グランディア城へ
グランディア王国の中心にそびえる城は、白亜の石で積み上げられ、湖と川の水流を防壁とした要塞でもあった。城壁の上から見下ろせば、交易で栄える城下町が広がり、賑やかな市場と整然とした街並みが見える。夜になれば、月光に照らされて水面がきらめき、その姿は「月映えの城」と呼ばれてきた。
門前には列をなす商隊や役人たちが行き来しており、騎士たちが厳しく出入りを見張っている。そんな荘厳な城門の前に――
「お、来たな!」
朗らかな声が響いた。手を振りながら駆け寄ってきたのは、ブロンドの髪を陽光に輝かせる第二王子、リュシアン・グランディアだった。蒼銀色の瞳は快活に光り、気さくな笑みを浮かべている。
「ノアト! よく来てくれた! 退屈な城に、やっと面白い風が吹いたぞ」
軽装の礼服にマントを纏いながらも、肩に手を置いてくる仕草はどこか庶民的で、王族らしい威厳よりも友人の気安さを感じさせる。
「あれ……なんか、思ってたより普通の……お城?」 ノアトは見上げながらぽつりと呟いた。もっと金ぴかで、これでもかと装飾が施されているのかと思っていたのだ。
「ははっ、やっぱりそう思うか? 兄上なら“質素こそ王家の美徳”とか言うだろうな。俺はもっと派手でもいいと思うんだが」
リュシアンは肩をすくめると、門番に軽く合図して、ノアトを城内へと導いた。
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◆元冒険者の執事
城門をくぐれば、白い石畳の広い中庭が広がっていた。整然と並ぶ騎士たちが訓練を行い、剣戟の音と掛け声が空に響く。侍女たちが忙しく行き来し、書簡を抱えた役人は足早に廊下へ消えていく。
王族が暮らす場でありながら、同時にこの国を動かす「日常の政治の場」でもあった。
「……人、結構いるね」 ノアトは周囲を見回して小声で呟く。庶民目線では、ただ歩いているだけで肩身が狭くなる。
「だろ? 俺にとっては退屈で窮屈な場所さ。だからこそ、お前みたいな奴が来ると新鮮なんだよ」
リュシアンはそう言って笑い、やがて中庭の片隅へと案内した。
そこに佇んでいたのは、黒の燕尾服に身を包んだ初老の男。背筋を真っすぐに伸ばし、深い皺の刻まれた眼差しは鋭く、ただ立っているだけで場の空気を締め上げていた。近くで訓練していた騎士たちも、無言で背筋を伸ばす。
「紹介するよ。俺の師であり護衛でもある――ガロウ・ヴェルナー」
「……」
執事ガロウは無言のまま、ノアトを頭の先から爪先まで値踏みするように見やった。
「……王子の友人にしては、随分と貧相な小僧だな」
「えっ」 あまりに率直すぎる言葉に、ノアトは思わず目を瞬かせる。
「だが、王子がここまで案内してきた以上、無下にはできまい」
ガロウは淡々と続けた。
「……試してやる。貴様に、シーフの心得とやらを叩き込んでな」
「面白いだろ?」
リュシアンは隣でにやりと笑う。
「ガロウの鍛錬は厳しいけど、その分“何か”は掴めるはずだ」
ノアトは「そうだといいけど……」と不安げに呟いた。だが執事の冷徹な眼差しに射抜かれ、結局は中庭へと引き出されていくのだった。
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◆無音歩行
「まずは歩け」
執事ガロウは腕を組み、冷ややかな声を放った。
「足音を立てずに十歩進んでみろ。城の石畳は硬い。下手に踏み込めば響くぞ」
「えっ、それだけ?」
ノアトは拍子抜けしたように首を傾げた。
「“それだけ”だと? 凡人には一生できぬことだ。やってみせろ」
周囲の騎士や侍女たちが足を止め、訓練場に緊張が走る。 ノアトは肩をすくめて、なんとなく一歩目を踏み出した。
――コッ、と、かすかに靴底が鳴りかける。 その瞬間、ノアトの足首が勝手に角度を変えた。重心を滑らせるように移動させ、石の上を撫でるように着地する。
(あ、今の踏み方だと鳴るなって感じがした)
子供の頃、猫に忍び寄って抱きかかえようと、何度も「足音を殺す遊び」をした記憶が、体の方だけに残っていた。
二歩、三歩、四歩――。
十歩歩き終えても、訓練場は静まり返ったままだった。 靴底が石畳を踏むはずなのに、まるで風がすり抜けるように音がない。
「……っ!」
ガロウの目がわずかに見開かれた。
「な、何も聞こえない……」 「気配すら感じさせんだと……?」 周囲の騎士たちがざわめく。
執事は沈黙したまま、目を細める。
「……まさかここまでとは。磨かれた足運び……何者に仕込まれた?」
「いや、別に誰にも……」
ノアトが言いかけると、リュシアンが腹を抱えて笑った。
「はははっ! どうだガロウ、俺の友はただの庶民じゃないだろ!」
「……認めざるを得ん。だが油断するな。足音を消せても、敵は目で追う」
執事は苦々しく言い、次の課題を命じる。
(猫に飛びつかれたくなくて、逆に先に近づいて抱き上げてた頃の癖が、まだ抜けてないだけなんだけどな……)
ノアトは心の中でだけ、そんなことをぼんやり思った。
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◆鍛錬・即興判断(五色の紐)
「次の課題だ」
ガロウが訓練所の柱に五色の紐を結びつけた。赤、黄、緑、青、黒――どれも同じ太さの縄だが、結び方や張り具合は微妙に異なっている。
「この中の一本だけが“正解”だ。それを切れば試練は終わる。だが他の紐を切れば……」
「まさか……」
「そう……訓練所の後片付けを、三日三晩、手伝ってもらう」
「えー……なんで」
訓練場に笑いが広がる。重労働の掃除は誰もやりたがらない。つまり間違えれば後片付けが待っている。
ノアトはやる気なさそうに前へ出た。
ガロウは腕を組み、目を細める。
「……即興判断を試すのだ。よく見ろ。結び目の固さ、縄の擦れ、僅かな影……そこに答えがある」
周囲の騎士たちも息をのむ。
ノアトは五本の紐を順番に眺めた。
赤は結び目の根本にうっすら灰がついている。黄はところどころ毛羽立ち、黒は柱の影で張りにムラがある。
青だけが、なぜか一番「何も引っかからない」感覚だった。結び目の影も、張り具合も、見ていて一番落ち着く。
(……なんか、青だけ“嫌な感じ”がしないな)
けれどノアト自身は、その感覚を大して重要なものと捉えていない。
(まぁ、青好きだし。好きな色にしておこう)
「俺、青が好きなんだ」
すっと腰の短剣を抜き、ためらいなく青の紐を斬り落とした。
……ギュッ、と結び目が解け、他の紐が揺れる。
仕掛けは外れ、正解の青縄だけが床に落ちた。
「……っ!」 「青だと……!」 「迷いがなかった……!」
訓練所にざわめきが走る。
ノアトは首を傾げた。
「え、これで合ってた?」
ガロウは唇を引き結び、低く呟いた。
「……本能で、正答を掴む眼か。曇りなき眼……恐ろしい」
リュシアンは隣で腹を抱えて笑った。
「はははっ! だから言ったろう、ノアトは天才だって!」
(外れたら三日分の掃除か……って覚悟してたんだけどな。まぁ、当たるに越したことはないか)
ノアトは(なんとかなってよかった)と心の中でだけため息をついた。
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◆鍛錬終了
ガロウは腕を組み、鋭い眼差しを崩さぬまましばし沈黙していたが、やがて低く唸るように言葉を漏らした。
「……まったく掴みどころのない男だ。だが……侮れん」
「だろ?」
リュシアンが嬉しそうに笑い、ノアトの肩を叩く。 「いやあ、見ていて退屈しなかった! ガロウにここまで言わせる奴、そうはいないぞ」
「特殊な鍛錬でも、なんとかなるもんだね……」
ノアトは困ったように頭をかいた。
リュシアンはにやりと笑って、言った。
「せっかくだし、今日は泊まっていけよ。城は広いし、客間も山ほど余ってる。晩餐も用意させるからさ」
「え、いいの? なんか気を遣うけど。でも晩餐は頂きますが」
「気にすんな! むしろ俺が嬉しいくらいだ。友が城に泊まるなんて滅多にないからな」
ノアトは少し考えたあと、頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
こうしてその夜、ノアトは城の客間で眠り、翌朝を迎えることになった。
王族の城に泊まるという非日常の体験も、本人にとっては「ちょっと気まずい宿泊」に過ぎないが、美味しいご飯がそれを上回るのは言うまでもない。
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◆王女アメリアと初遭遇
朝の城内は静かだった。広々とした白亜の廊下には、時折、侍女の足音や遠くの鐘の音が響くだけ。
ノアトはその廊下をひとり、ぼんやり歩いていた。 「……リュシアン、どこ行ったんだろ」
普段なら、こうした廊下を王族以外が一人で歩くなどあり得ない。だが今日は、リュシアンが「客人だ」と通してくれたおかげで、誰も咎めない。
しかし――
長い廊下を歩く彼の背を、じっと追う視線があった。
普段、城に庶民の来客が泊まることなどほとんどない。その珍しい存在を、怪しむように後ろからつけてくる者がひとり。
それが、グランディア王家唯一の王女――アメリアであった。
彼女の少し後ろには、控えめな距離を保つ侍女と護衛が数歩離れて付き従っている。だがアメリアが軽く手を振ると、彼らは立ち止まり、一定距離を保って様子を見るにとどめた。
ノアトは壁に掛けられた大きな絵画や重厚な燭台に目をやりつつ、考え込んで立ち止まる。
「んー……戻るか?」
その後ろから、小さな足音が近づいていた。
そして次の瞬間――
角を曲がったところで、ノアトと誰かが正面からぶつかった。
「うわっ!」 「きゃっ!」
よろめいたノアトが慌てて手を伸ばし、細身の少女を支えた。
ブロンドの髪がさらりと揺れ、蒼銀の瞳が驚きに見開かれる。
気品に満ちたドレス姿。間違いなく、ただの侍女や客人ではない。
「ご、ごめん、大丈夫?」
ノアトが慌てて謝る。
少女――アメリアは眉をひそめ、プイと顔を背けた。
「な、何をしているの! 廊下の真ん中で立ち止まるなんて、庶民らしい無作法だわ!」
「も、申し訳ありません。友のリュシアンを探しておりまして……」
アメリアはきょとんとし、次に指をピシッとノアトに向けた。
「兄上なら今日は出かけているわ。……それより、あなた何者? 勝手に城内をうろついて、何を企んでいるの?」
「企む? お嬢様、それは誤解です。ただの迷い人で……」
ノアトは困ったように手をひらひらさせる。
アメリアはしばし黙ってノアトをじっと見つめ、
やがて視線を逸らした。
「……べ、別に庶民のことなんて気にしてないけど! 変な真似は許さないんだから!」
言い残すと、ドレスの裾を翻し、彼の前を歩き去っていった。
侍女と護衛が慌ててその後を追う。
ノアトは唖然と立ち尽くし、立ち去る王女様?の背中を見送った。
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◆訓練所のベンチ
翌日の午前、ノアトは訓練所の片隅のベンチに腰掛けていた。
剣戟の音が響く中、城の騎士たちが整然と鍛錬に励んでいる。
だがリュシアンも執事ガロウも姿はなく、ノアトは所在なさげにぼんやり眺めていた。
「……あなた、どうして見ているだけなの?」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると――昨日ぶつかった王女様?が立っていた。
陽光を受けたブロンドの髪がきらめき、蒼銀の瞳はきらりと挑むように光る。
少し離れた位置には、やはり侍女と護衛が控えている。アメリアが手を軽く振ると、彼らは一歩下がり、距離を取った。
「え? あっ……昨日のお嬢様。おはようございます」
ノアトは慣れない敬語で、丁寧風に頭を下げて挨拶をした。
アメリアはわずかに顎を引き、礼を返す。
「そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたわね」
彼女はドレスの裾をつまみ、優雅に一礼した。
「申し遅れました。わたくし、グランディア王国第三王女アメリアと申します」
「(やっぱり王女様……。よく見ると髪色もリュシアンと同じだ)
ノアトと言います、ご丁寧にどうも。実は冒険者でシーフをやっています。前で殴り合うのは得意じゃないんで、基本は後ろで様子見ながら、隙あれば手を出す役ですね」
「……シーフ、ですって?」
アメリアは少し目を丸くし、すぐにツンと顎を上げた。
「兄上と同じ立場ということね。ならば、試させてもらおうかしら」
アメリアは小さく咳払いをして、ドレスの裾を揺らしながら言った。
「わたくしを――市場へ連れて行きなさい。護衛や侍女抜きで、庶民の町を案内してちょうだい」
「……えっ?」
「成功したら……そうね、褒美を与えてもよくてよ」 彼女の瞳が、意地悪く細められる。
「褒美って……?」
ノアトは怪訝そうに尋ねる。
アメリアはふふんと胸を張り、言葉を放った。
「――あの博覧会に出ていた遺物、無限匙よ」
ノアトの目が、カッと見開かれる。
「え、今なんて……エターナルスプーン!?」
アメリアは少しだけ得意げに微笑んだ。
「あれは博覧会のあと、気に入って父上にねだって譲り受けたの。今はわたくしの“おもちゃ”として城の保管庫に置いてあるわ。だから――わたくしが許せば、しばらくあなたの手元に置かせてあげることもできるの」
次の瞬間、ノアトは身を乗り出し、王女の前へ食い気味に叫んだ。
「アメリア様、今すぐやりますよ。さぁ行きましょう!! ぜひ行かせてください!」
猫も驚くような勢いに、アメリアは思わず一歩後ずさる。
「な、何その必死さは!? 庶民ってそんなにスプーンに飢えているものなの!?」
ノアトは真剣な表情で言い切った。
「あなたは理解していない。それは永遠……冒険者の夢!」
訓練場に居合わせた騎士たちが、思わずざわめく。 「……やはり庶民の執念か……」 「いや、逆にスプーンごときにそこまでの熱意があるのは冒険者の鏡だ……」 「ていうか、あれ遺物だったのか……?」
アメリアは耳まで赤く染めながら、強気を装って言い放った。
「……い、いいでしょう! そこまで言うなら、わたくしを市場へ案内なさい!」
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◆城を抜け出す準備
「市場に連れていけ」と言ったものの、アメリアは自室に戻ると早速、侍女たちに取り囲まれていた。
「姫様、今日は学び舎での魔法剣の稽古が――」 「午後からは裁縫師が来て、新しいドレスの採寸を――」
予定を矢継ぎ早に告げる侍女たちに、アメリアはむっと唇を尖らせた。
「そんなの後でいいの! わたくしは……今日は庶民の町に出かけるの!」
「へ、陛下のご許可は!?」 「護衛なしでなど、とんでもない!」 「アメリア様にもしものことがあったら……」
部屋は一瞬で大騒ぎになった。アメリアは耳まで真っ赤になり、思わず声を張り上げる。
「し、しつこい! べ、別に庶民の真似事をしたいんじゃなくて……ただの視察よ、視察!」
そのとき、窓辺のカーテン越しにふっと影が差した。
誰も足音に気づかなかったのは――無音で石壁をよじ登ってきたシーフのせいである。
「準備できましたー?」
カーテンをそっとめくるようにして、窓の外からひょっこり顔を出したのはノアトだった。
「きゃっ!? な、なぜ窓から!?」 「いや、正面から行ったら護衛に止められますので」
庶民的でありながら、プロの盗賊じみた発想に、アメリアは思わず固まった。
「……っ! こ、こんな真似、初めてよ!」
「これがシーフというものでは?」
ノアトはにやりと笑って手を差し出す。
アメリアは一瞬ためらったが、やがて小さく深呼吸して、その手を取った。
「……べ、別に怖いわけじゃないの。ただ、緊張してるだけ」
「そうでしたか。大丈夫です、そこまで治安は悪くありません」
窓からそっと身を乗り出し、二人は裏手の庭に降り立った。
ノアトは周りに注意を払いながら、手際よく壁沿いを進み、人気のない裏道へと誘導する。
アメリアは思わず感心したように彼を見つめた。 (なぜ兄様の“抜け道”を……)
やがて二人は城の裏口にたどり着き、ひっそりと市場への道を歩み出した。
王女とシーフの「市場デート」が、こうして始まるのだった。




