第12話「ひざまずく王太子と運命の番」
王宮の最上階に位置する、ヴィンセントに与えられた私室。
バルコニーに通じる大きな窓からは、王都の夜景が宝石を散りばめたように瞬いている。
室内の灯りは落とされ、銀の燭台で揺れる数本の蝋燭の光だけが、二人の影を壁に長く引き伸ばしている。
ヴィンセントは窓際の長椅子に腰掛け、夜風に冷やされたワイングラスを指先で弄んでいる。
薄手のナイトガウンの胸元がわずかに開き、白い肌が頼りない光の中に浮かび上がっている。
彼の足元には、豪華な絨毯の上に直接ひざまずくノアの姿がある。
王太子である彼が、自室の寝台ではなくこのような床の上に座り、見上げるようにヴィンセントを見つめている。
その構図は、彼らの間にある絶対的な精神的階層を静かに物語っている。
「今夜は、ひどく冷えますね」
ヴィンセントがグラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりとつぶやく。
「窓を閉めよう。君の身体が冷えてしまう」
ノアはすぐに立ち上がろうとするが、ヴィンセントの指先が彼の肩に触れると、ぴたりとその動きを止める。
制止の合図を読み取り、再び静かに元の姿勢へと戻る。
その従順な動作を確認し、ヴィンセントはグラスをサイドテーブルに置く。
「もう、十分でしょう」
静かな声が、夜の静寂に吸い込まれていく。
ノアの肩が微かに跳ね、黄金の瞳が問いかけるように見開かれる。
「何が、十分なのだろうか」
「あなたが私に与える忠誠の証明です。これ以上、私に何を捧げるつもりですか。身分も、権力も、誇りすらも、すべて私の足元に投げ出しているというのに」
ヴィンセントの言葉に、ノアは苦しげに眉根を寄せる。
「足りない。これだけでは、まだ君を完全に私のものにしたとは言えない。君がいつか、私の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという恐怖が、常に私を苛むのだ」
ノアの強大なフェロモンが、彼の不安に呼応するようにわずかに揺らぐ。
それは威圧するような攻撃的な匂いではなく、見捨てられることを恐れる子供のような、すがるような匂いである。
ヴィンセントは小さくため息をつき、ひざまずくノアの前に両足を下ろす。
そして、彼を引き寄せるように、両手でその端正な顔を包み込む。
「あなたは、本当に不器用な人だ。私がどこへも行かないよう、見えない鎖で繋ぐ方法を、一つだけ残しているではないですか」
その言葉の意味を理解した瞬間、ノアの呼吸が完全に停止する。
この世界において、最も強固で決して切れることのない魂の鎖。
αがΩのうなじを噛み、己の印を刻み込む「番の契約」。
ゲームのシナリオにおいては、光のΩであるエリオットと結ばれるはずだったその神聖な儀式。
それを、ヴィンセントは自らの意思でノアに要求しているのである。
「ヴィンセント……それは、本気で言っているのか。私に、君を永遠に縛り付けることを許すというのか」
ノアの声はかすれ、指先が微かに震えている。
彼は自身の内にある獣のような衝動を必死に押さえ込み、ヴィンセントの許可を待っている。
力で奪うことはいつでもできたはずなのに、彼はヴィンセントの心が伴わない印など何の意味もないと理解し、ずっと耐え忍んできたのである。
「私が自ら首輪を差し出しているのです。これ以上待たせるのであれば、気が変わるかもしれませんよ」
挑発するように唇の端を吊り上げる。
次の瞬間、ノアの腕がヴィンセントの腰に巻き付き、強い力で引き寄せられる。
グラスがテーブルから落ちて砕ける鋭い音が鳴るが、二人にとってそれはもはや些末な出来事であった。
ノアの顔がヴィンセントの首筋に沈み込み、荒々しい吐息が肌を熱くする。
ヴィンセントは逃げることなく、自ら首を傾けてうなじを無防備にさらけ出す。
ノアの冷たく鋭い歯が、脈打つ皮膚に触れる感触。
鋭い痛みが首筋を貫き、思わず声が漏れる。
「あ……っ」
痛覚はすぐに、燃え上がるような熱へと変わっていく。
ノアの牙を通して、彼の持つ圧倒的な感情の奔流が直接体内へと流れ込んでくる。
深い執着、狂おしいほどの愛、そして決して手放さないという強烈な誓い。
それらの感情が、ヴィンセント自身の内から湧き上がる甘い蜜のような匂いと複雑に絡み合い、溶け合っていく。
部屋の空気が、二人の混ざり合ったフェロモンによって極限まで濃密になり、視界が白く霞む。
ヴィンセントはノアの背中に腕を回し、衣服を強く握りしめる。
体内の血が沸騰するような感覚の中で、自身の存在が彼と完全に繋がり、一つの強固な円を形成したことを確信する。
長い時間を経て、ノアがゆっくりと牙を引き抜く。
彼は傷口から滲む血を名残惜しそうに舐めとり、熱に浮かされたような瞳でヴィンセントを見つめる。
「これで、君は永遠に私の番だ。誰にも奪わせない」
歓喜に震える声が、耳元で低く響く。
ヴィンセントは熱い息を吐き出しながら、ノアの頬に触れる。
「ええ。そしてあなたは、永遠に私に仕えるαです。この手綱は、死ぬまで離してあげませんよ」
ヴィンセントの言葉に、ノアは恍惚とした表情を浮かべ、再び床にひざまずいてヴィンセントの指先に深く口づけを落とす。
◆ ◆ ◆
ゲームのシナリオが示した、断頭台へ向かう悪役令息の運命。
それは今、完全に粉砕され、新しい歴史の1ページが書き換えられた。
誰かに与えられた役割を演じるのではなく、自らの手で運命を切り開き、最強の駒を手に入れたのである。
窓の外から吹き込む夜風が、火照った身体を心地よく冷やしていく。
私は、足元で絶対的な忠誠を誓う番を見下ろしながら、その冷たくも甘美な新しい世界を、静かに味わい尽くしていた。




