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史上最悪のマッドサイエンティストは公爵令嬢に転生して第二の人生を始める 〜魔力ゼロでも、超能力で何とかなります〜  作者: Emona
ミレアレイス王立学院入学...1年生

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第13話 静かな世界

 禁書庫から三日が過ぎた。

 ルシェルは、その間、手帳に小さな書き込みを増やしていた。


 ――食堂にはほとんど来ない。

 ――人の多い廊下では、時々足を止める。

 ――鐘が鳴る直前、必ず姿勢をわずかに変える。

 ――書庫にいるときだけ、肩の力が抜けている。


 一つ一つは、気にするほどのことではない。

 けれど、並べて眺めると、輪郭が見えてくる。


 ――音、か。


 禁書庫での足音。

 夕刻の鐘。

 ガラス玉の、あの小さな静電気の音。

 回廊で、ちょうどいい瞬間に現れたこと。

 書庫で、ルシェルの居場所を的確に探し当てること。

 どれも、「たまたま」で片づけるには、少し数が多すぎた。


 仮説は、すでにほぼ固まっていた。

 あとは、確かめるだけだった。


* * *


 その日の放課後。

 書庫の閲覧席の端で、レオナルドは本を読んでいた。

 窓から差す夕日が、プラチナブロンドの髪を淡く染めている。


 ルシェルは、書架の陰に立っていた。

 彼との距離は、おそらく二十歩ほど。

 小声で話しても、普通の人間なら、まず届かない。


 彼女は、口元をそっと手で覆い、息のような声で呟いた。


「殿下」


 レオナルドの肩が、ぴくりと跳ねた。

 彼は顔を上げ、きょろきょろと周囲を見回す。

 それから、書架の陰に立つルシェルの姿を、迷いなく見つけた。


「…………」

「…………」


 数秒間の沈黙。

 やがて、思っていたより離れた距離に立つルシェルを見て、レオナルドの顔から、すうっと血の気が引いていった。


「……今の、聞こえていらっしゃいましたよね」

「…………」

「やはり、そうですか」


 ルシェルは、特に驚いた様子もなく、静かに近づいていった。


「少し、お時間をいただけますか。人のいない場所で」

「……うん」


 レオナルドの声は、いつもより頼りなかった。


 途中で、ルシェルは廊下の向こうからやってきたキセラに、そっと声をかけた。


「キセラさん、今日は少し、殿下と二人で話したいことがありますの。先に帰っていただけますか」

「え? あ、は、はいっ!」


 キセラは、ぱっと目を輝かせて、両手で口を覆った。


「ふ、二人きりで……! どうぞどうぞ、ごゆっくり!」

「何か勘違いされているような……」

「いえいえ、何でもないです!」


 キセラは、にこにこしながら、軽い足取りで去っていった。

 レオナルドが、ほんの少しだけ、ぎこちなく笑った。


* * *


 中庭の東屋は、夕暮れの色に染まっていた。

 風が止み、葉擦れの音も聞こえない。


 ルシェルは、長椅子に腰を下ろした。

 レオナルドは、一人分間を空けて、隣に腰を下ろした。

 視線は、地面に落ちたままだった。


「殿下。単刀直入にうかがいます。殿下は、人よりもずっと、耳がよろしいのではありませんか」

「…………」

「禁書庫で、足音に気づいたのは殿下が先でした。私の耳に届いたのは、それより数十秒後です。鐘が鳴る直前に、毎回、姿勢を変えておられました。ガラス玉の静電気の音にも、反応しておられましたね。それに、先ほどの私の声も」


 淡々と並べられる事実に、レオナルドは観念したように目を閉じた。


「……ずいぶん見てるんだね、君は」

「観察は、趣味のようなものですので」

「そういうところが、君らしいよ」


 力なく笑ってから、彼は、ゆっくりと口を開いた。


「……子どもの頃から、そうなんだ。人よりずっと……音が聞こえる」


 レオナルドの声は、静かだった。


「遠くの話し声も、足音も、全部。壁の向こうの囁きも。聞きたくないものまで、全部」

「全部、ですか」

「うん。それに城にいると、城の中の音が全部届いてくるんだ。誰が何を話して、誰が泣いて、誰が笑ってるか……。音だけで、その場の景色まで頭の中に流れ込んでくる」


 彼は、両手でそっと耳を覆った。


「人が多いところは、頭が割れそうになる。食堂も、廊下も。だから、いつも書庫にばかりいるんだ」

「……なるほど」

「誰にも言ったことがない。父上にも、母上にも」

「どうして」


 ルシェルが、静かに尋ねた。

 レオナルドは、しばらく黙っていた。

 それから、絞り出すように言った。


「この瞳は、強い魔法が使える証だと言われてる。みんな、僕にそれを期待してる。……なのに、僕にあるのはただ耳がいいだけの、変な体質だ」

「…………」

「魔法でも何でもない。それが、おかしいんじゃないかって、ずっと思ってた。気味が悪いって思われるのが……怖かった」


 レオナルドの声が、わずかに震えた。


「王太子が人と違うおかしな体質だなんて……言えるわけないだろう」


 夕風が、東屋をそっと撫でていった。

 ルシェルは、じっとレオナルドを見つめていた。


 ――魔法ではない力、か……。まずその能力がどのようにして現れているのか気になるところだが……。

 

 そして、いつもと変わらない調子で、静かに口を開いた。


「それは、おかしいことではありません」


 レオナルドが、はっと顔を上げた。


「魔法でないことと、異常であることは、別の話です。人によって、目の良し悪しがあるように、耳の良し悪しもあります。殿下のものは、たまたま人より飛び抜けているだけです」

「……そう、なのかな」

「ええ。それに、私は気味が悪いとは思っておりません。むしろ、とても興味深いとは思いますが」

「興味深い……」

「ご不快でしたら、申し訳ありません」

「いや……」


 レオナルドは、堪えきれないように、くしゃりと顔を歪めた。

 泣き出しそうな笑顔だった。


「……君は、本当に……君だな」

「恐れ入ります」

「褒めてるんだよ」


 目元を手の甲でこすってから、彼は、ふっと息を吐いた。


「ありがとう。……話せて少し楽になったよ」

「まだ、お礼を言うには早いです」


 ルシェルは、長椅子から立ち上がった。


「殿下。少しだけ、失礼します」

「え?」

「ある種の実験です」


 彼女は、レオナルドの前に静かに立った。

 それから、ごく自然な動きで、両手で彼の耳を覆った。

 

 ――ああ、なるほどね。そういうことか、これは私も知ってる能力だ。……面白い。

 

「え、る、ルシェルっ?」

 

 そして、まっすぐにレオナルドを見つめた。


「殿下、私をしっかり見つめて」

「え、えぇ?」


 顔を真っ赤に染めながらレオナルドは言われたとおりにルシェルを見つめる。

 そして、ルシェルはレオナルドを見つめたまま、自分の感覚をレオナルドへ『共有』した。

 自分のごく普通の聴こえ方を、精神干渉を通してレオナルドの頭に重ねたのだ。


「っ……あ、」

「いまも、周りの声が聞こえますか?」


 それまであちこちから聞こえていた人々の声が、レオナルドの耳に届かなくなった。

 それと同時に、今までずっと重たかった頭が、羽が生えたように軽くなった。

 レオナルドが、大きく目を見開いた。


「…………静かだ」

「どうでしょう」

「静かだ。……こんなに、静かなの……生まれて初めてだ」


 彼は、信じられないというように、周囲を見回した。

 庭の遠くで飛び交っていた鳥の声も、校舎の騒ぎも、すべて遠ざかっている。

 残っているのは、目の前の少女の、落ち着いた呼吸の音だけだった。


「……何をしたの?」

「……さあ、何をしたと思います?」


 ルシェルは、にっこりと笑った。


「君は、いつもそうやってはぐらかすよね」


 どこか寂しそうに微笑むレオナルドに、ルシェルはただただ笑顔で返すだけだった。


「……いつか、君のことも教えてくれる?」


 レオナルドの声は、冗談めかしていたが、目は真剣だった。

 ルシェルは、少しだけ考えてから、答えた。


「いつか、お話しできるときがきたら」


 レオナルドは、それ以上は追及しなかった。

 ただ、静かに「うん」と頷いた。


 ルシェルは、レオナルドの耳元からそっと手を離す。

 世界の音が、元に戻っていく。

 レオナルドが一瞬だけ顔をしかめて、それから、小さく息を吐いた。

 ルシェルはこめかみに、じわりと鈍い痛みが走ったが、表情に出さなかった。


「でも、すごいや……いまの感覚……」

「別に特別なことなんてなにもしてませんよ」

「え、でも……」

「聞く音を絞ることは、練習すれば殿下にもできるようになります」

「本当に!?」


 練習すれば、という言葉にレオナルドはこれでもかというほど食いついた。


「教えて、ルシェル。どうやったら聞こえなくできるんだ!?」


 ルシェルはレオナルドの勢いに圧倒されつつも、どう説明したものかと考える。

 手帳を開いてから、ひとつ頷いた。


「まず、前提からお話しします。殿下は、耳がいいわけではありません」

「え?」

「殿下は、壁の向こうの囁きや、音だけでその場の景色まで頭に流れ込んでくる、とおっしゃいましたね。それは、耳が拾える範囲を超えています。音は壁に遮られますし、そもそも、音から景色は分かりません」

「でも、聞こえてるんだよ。ちゃんと、音として」

「ええ。そう感じるでしょう。ですから、少し試してみましょうか。両手で、耳を強く塞いでみてください」

「こう?」


 レオナルドは、言われたとおり、両手でぎゅっと耳を押さえた。


「今、庭の鳥の声や、校舎のほうの音はどう聞こえますか」

「…………変わらない」


 彼は、目をぱちぱちさせた。


「変わらない。耳を塞いでるのに、さっきと同じように聞こえる……」

「やはり、そうですか」

「そういえば、昔から、そうだったんだ。枕を耳に押しつけても、遠くの声は消えなかった。変だとは思ってたけど……」

「思い違いではありません。それが、答えです」


 ルシェルは、手帳に小さな耳の絵を描き、その横に、頭の絵を並べた。


「殿下が受け取っているのは、耳から入る音ではありません。周囲の音や気配、その場の様子を、耳を通さずに、頭が直接受け取っているのです」

「直接……」

「ええ。ただし、殿下がいま受け取れているのは、音と気配のところだけです。人が心の中で考えていることまでは、伝わっていないはずです」

「うん。心の中までは、聞こえないよ」

「そして殿下は、その受信が、常に開いたままなのです」


 ルシェルは、頭の絵の横に、窓をいくつも描いた。

 すべての窓を、開け放して。


「窓を全部開けた家には、風も、音も、虫も、好きなだけ入ってきますわ。閉めたくても、閉め方を知らなければ、そのままです」

「窓……」

「本来は、必要なときにだけ開けるものです。誰かの声を聞きたいとき、遠くの様子を知りたいときだけ。殿下は、その開け閉めを教わったことがないから、ずっと開けたまま、生まれてきてしまったのです」

「…………」

「そして、使えば使うほど、頭は働きます。開けっぱなしということは、休みなく使い続けているのと同じです。頭が割れそうに痛いのは、そのせいです」


 レオナルドは、呆然とルシェルを見つめていた。


「じゃあ、僕の頭痛がひどいのは、体が弱いからじゃなくて……」

「使いすぎです。むしろ、これだけ使い続けて平気でいられるのは、すごいことです」

「…………」

「それに、これは異常ではありません。私も、同じ種類の力を使えますから」


 レオナルドが、はっと息を呑んだ。


「君も……? じゃあ、さっきのは」

「ええ。私が普段閉じている状態の感覚を、殿下に重ねたのです」

「……そう、か」


 レオナルドは、何か言いかけて、結局、小さく頷いた。

 ルシェルは、続ける。


「大切なのは、止めるのではなく、閉じることです。受信そのものを消してしまうのではなく、必要ないときは窓を閉めておく。開けるのは、殿下ご自身の意思で」

「閉じる……」

「これができるようになれば、頭痛はずっと軽くなるはずです」


 そこで、ルシェルは少しだけ声を落とした。


「それと、ひとつだけ約束してください。この力で、人の心の中を勝手に覗いてはいけません。できるかどうかではなく、礼儀の問題ですわ」

「心の中……? 僕が聞いているのは、音とか景色だけで……」

「今のところは、ですが」

「えっ」

「いえ、何でもありません」


 にっこりと誤魔化して、ルシェルは話を戻した。


「閉じ方を覚えれば、開き方も変わります。聞きたいものだけを選んで、必要な場所にだけ窓を開けられるようになれば、殿下の力は、悩みではなく武器になります」

「武器……」

「ええ。少なくとも、今のように苦しむことはなくなります」


 レオナルドは、まじまじと手帳の絵を見つめた。

 開け放たれた窓の絵。

 その窓を、ひとつずつ閉めていく自分を、想像しているようだった。


「……どうやったら、閉じられるの?」

「まずは、意識を一点に向けてみましょう。目の前の、ひとつのものに。そうすると、ほかの窓は自然と遠のきます」

「一点に……?」

「はい。目の前のことにだけ集中してみる、とか?」


 レオナルドは、目をぱちぱちさせた。

 それから、みるみるうちに、耳まで赤くなった。


「……目の前のこと……ルシェルのことにだけ集中してみるってこと?」

「え? ああ、いまの状況だとそうですね。ほかに集中しやすいものがあれば、それでもいいのですが」

「いや、いいんだ。……それで、やってみる」


 彼は、くしゃりと笑った。

 泣き出しそうな顔ではなく、本当に、嬉しそうな笑顔だった。


「ありがとう、ルシェル」

「どういたしまして」


 しばらく、二人は並んで、夕暮れの庭を眺めていた。

 やがて、レオナルドが、ぽつりと言った。


「ねえ、ルシェル」

「はい」

「君の心臓の音は、いつもすごく静かなんだ」

「……心臓、ですか?」

「うん。落ち着いてて、一定で。聞いてると、安心する」


 ルシェルは、きょとんとした顔で、自分の胸のあたりを見下ろした。


「そんなことで安心されても、困りますが」

「そう言うと思った」


 レオナルドは、おかしそうに笑った。

 その声は、これまでよりずっと、軽やかだった。


「あと、なんでかな。ルシェルの近くにいると、少しだけ……他の音が聞こえにくくなるんだ」

「……そうですか」


 ルシェルは、自分でも理由の分からないまま、口元をほんの少しだけゆるめていた。


 ――人に言えないことを、一緒に抱えるというのは、こういうことなのだろうか。


 まだ、友人というものの正体は、よく分からない。

 けれど、この時間が、決して悪くないことだけは、確かだった。

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