第10話「甘美なる手綱と真の玉座」
厚く引かれた暗幕の隙間から、朝の白い光が一本の糸のように差し込んでいる。
部屋を満たしていた重苦しい熱気は幾分か和らぎ、代わりに静かで澄んだ空気が満ちている。
ヴィンセントは、自らの匂いが染み込んだ布の山の中央で、静かに姿勢を正す。
はだけていた麻のシャツの襟元を引き寄せ、指先で丁寧にボタンを留めていく。
その動作の一つ一つを、寝台の傍らにひざまずいたノアが、瞬きすら忘れたように見つめている。
彼の黄金の瞳からは、昨夜の狂気的な暗い炎はすでに消え去っている。
代わりに宿っているのは、神を崇める信者のような、純粋で絶対的な帰依の光である。
王太子の威厳も、強大なαとしての矜持も、すべてがヴィンセントという存在の前に投げ出されている。
ヴィンセントは視線をノアに向け、静かに口を開く。
「昨夜の騒動で、王宮内は混乱しているはずです。私が姿を消したことに対する、もっともらしい理由を用意する必要があります」
感情の起伏を排した事務的な口調で、今後の対応について指示を出す。
ノアはゆっくりと頷き、低く落ち着いた声で答える。
「夜会の途中で君が体調を崩し、私が直接、王宮内の特別な客室へと運んだ。安静が必要であるため、面会は一切謝絶している。そう手配しておく」
その言葉には、ヴィンセントの意思を尊重し、彼を守るための配慮が込められている。
しかし、ヴィンセントが求めるのは単なる庇護ではない。
ただ守られるだけの安全な箱庭は、彼自身の存在意義を否定するものである。
私は寝台からゆっくりと脚を下ろし、ノアの目の前に立つ。
「それでは不十分です。私がただ部屋にこもっているだけでは、周囲の憶測を呼ぶばかりです。いずれ、公爵家からも正式な抗議が入るでしょう」
「誰にも手出しはさせない。私の権限ですべてを封じ込める」
ノアが即座に言葉を返す。
彼の中にある庇護欲が、再びヴィンセントを外界から隔離しようと頭をもたげている。
ヴィンセントは小さくため息をつき、ノアの肩に手を置く。
その瞬間、ノアの身体が微かに震え、彼から発せられる針葉樹の匂いが柔らかく甘いものへと変化する。
「私を無力な存在として扱うのはやめてください。私はあなたの背中に隠れて震えるつもりは一切ありません」
冷たい青い瞳で、ノアを真っ直ぐに見据える。
「学園へ戻ります。そして、王太子であるあなたの隣に、正式な婚約者として立ちます。誰にも文句を言わせない形で、この状況を完全に掌握するのです」
その宣言は、ゲームのシナリオにおいて悪役令息が歩むべき破滅への道とは全く異なる、新たな未来の提示であった。
ノアの瞳が驚きに見開かれ、次いで、深い歓喜の色に染め上げられていく。
ヴィンセントが自ら隣に立つことを選んだという事実が、彼の飢えていた心を完全に満たしていく。
ノアはヴィンセントの腰に両腕を回し、顔を腹部に押し付けるようにして抱きつく。
強大な権力を持つ王太子が、一人の少年にすべてを委ね、甘えるようにすり寄る姿。
その異様な光景を冷徹に見下ろしながら、ヴィンセントはノアの漆黒の髪に指を絡める。
サラサラとした髪の感触が、指の間を滑り抜けていく。
「ただし、条件があります。私の行動を監視し、自由を奪うような真似は二度としないこと。もし少しでも私を檻に閉じ込めようとすれば、その時は本当にあなたの前から姿を消します」
静かであるが、決して譲歩を許さない鋭い響きを持たせて告げる。
ノアは顔を上げず、ただヴィンセントの腰を抱きしめる腕の力を微かに強める。
「約束しよう。君が望むなら、この国すべてを君の足元に差し出す。だから、私を君のそばから遠ざけることだけはしないでくれ」
かすれた声で紡がれるその言葉は、完全な服従の誓いであった。
ヴィンセントは、自身の内から微かに漏れ出るΩの香りを、ノアをなだめるように意図的にコントロールする。
甘く落ち着いた香りが部屋に広がり、ノアの強張っていた筋肉がゆっくりと弛緩していく。
『これで、手綱は完全に私の手の中にある』
ヴィンセントは冷ややかに思考を巡らせる。
ゲームのシナリオでは、ノアに愛されるはずだった光のΩ、エリオット。
そして、無様に処刑されるはずだった悪役令息のヴィンセント。
その配役は今、完全に書き換えられた。
ノアの狂気を逆手に取り、彼を精神的に支配することで、ヴィンセントはただのモブとして生きるという逃げの選択を捨てた。
自らの特性を最大の武器として使いこなし、この世界の頂点に立つ権力者を意のままに操る。
それは、誰に支配されることもない、真の自由を手に入れるための唯一の手段であった。
ノアの首筋に触れる指先に微かに力を込めながら、ヴィンセントは窓の隙間から漏れる朝の光をじっと見つめる。
これからの日々は、学園という表舞台と、王宮という裏の権力闘争の双方を支配する、新たな戦いの場となる。
しかし、今の私の胸の奥にあるのは、死の運命に対する恐怖ではなく、盤面を完全に掌握した者だけが味わえる、冷たく澄み切った高揚感だけであった。
足元にひざまずく絶対的なαを従え、私は誰にも見えない真の玉座へと、静かに歩みを進めようとしていた。




