同日 01:15
「ただいま」
東京に数多く存在する"都会”と言われる場所より少しばかり外れたところに位置する二階建てアパート。そのアパートの錆びれて今にも崩れそうな階段を上がり、奥から二番目を数えた部屋が僕の家だ。
僕は鍵穴に鍵を通すこともなくそのままドアノブを回して、習慣というよりは癖のような形で身についた挨拶をしながら部屋へと入った。
住み始めたばかりの頃は外出するごとに鍵を閉めていたものだが、住み親しんでくるとその辺の危機管理能力が働かなくなってくる。
さらに言えばこのアパートはお世辞にも綺麗とは言えないので強盗や空き巣に入られることがない。彼らもなにもないとわかってる家にわざわざ入る馬鹿ではないのだ。
つまりだ。
鍵を閉めなくてもなんら問題はない――――
「おかえりなさーい!」
と思っていた時期が今となっては懐かしい。
玄関を開ける音で気づいたのだろうか、リビングから少女の歓迎の声が聞こえてくる。
ふぅ、と軽く息を吐いて僕は身体に染み込んだ最後のアルコールを吐き出した。
大丈夫。歩いてきた成果か、あれの成果か……どちらにせよ完全に酔いは醒めている。
僕は廊下とリビングを隔てる扉を開けて玄関へと迎えに来た少女に挨拶をした。
「ただいま、いのり――――いい子にしてた?」
「うん、今日もちゃんと家でお留守番してたよ。テレビ見てたから退屈しなかったし」
「そう、それはよかった」
僕は少しばかり屈んでいのりの背の高さに合わせると彼女の頭を優しく撫でる。
艶とハリの利いた髪は掬ってもさらさらと僕の手をすり抜けていってしまうほどに美しく艶やかでもあった。
「え……えへへ」
いのりははっと驚いて大きく開かれた目から一転、すぐに嬉しそうに目を蕩けさせ頬を紅潮させて、こちらまで癒されてしまうような声を洩らした。それを見て僕もまた自然と口元が緩む。
少女――いのりは不思議な女の子だ。
肌は透き通るように白く透明で、最低限の肉だけが付いた華奢な身体、そしてその小さな体の腰にまで伸びた絹のように美しい髪は年相応には見えず、不思議な魅力を放っている。
さらに言えば、ぱっちりと開かれた大きな瞳と瑞々しく潤った唇は小学校高学年のように思える外見とは裏腹に見た者を忽ち欲情させてしまうほどの色気がある。
だが、まあ……特筆すべきはそこではない。
それだけであれば驚くほど絶世の美少女というようなレッテルを貼るだけで納得はできる、のだ。
でも、なぁ…………
「?」
僕はいのりのほうへ目をやると、少し戸惑ったのかいのりは小さく首を曲げた。
その仕草はその可愛らしい容姿も相まって驚くほど可愛い。可愛いというか最早尊い。アニメとかの作られた仕草とは違う。なるべくしてなっているのだ。天使……いや、女神。
と、そんなことを考えていたら先程まで僕の脳を支配していたいのりへの疑念は地面に落ちたシャボン玉宛らにさっぱりと跡を残すことなくと消えてしまっていた。
全く困った。もう酔っていないと思っていたのに体が暑くなってきた。思考も明瞭でなくなってきている気がする。
断定はできないが……いや、これは確実にいのりのせいだ。いのりが可愛すぎるのが悪い。僕は悪くない、いのりが可愛いのが悪い。
「そ、そんなことない…………わけでもない、かも。で、でもそんなに言われるとさすがに照れちゃう」
…………?
いのりは林檎と見間違えるくらい顔を赤らめて伏し目がちにもじもじしていた。
これは、もしや――――
「もしかして僕声に出してた?」
「うん……ばっちし」
「まじかよ……」
どうやら僕の口は玄関と同じく鍵が掛かっていないみたいだった。
「大丈夫。口に出されると流石に照れちゃうけど、公正がいつもそう思ってくれていることはちゃんと知ってるから」
「怖い、怖いよ。嬉しいんだけどそこが心配だよ」
「……? 公正のことはなんでも知ることができるように努力をしてるから当然」
いのりはさもありなんとうんうんと頷く。
いのりにとっては当然のことだったのだろう。僕の気持ちは何故か知られているが、僕も同じくらいはいのりの気持ちを知れていると思う。
「もしかしたら僕もこんなにわかりやすいのかもしれないな」
「ん? なにか言った?」
「いや、なんでもないよ……それよりいのりさっきテレビを見てたって言ってたけど、何を見たんだい?」
ふと洩らした独り言を追求されないようにいのりの興味を他へと誘導する。
僕がいないときはだいたいテレビを見て過ごしているらしいのだが、それは料理番組だったりバラエティだったりと種類が定まっていないのだ。
だから話題転換とは別に個人的に興味があるところでもある。
「たくさん見たよ。料理番組に笑点にバラエティにアニメでしょ――あ、そだそだ」
いのりは指を折って数えている途中に途端に悪戯を画策している子供みたいな顔をした。
そしてこほん、と一つ咳払いをして、
「お風呂にする? ご飯にする? それとも、わ、た、し?」
僕はいのりがなにを言ったのか理解するのに少しだけ時間を費やした。ざっと5秒くらい。
「いのり? それはどこで覚えたの?」
やっとのことでそう聞き返した僕にいのりは不安そうな表情で話し始めた。
「テレビじゃなくて、パソコン? っていうものを使って出てきたんだけど――――だめ、だった?」
「ああ――いや、ダメなわけじゃないんだ。ただ、その……ね」
そう、だめなわけじゃない。むしろ歓迎するくらい可愛くて尊いものだった。
しかしその台詞の引用元がダメなのだ。だってそれは――――
「みるくなしすたーしんこん性活~おにぃの――」
「ストップ。おーけー。もう大丈夫」
いのりが見たものはつい最近買ったばかりの電子書籍だろう。昨日読んですごく気に入って、そのままパソコンを閉じたから、立ち上げればすぐに出てくるようになっていたのだ。
ちくしょう。一人暮らしで染み付いた鍵を掛けない習慣をこれほど恨んだことはない。
「それで……選ばないの?」
いのりは尚も上目遣いで問いかけてきた。その瞳の裏には決して逃がすまいとする迫力がある。
「きゃっ!」
だから僕はいのりを抱えて部屋の中へと入った。
冷蔵庫とテレビとベッドしかない無機質な部屋で迷いなくいのりをベッドの上に下ろす。
「夜遅いけど、いいよな」
少女の体重分沈んだベッドの上に自分の体を上げ、優しくいのりを押し倒し、腰に巻いたベルトを解きながら問いかける。
どうやら自分の体も我慢の限界らしい。悟のせいでそういう気分になりかけていたからでもある。
「うん…………いいよ」
甘く囁くようにいのりは僕の急所を的確に刺激する絶妙な言葉使いで了承の意を示した。
それを確認して僕も自分の中に残っていた理性というものを残らず捨て去り、また行動の面でもそれを表した。
「はぁ、はぁ……んっ」
いのりの吐息が段々と甘く湿っていき、それと同時に自分の体も熱く滾っていく感覚が増していく。
しばらく僕達はお互いの体を弄りあい、互いの準備が終わったことを確認した。
その頃には僕もいのりもそこで止まるなどできるはずもない興奮に襲われていて、だから僕は今いのりが最も望んでいる行為に出る。
「――――っ! んっ」
自分の欲のままに進み、僕達は今日も繋がった。
いのりの苦しそうだが、それ以上に幸せそうな顔、吐息、肌……すべてのいのりを余さず僕は堪能する。
僕達の関係は歪んでいる。
それは出会った時からそうだし、これからもそうなのだろう。
『おかえりなさい!』
10日……いや、2週間くらい前だったか。
とある日の少女の言葉が脳にリフレインする。
その日は金曜日で、次の日が休日なのをいいことに今日と同じように悟たちと酒を飲んでいた。
ただ今日と違うのはいつも開始のゴングをきる悟が真っ先に酔っ払ってダウンしてしまったこと。そのせいで僕達は解散の流れになってしまい、悟の介抱のために有宇を残して僕は帰路へとついたのだった。
久々の飲み会だったのに目的も果たせず、下半身に蟠りを残したままアルコールに満ちた体を引きずり、やっとの思いでたどり着いた古びたアパート。
緩慢な動きで階段をゆっくりと上がり、玄関を開けると、だ。
――――少女。中学生に満たないくらいの少女が僕を待っていたのだ。
それからはあまり、覚えていない。
アルコールのせいか、少女の美貌のせいか。
次に気がついた時にはベッドの上で少女に馬乗りしている状態だった。
独特の臭いが部屋中に染み付いていて、体から魂が抜けたようにくたっとしている少女の秘部からはその臭いの元凶たるものが流れ出ていた。
そうだ。あの日から、あの日僕は――――
「公正? どうしたの?」
隣から聞こえてきたいのりの声にハッとする。
部屋の中はまだ暗いが、カーテンの隙間から少しの明かりが差し込んでいた。
僕は少し精神を落ち着けて、いのりに返答する。
「少し、昔のことを思い出してた」
「昔のこと?」
「うん、昔のこと。僕の初恋の話だよ」
「は、初恋!? それは誰!? 私気になります!」
いのりは興味津々といった様子で目をキラキラと輝かせながら体をずいっとこちらに寄せてきた。
「それより僕はいのりのことが聞きたいな。例えば、今日はどのぐらい気持ちよかったのか、とかね」
その動作を余裕そうにひらりと交わし、逆にいのりに質問をする。
あれだけ乱れていたのだ。聞かなくてもわかるが、いのり自身に言わせたい。
「え、ええ。恥ずかしいよぉ。まぁでも…………気持ち、よかったよ」
「え? 最後の方がよく聞き取れなかったな」
「もう! いじわる!」
「ぷっ、あははははは」
「わ、笑わないで!」
想像よりぐっと可愛かったいのりに笑ってしまう僕をやっぱり想像よりも可愛く、いのりは咎める。
ああ、そうだ。
あの日から。
少女に逢った、あの日から。
僕はいのりに恋をしている。