえません」銀髪の鷹人騎士が翼を折りたたみながら吐き捨てる。「あの国の者が海を渡って来るはずがない。」
「でも確かに……」ベリアリアが少年の着衣を慎重に検分する。粗い麻布に施された刺繍パターンは紛れもない東方伝統のものだった。
「記憶喪失……偶然……」体長が思索するように首を傾げる。「あるいは……」
「誘拐!」新米の猫獣人騎士が突然叫んだ。「密売人によって攫われてきたのではないでしょうか?」
騒然とする隊内を遮るようにベリアリアが立ち上がった。巨体を屈めて少年の腰帯を探ると、ひときわ小さな革袋を見つけ出した。
「見てください」
開かれた掌に乗るのは、鈍く輝く青銅製の認識票に
No.003 暁 ジンと書かれていた。
「この子の名前じゃないでしょうか」
「風の……匂い……違う」
少年がそう呟いた瞬間だった。瞳孔が急速に縮小し、全身の力が抜け落ちた。
ベリアリアが抱えた少年の身体から急速に力が抜けていった。東方の衣装に包まれた小さな肩が震え始め、漆黒の瞳が焦点を失う。
「ベリアリアさん!」若手の猫獣人騎士が駆け寄る。
「心配しないで」牛獣人は落ち着いた声で応じながらも額の汗を拭った。「脈は弱まっていない……ただ」
深淵のような瞳孔が拡大する。呼吸が浅くなり、唇が青ざめる。そして……
次に少年の意識が戻った時、視界に映ったのは磨き上げられた木材の天井だった。
細い梁が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、窓からの柔らかな光が埃の粒子を金色に染めている。
「ここは……?」
起き上がろうとした瞬間、頭部に鈍い痛みが走った。慌てて押さえた手のひらに冷たい布地が触れる。
「目が覚めたわね」
ベッドサイドに立つ小柄な人影。白い羊毛が首筋から肩にかけてふわりと流れる羊獣人だった。薄緑色の制服の胸ポケットには十字の徽章が光っている。
「ごめんなさいね、驚かせて」少女が穏やかに微笑んだ。白い被毛と対照的な茶褐色の瞳が慈愛を湛えている。「私はセレナ。王国医療班の補助員よ」
その声には西の方言らしい響きがあり、言葉の端々に優しい訛りが感じられた。
「あなたが森で倒れているところを聖騎士団の方が保護してくださったの」
セレナが水差しを取り替える音だけが響く室内に、軽快なノックの音が飛び込んできた。
「入ってもいい?」扉の向こうから明るい声。
「もちろんよ、アリア」セレナが振り向くと同時に扉が勢いよく開いた。
猫獣人の少女が飛び込んでくる。短い水色髪にぴょこんと突き出した三角耳。細い尻尾が興奮して左右に揺れている。
「おはよー! どう? 元気になった?」ベッドに駆け寄るなり、アリアが身を乗り出してきた。「さっき森で見つかった子だよね? 東方の人って珍しいよね! 名前なんていうの?」
セレナが苦笑しながら袖を引く。
アリアが少年の顔を覗き込んだ瞬間、その猫目が大きく見開かれた。
「わっ……」
思わず声が漏れる。少年の肌は西方では稀な象牙色。そして何より——
漆黒の双眸がアリアを捉えていた。瞳孔まで純粋な黒。西方人の虹彩が必ず持つ青や茶の入り混じりがない。
「すごい……」無意識に口にした言葉が宙に残る。「目の色も髪も全部真っ黒なんだ……」
セレナが静かに少年の額に手を当てる。指先が微かに震えた。
「確かに珍しいわね。西方ではまず見られない色合いだわ」
アリアの水色の三角耳がピクリと動いた。好奇心が尻尾をピンと立てている。
「それでどこから来たの?」
アリアが椅子の背もたれに寄りかかりながら尋ねた。床につかない足が小さく揺れている。彼女の水色の毛並みが窓からの風にそっと撫でられた。
少年——暁ジンと呼ぶべきなのだろうか——が困惑した表情を見せる。瞳が左右に泳ぎ始めた。
「……覚えてない」
セレナが薬草入りの湯飲みを置きながら言う。「記憶障害の可能性が高いわ。診察によると頭部への衝撃痕もあるし」
アリアの猫耳が興味津々と動く。
「記憶喪失!? マジで!?」
テーブルに身を乗り出す姿勢が完全に好奇心全開だ。
「でも見た目は完全に東方の人種よね……」
セレナが少年の黒髪を指さす。
「なのにここはアストレリアの聖王国領内……」
「どうやって来たんだろう?」
その問いこそがアリアの本題だった。聖騎士団が担う国境警備網を潜り抜けてきた謎の人物。これが単なる偶然なのか?
「ねえねえ!」
アリアの水色の毛束がふわりと揺れた。彼女が突然椅子から降りると、少年のベッド脇に膝をつく。
「やっぱり本当に真っ黒なのね!」
次の瞬間、彼女の右手が少年の頭上に伸びた。
「え?」
暁が反射的に身を縮める間もなく、柔らかな肉球が黒髪を撫で下ろす。驚愕した瞳が大きく見開かれる。
「うわ~面白い!」
アリアの猫目が輝く。再び撫でる。少年が固まる。セレナが小さく咳払いする。
「アリア……その子怖がってるわよ」
「え?あっごめん!」
しかしアリアはすぐに笑顔に戻る。
「でもさ、東方の国の人はみんなこういう髪と目なの?」
質問攻めの合間にまた手が伸びる。少年がビクッとすると同時にアリアが手を引っ込める。
「わかった!もう触らないから怖がらないで!」
そのやり取りを眺めるセレナがふと思う。
(記憶喪失とはいえ……この警戒心は普通じゃない)
西方の常識では初対面でも握手くらいは平気なものだが……
「アストレリアには東方の方があまり来ないから」
セレナが助け舟を出す。
「あなたのその髪と目はすごく珍しいのよ。だからみんなびっくりしてるだけ」
黒檀のように艶のある髪。星空を吸い込んだような瞳孔。どちらもこの地方では魔除けの印とされてきた古い迷信が……
「ねえ君!」アリアが急に改まった声で呼びかける。「聖騎士団の人たちも心配してるから早く元気になってね」
その言葉に少年が微かに反応した。大柄な牛獣人が抱き起こしてくれた時の感触を思い出す。
「そうですね……」
初めて聞く自分の声が喉の奥で乾いた音を立てた。




