第36話 腐葉土には花畑を
——ママもパパも、最低すぎます。
拗ねた少女の声が、聞こえた。
私の視界には、滲んだ夜景が映し出されている。
——なんで、あたしは勝手に生まれて、死に方も選べないんでしょうか。
視線が下を向き、歩幅が狭くなっていく。
——本当は、目立つのが苦手なんです。残りの人生、静かに過ごしたい。
ため息をつき、足を止める。
見上げた夜空には、星がひとつも浮かんでいなかった。
さらには、肌を刺すような雨粒に追い打ちをかけられる。
——深夜ですし、カフェとかは入れないですよね。
周囲を見渡し、目に留まった建物は、おんぼろアパートだった。
息をひそめ、侵入する。
幸い、住人の姿はなく、共有スペースに腰をおろして身を丸めた。
——なんか、もう、どうでもいいです。
時間が、飛ぶ。
まるで死人のような足音が、近づいてくる。
「ねえ、どいて」
女性の声に対して、顔を上げる。
視界に映った人物は、私だった。
殺人帰りのようなひどい顔を、向けている。
異様に映る、赤黒く染まったスーツ。
ようやく、理解が追いついた。
この情景は、私の記憶じゃない。
「なんで、血……?」
「手首、切ったから」
——変わった人。だけど、かっこいい。
さらに言葉を交わしていくにつれて、視界がにじみ、言葉が上擦った。
「ねえ、なんで人って、死んじゃうのかな。なんで、死ぬって、こんなに悲しいのかな?」
——あれ、あたし……。初対面の人に、何を言ってるんだろう。絶対、適当な言葉しか言わないですよね。あたしの気持ちなんて、誰も……。
「もう、好きに、しねよ」
たった、8文字。
優しさの欠片もない、暴言だ。
なのに、視界の色彩が、華やいだ。
息が荒くなり、涙が熱く沸きあがる。
――好きに死んで……いいの?
女性が、鳥海恵巳が、歩き出す。
玄関が閉まる瞬間、とっさに足を割り込ませて、部屋に入った。
——あれ? 何してるんだろう、あたし……?
困惑しながらも、言葉を紡いでいく。
「3年後、あたしと一緒に、あの世へ行ってくれませんか?」
胸が高鳴って、左手の薬指から、咲いた。
1本の、青薔薇。
薔薇の花束を作る時、偶然知った。
本数には、ロマンチックな言葉が込められている。
孤独な薔薇が持つ意味は、最も情熱的。
――あたしの心、たった一目で……。
口の中が空になり、現実に戻った。
唇を離すと、ナギサちゃんの顔が目に入る。
口元を押さえていて、かわいらしい。
「起きた?」
19本の青薔薇とともに、固唾を呑んで、待つ。
開口一番の、返事を。
「恵巳……さん?」
私の名前。つまり――。
「久しぶり、でいいのかな?」
「えっと、はい。すみません……今、どういう状況ですか……?」
「……おかえり」
思わず、破顔した。
嬉しくて、表情筋がはちきれそう。
「ねえ、行こう!!!」
「え、ちょっと、恵巳さん!?!?」
痩せこけた体をお姫様抱っこで持ち上げ、走り出す。
背後には、巨大な遺影。
止める人はいない。
スタッフ全員、私とナギサちゃんの味方だ。
ナギサちゃんのママには人望がなかった。
みんな、怒鳴られるから従っているだけ。
だから、ちょっと褒めてあげた。
多分、私には他人を褒める才能がある。
相手の目を見るだけで、どんな言葉を掛けてほしいのか、頭に浮かぶ。
あとは、簡単だ。
好意的な態度を見せたら、真実を伝えるだけ。
会場を飛び出し、さらに走る。
「ちょっと! 待ちなさいっ!!!」
背後から、怒声。
ナギサちゃんのママが追いかけてきたんだ。
でも、豪華なドレスを着ているせいで、遅い。
角を曲がれば、逃げ切れる。確信した矢先だった。
「え、恵巳!?」
明本志緒里。
私の初恋相手にして、担任の先生。
十字路で、鉢合った。
「志緒里!! そいつを捕まえてっ! ナギサを葬儀場から連れ出したのっ!!!」
「ねえ、本当なの!?」
「なに!? あたしを信じられないって言うの!? 出来損ないの妹のくせに!」
「ご、ごめんなさい、姉さん」
明本志緒里は元々、運動神経が良好だ。
ナギサちゃんママにも追い付かれて、挟まれた。逃げ切れない。
「ねえ、恵巳、昔はそんな子じゃなかったよね?」
「……」
「もうやめなさい、そんなこと」
「私はもう決めたから。それよりも、知ってるでしょ。この女に、娘を大事にする気持ちなんてない」
ふたりは不気味な程、動じない。
「それでも、子供は親の元にいるべきでしょ。正しいことをしないと、世間から嫌われるから。ほら、ね?」
明本先生から、手を差し伸べられた。
「もう、ハブかれてるのに?」
「まだ戻れるわ」
「大体、世間なんてどうでもいいんだけど」
鳥海恵巳が抱きしめる相手は、青薔薇だけでいい。
「それ以上近づいたら、私もナギサちゃんも、死ぬから」
カッターを取り出し、細い首に刃先を押し当てる。
ナギサちゃんは、ゆっくりと頷くだけだ。
「一体、なにがしたいの……? もう、恵巳のこと、わからない……」
私が、したいこと?
なんだろう。
ナギサちゃんを求める本質。
……ああ、そっか。
「褒めてほしいだけ」
「はあ?」
バカにしたような、笑い声が聞こえた。
「どれだけ頑張っても、誰も褒めてくれないじゃん。大人になったら、特に。当たり前って、バカみたいな言葉を使って」
「それは、一人前の大人って認めた証でしょ」
はあ? なにそれ。
「ズレてるんだよ!!!」
気づいた時には、叫んでいた。
「私が! 褒めてほしいの!!! 他の人なんて、どうでもいいでしょ!?!? 他の誰でもないの。私が私なりに頑張ってるの! それだけなんだよ!? なんでわざわざ話を大きくするの!?!?」
そっか。
私の心って、ずっと不満に思ってたんだ。
「なんで!? 頑張ったら褒めてくれるものじゃないの!? 大人だって、人間でしょ! 他人が頑張ったら褒め言葉を投げかける。それこそ当たり前じゃん!!!!」
言い切った後、明本志緒里の顔をみつめて、返しを待つ。
「恵巳……あなた、甘えてるの?」
まるで、崖から落ちた感覚だった。
ああ。
もう、一生、わかり合えないんだね。
「さようなら。もう、顔も見たくないから」
「待ってっ!」
明本先生の腕が、伸びる。
掴まれた箇所が熱くて、気色わるい。
背筋に羽虫のような存在がせりあがり、とっさに頭を振りかぶる。
額に鈍痛を感じた瞬間、明本志緒里が倒れた。
「……あれ?」
拍子抜けで、地面の上で苦しむ彼女を、傍観する。
「あなた、わかってるの!? これ、れっきとした暴行よ!?!?」
突然、ナギサちゃんママが、襲い掛かってきた。
反応が遅れて、間に合わない。
せめて、ナギサちゃんの体だけでも守ろうとした。その瞬間。
「もういい加減にしてっ! ママなんて、大学っっっ嫌いなの!」
突然、私の抱いていたナギサちゃんが、母親を押した。
あっさりと転んだ後、吸い込まれるように自転車に轢かれて、絶叫が響いた。
今しかない。
とっさに走り出して、駐車場へと向かう。
道中、笑いがこみ上げてきた。
なんだ、あいつら。
私の腕っぷしより、全然弱いじゃん!
全然怖くない。なんで、今まで怯えていたんだろう。
ううん。
わかってるよ。
今日、この瞬間。
空が狭く感じるほどの爽快感を味わうためだったんだ!!!
「あははは」
「ふふふ」
笑いが止まらない。
「ねえ、見た? ふたりの転んだ姿」
「はい。なんていうか……!」
「すごい間抜けだったよね!」
「ふふふふふ」
「あはははははは!!」
あーあ!
なんか、スッキリしちゃった!!
ひとしきり笑い終わった後、お嬢様の体をおろし、レンタカーに乗る。
1時間ほど移動した先で、青薔薇を取り出し、咀嚼し、均整のとれたお口に流し込んだ。
19回。
彼女は、一切抵抗しなかった。
ただただ、私の行為を受け入れるだけ。
終わると、ナギサちゃんの顔は、わらぶ餅のように蕩けていた。
「もう、おしまい……なんですか?」
「ナギサちゃん、毎日記憶を失って、青薔薇を咲かすから」
「……あっ、そうですね。毎朝……」
寝起きに、口移しをする。
「ねえ、ナギサちゃん」
「なんですか?」
「どこまで、両親のことを覚えてる?」
「……あれ?」
やっぱり。
こうなると思ってた。
「恵巳さんのことしか……」
「パパもママも、覚えてない?」
「……はい。顔、ぐらいしか」
「最高だよね」
「そうですね……。本当に、嬉しいです。さすが恵巳さん」
「でしょ?」
ナギサちゃんの記憶領域には、もう、私との記憶しか残っていない。
鳥海恵巳と兎本ナギサは、一緒にいていいの?
答えなんて、決まってる。
ダメだ。今すぐ離れるべき。
でも、いいじゃん。
どうせ、あと1か月で死ぬんだ。
正しさなんて、捨てちゃえ。
私はナギサちゃんと、過ちを犯したい。
静かに、満喫しよう。
腐葉土みたいにボロボロな人生にやっと訪れた、背骨が溶けるほどに気持ちいい青春を。
澄み切った逃避行が、はじまる。




